弐
一瞬、呼吸が止まった。
唐突に響いた笑い声。
でも、その声は決して友好的なものなんかじゃなくて。
何処にいるかも分からない相手に対して隠れるか否かを逡巡していたとき、ぐっと手首を掴まれた。
「とりあえず隠れようぜ。いくら死なないとはいえ、なにもせずに見付かるよりはマシ……」
「いやああぁぁああっ!!」
「え?」
他の声が聞こえた。
声質からして香川さんじゃないことは確か。なら、彼女に同伴していた山川くんも除外。
じゃあ誰……?
そう思ったのも束の間、その声はどんどん私たちに近付いてきていて。
『アハハハッ! 鬼ごっこだぁ!』
少女らしい無邪気な声。無邪気だからこそ、恐ろしい。
「いやぁ! やだ来ないで! どっか行ってよ!!」
叫び、逃げ惑う声もやはり女。
そのふたつの声が徐々に近付いてきている、ってことしか、私には分からなくて。
「……春永?」
「助けないわけにはいかないでしょう? 大丈夫、この場所なら見えないわよ」
たぶんね。
そのままふたりに気付かれない、大岩の影という位置でその様子を伺う。長く伸び放題の黒い髪が、執拗にひとりの女を追い回していた。
───今だ。
女の身体がこちらへ近付いた瞬間を狙い、逃げ惑う彼女の腕を力ずくで引いた。
突然進路が変わってしまった彼女の身体は、当然ぐらりと傾くわけで。
「きゃあっ!?」
突然別の場所に引き込まれたせいか、混乱する彼女の口を抑えながら落ち着くよう促す。
「大丈夫だから落ち着いて。貴女が逃げていたのはあの女の子でしょう?」
私の言葉に漸く彼女も落ち着いたようで、手を離すと「あの子は……」と呟いた。
「さぁね。私たちも貴女を見付けて引っ張っただけだから。あの子がなんなのか、どういった害を及ぼすのかも、私たちには分からないわ」
「……助けてくれて、ありがとうございました。あの、他に人は見てませんか?」
落ち着きを取り戻した彼女の言葉に、倉沖くんが「他?」と返す。
「えぇ。他にも、はぐれてしまった友人がいるんです」
「他……ねぇ。俺たちと別行動してる奴ら以外は見てないよ、ごめんね」
倉沖くんの言葉にそう、と返す彼女は、ふと思い出したように言った。
「すみません、けど、お名前は?」
「あ、そうだな。俺は倉沖悠樹。こっちは春永唄乃」
あっさりとこちらの紹介を終えた倉沖くんを見ながら、私は思わず硬直してしまった。
「ん? あれ、どうした春永?」
「隠れて!」
小声で叫ぶと、ふたりが私の視線を追う。
そこにいたのは、赤く染まった手入れされていない髪をだらしなく引きずっている女の子。
別に、それ自体は異様なだけで危険性はそこまでないかもしれない。でも。
『めーだーかーの学校はー……』
「……めだかの学校、か……」
この唄が、問題だ。
「めだかの学校? そんなの、なんの関係が……?」
意味を理解できていないらしい女の子。倉沖くんを見ると、彼も分からないというように首を振った。
「説明してくれ、春永」
「……めだかの学校、歌は知ってるわね?」
私の問いに頷くふたり。だったら問題ないはず。
「私たちが小さい頃に何気なく歌っていた童謡のほとんど。それらには、大抵悪い意味が隠されてるのよ」
私の言葉に、ふたりが「それは知ってるよ」と言うように頷いた。
「めだかの学校もそのひとつ。意味は……簡単に言ったら死んだ子どもの誘い」
ふたりの表情が強張る。
「とは言っても、ただの仮定よ。詳しい意味、知りたい?」
無言で頷く彼らを見て、なるべく声を抑えながら説明を始める。
「まず、歌詞に出てくるめだかの学校。このめだかっていうのは死んだ子どもたちを意味しているの。……恐らく、だけど、死因は水に関係があるとされているわ」
倉沖くんが度々振り返って女の子の動向を伺っているものの、私の話はしっかり耳に入っているようで。
「で、めだかが死んだ子どものことだとして、それでなんで危険性が……?」
「───川の中、って言うのは、三途の川を意味している」
びく、と名前の知れない少女の肩が跳ねた。
倉沖くんも驚いたように目を見開いて、表情を強張らせる。
「つまり。この歌には死んだ子どもが三途の川の中で遊戯をしていて、時折生きている人間を見付けて手招きする……大まかに言ってしまえば、そんな意味が含まれているらしいわ」
「……そんな危ない意味があったのかよ……ってか、なんで春永そんなに詳しいの?」
なにも知らずに、無邪気に歌っていた頃を思い出したのか、少女が僅かに肩を震わせた。その隣で倉沖くんがそんな問いを投げかける。
「……色々あってね。他の童謡も、いくつかは知ってるけど」
「……へぇ」
「それより」
す、と物陰から女の子の様子を伺いみる。
「……あれ……?」
おかしい。さっきまでいたはずの女の子の姿が、ない……?
