黒い母 影のない國

杏樹まじゅ

【序.一九四五年八月十四日 昼】

【一.ジョーンズ上等兵】

 命を奪ってはならない。


 穢れは次の穢れを孕む。

 穢れを身のうちに湛えてはならない。


 命を奪ってはならない。



 一九四五年八月十四日、日本時間午後十二時四十分。

 紀伊半島南東沖約五十キロ。高度六千メートル。


 左舷の砲手──ガンナーを担当する、若き黒人兵、ジョーンズ上等兵は震えている。

 彼の緊張の程ときたら、機銃のトリガーを握る手が、グローブの中で感覚がなくなるくらいなのだ。


 窓の外は一面の群青色。六千メートルだから雲より高いのだ。

 でも今は、空の色がなんだか薄く感じる。空気が薄いせいかもしれないし、単純に彼が緊張しているだけなのかもしれなかった。


 B29、機体番号A-76-BN・機体名『リリアン・グレース』は、目標であるオーサカにある陸軍造兵廠を破壊すべく、百四十五機もの大群となって、群れの中で自慢の巨大なターボチャージャーエンジンを唸らせていた。


 サイパン・イスリー飛行場を飛び立ったこの天空の要塞を脅かせるものは、世界中のどこを探しても多くはない。

 数え切れない程の空爆を繰り返してきたこれから向かう極東の島国には、もう反撃する力すら残っていないだろう。

 積み込んだ二千ポンド爆弾をひとたびばらまけば、ひ弱な日本人たちは蜘蛛の子を散らすように逃げ回るに違いない。


 だがしかし──この黒人青年兵は、身震いが止まらない。


 これまで二十四回、この『リリアン・グレース』と空を駆けた。

 二十五回のツアー──軍により定められた任務回数──の完遂まであと一回。


 この任務を終わらせれば本国へ帰れる。帰国後は真っ先にアリゾナに置いてきた妻に会って、あの美味しいキャセロールを食べさせてもらいたい。


 日本人であるせいでご近所からはいじめられても、懸命にジョーンズを支えてくれる、彼の最愛の妻。


 あなたはいつも正しいわ。いつも励ましてくれる彼の妻は、ジョーンズが上等兵となっても変わらず愛してくれる。


 彼女への思いが、彼の体を音が鳴るほどに振るわせているのかもしれない。


 若しくは。かの国にはまだ隠された新型兵器が、この期に及んで残っていて、それが今まさに牙を剥かんと、飛行場で今か今かと待ち構えている恐ろしい予感がするからかもしれなかった。


 実際には後者の方が正しいと言えた。


 敵の主力機・ジーク──零式艦上戦闘機──は、この天空の城の前では無力だ。

 何度となくこの機体と日本本土を爆撃してきたが、ジークの脅威に晒されたことはない。


 だが、彼の今乗るここはスクールバスでもなければ、地元アリゾナの田舎道でもない。恐ろしいのは。


 ジャック──雷電だ。


 初めて襲われたのは十八回目の作戦の時。僚機が撃墜された。


 一瞬だった。


 敵襲の無線を聞いた時には既に手遅れ。

 無敵と思えた天空の城が彼の目の前で炎を吹いて沈んでゆく様は、この上ない恐怖と絶望を与えた。


 実際の所、ジョーンズ上等兵にとってはスクールバスに乗る学生であった。十七回目の飛行までは。

 アリゾナの、トウモロコシ畑を横目に走る、懐かしいあの。


 ゆえに、彼は今震えている。


 戦場にいる、という事実に対する途方もない焦燥によって。


 あまりの震えに、小一時間前から首筋が痛くて痛くてたまらないほどなのだ。



『敵襲! 敵襲だ!』


 有線ヘッドセットからブロンソン軍曹の怒号が飛び込んできた時、ジョーンズ上等兵は少しだけ眠気に捕らわれていた。


 よって、初撃にはまったく対応できなかった。


『左舷側、十時方向、ジャックが三機だ! ジョーンズ、ジャックが三機だ!』


 鉄の礫が雨あられでぶつかるような音が『リリアン・グレース』の機内に響く。

 聞いたことのない音だなあと思い振り返ると、見えるはずのない青空が見える。


『くそ、アッシュフォードがやられた! ジョーンズ、何してる! 撃て、撃て!』


「あ」


 機関士で仲の良かった戦友が身体中穴だらけで真っ赤に転がっているのを見て、初めて彼のスクールバスが被弾したと知った。


「ああああ──っ」


 恐怖と緊張で、喉から出る音を垂れ流しながら、ジョーンズ上等兵は機銃を乱射した。


 結果、あり得ないほどの偶然に──日本兵から見れば不幸にも──三機の一番うしろのジャックに命中した。


 深緑の機体は、すぐにエンジンに引火して、オレンジの光を放ったあとバラバラに砕けた。


 コックピットのガラスが真っ赤に染まったのが銃座に座る彼にも確認できたので、初めて彼は。


 ──自らの手で人を殺したのを知った。


 同時に、後頭部から首筋にかけて激痛が走り始める。


「い、いいい、いたい、いたい!」


 まるでだった。

 けれど残酷にも、戦況は待ってくれることはない。


『ジョーンズ、何してる、撃て、撃たんかっ!』


 首筋を押さえて脂汗をかきながら蹲る彼が、目を上げた時。

 ジャックの一番機が機銃の雨を天空の要塞の左舷に向けて放っていた。


 二十ミリもの大口径の機銃は、気密性に優れた『リリアン・グレース』の壁面をウエハースみたいに粉々に砕いた。


 命中したのは三十五発。


 不幸なことにひと欠片が、ジョーンズ上等兵のお腹に五センチの大穴を空けた。


 ぎゃあああ。


 血を噴きながら喉が焼けるような絶叫を上げたが、彼の上官がヘッドセット越しに彼の悲鳴を聞くことはなかった。


 直後、第二波の機銃掃射を受け、積み荷の二千ポンド爆弾に引火した『リリアン・グレース』は大爆発を起こし、紀伊半島の山地に瓦礫と焼け焦げた兵士たちをばらまいた。



 この後、日本はその歴史に残る最後の空襲を受け、翌日、無条件降伏を受け入れた。


 彼らの歴史の裏側で、生きてきた者たちがいる。

 影のない、逃げ場のない日差しに身を焦がされながら。


 命を奪ってはならない。


 小さな小さな声で、言い伝えながら。

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