『───…………見ーつけたっ』
ぞくりと、背筋が凍った。
傍で悲鳴が上がる。視界の隅で、倉沖くんが少女を逃がしたのが見えた。
「春永、走れ!」
ガッと腕を掴まれて、もつれながらも走り出す。
『アハハハッ! 一緒に遊ぼうよぉ!!』
赤い髪を振り乱しながら子どもとは思えない勢いで迫ってくる女の子。
『キャハハッ!! 待て待てぇっ!』
「待てって言われて待つようなバカがどこにいるんだよ……っ!」
赤い髪の毛が宙で踊った。その髪は、よく見れば地面に染みを作っていることがはっきり分かるほどに濡れそぼっていて。
「倉沖くん、先に行ってあの人についてて」
「はぁ!? アホかお前はどうする!?」
「ちょっと気になることがあるの! それが分かったらすぐ追うから!」
まだなにか言いたそうな表情はしていたものの、先を進む彼女をひとりにすることはできないと判断したらしく、「すぐ来いよ」とだけ言って走っていった。
さて、あとは全力で逃げるだけだ。
なるべくふたりから遠ざかるように、と女の子の真横を走り抜ける。もちろん、彼女が追ってこられる速さで。
一瞬立ち止まった女の子は、すぐさま私の進行方向に合わせて自身の身体の向きも変えた。
そして、再び信じ難い速度で私目掛けて走ってくる。
逃げないと。今の状態で余計なことをしようものなら確実に怪我をする。
もうそろそろ子どもに追いつかれるかもしれない、と頭の片隅でそんなことを考えた直後。
───ぱん、と音が聞こえた。
「鬼さんこちら、手の鳴るほうへ」
突然後方から聞こえた、唄うような、柔らかい声。
その出処を探るように視線を彷徨わせれば、岩陰から姿を見せる、黒絹のように滑らかにうねる髪をアップにした少女が女の子に向かって手を鳴らしていた。
少女の茶色い瞳が楽しげに細められる。
───今の。
くるりと向きを変えた女の子は、その少女と私を見てニタァ、と笑った。
それを認めた少女が、手を止めて私に声をかける。
「逃げましょう。……喰われたくなければ、ね?」
どこかこの状況を楽しんでいるようにも思えるその声色には、どうしても恐怖心を見出すことができなくて。
「……そう、ね」
たっ、と駆け出す。
少女の後を追うように、私は後ろを振り返ることなく走った。
しばらく走ると、前を走っていた少女がくるりと後ろを向く。
そして、彼女はおもむろに走る速度を落とした。
「ストップ、ちょっと休憩かしら? ……疲れたみたいねぇ」
言われて振り返ると、走り疲れたためか地面に座り込んでいる赤い髪の女の子。
気の触れた子どもと言っても、やはり元はただの少女ということか。
「……ねぇ、」
「休憩終了、みたいよ。貴女、お名前は?」
「……春永唄乃」
「あら、素敵なお名前。わたしは時雨紗七。よろしくね」
互いに簡素な自己紹介を終えると、どちらともなく走り出す。
不思議と、見も知らぬ少女とともに逃げているということに違和感を感じなかった。
違和感だらけのこの世界に浸ってしまったからだろうか。
「いい? 次、あの森に入るわよ」
「……私はいいけど、貴女は大丈夫なの?」
目の前の森。
それは、自殺者の死体が葬られている場所だと、最初に聞いた。
魂のない器は───……。
「……? なにか、問題でもあるの?」
「……聞いて、ないの?」
あの男性に聞いたすべてを話すと、時雨さんはそう、と呟いて。
「いくら死なないとはいえ、あまりにリスクが高すぎると思う。下手に近付いて怪我をするよりも、少しは計画を立てて動くほうがよっぽど安全だわ」
「確かにね。……でも残念。わたし、スリリングな体験が好きなのよ」
楽しそうに声を弾ませる時雨さん。
そんな彼女を見て、私ははぁ、とため息をつく。
にっと笑ながら森を見据える時雨さんは、次に私を見て。
「どう? 貴女はリスクを負ってあの森に入れる?」
「───……まったく。怪我したって知らないわよ」
その返事をどう受け取ったかは、少なくとも彼女と知り合ったばかりの私には分からない。
とても楽しげな彼女の表情から察するに、きっと賭け事を好むというのは本当なのだろう。
「決まりね」
楽しそうに声を揺らした時雨さんに頷き、落としていた速度を再び速める。
「入るわよ。作戦もなにもないけど、いいのかしら?」
「……えぇ、なにかあっても、そのときはそのとき。さっさと行きましょう?」
ふふっと笑った時雨さんは、そのまま赤い髪の女の子を一瞥して。
「鬼さんこちら、……手の鳴るほうへ」
───再び、ぱんっと手を鳴らした。
『っ……! そ、』
女の子の様子が僅かに変わる。それに気付いた時雨さんも、振り返って足を止めた。
『その森に入るなああぁぁああぁぁぁぁぁぁあああああっ!!』
突然勢いよく跳躍した女の子に、さすがに私たちも驚いて慌てて元来た道を戻ろうとする。
が、身を翻して気付いた。
「……ねぇ、今」
「えぇ、言ったわね」
───その森に入るな。
その言葉はまるで、この森には私たち生者しか入れないという意味が込められているように思えて。
「入ってみましょうか。不幸中の幸いとでも言うべきでしょうね。あの子、高く飛びすぎ」
そう言って呑気に笑う時雨さんに同意を示し、私たちは再び森を目指して駆け出した。
やめろ、入るな。
今までとは一変した女の子の刺々しい言葉を受け流しながら、私たちはさっさと森の中に足を踏み入れる。
森に入った瞬間、入口までは全く気配を見せていなかった異臭が鼻を突き抜けた。
「…………どうやら、自殺者の死体が溜まっているというのは事実みたいねぇ」
「本当。……一体、何年前からこんな世界ができあがってたんだか」
異臭の原因は、たくさんの山積みにされた死体から漂う腐乱臭だった。その死体の中には、最初に会った男性の身体もある。
「……動き出したら、とりあえずそれぞれ勝手に動いて撹乱させてみる?」
「通じるか分からないけどね」
私の切り返しに確かにねと笑った時雨さんだったが、いざ死体が動き出したときの彼女の行動は機敏だった。
「じゃあ、そっちは任せたわね!」
自分勝手に動き出して本当に死体を撹乱させる彼女を見て、私もとりあえず走り出す。
……死体が動くっていうのは面白くもなんともないから、さっさと済ませたいというのが正直な気持ちだったのだが。
「春永さーん! この死体、蹴ったら動かなくなるみたいよー?」
「は?」
遠くで手を振りながら傍の死体を思い切り蹴り上げる時雨さん。
蹴飛ばされた死体は、今度こそ本当の死体に戻ったようだった。
…………いやいや。
「嘘でしょ……」
思いながらも、試しに傍にいた死体を渾身の力で蹴飛ばしてみる。
と、死体はあっさり倒れ、すぐに動かなくなった。
「……この森が一番安全なんじゃない?」
「ふふっ、そうかもね。わたしたちが一回出てまた入ったとき、動いていなければ」
笑顔で死体を蹴り上げる美少女。なんともまぁシュールな光景を見ているものだ。
「……と、まぁみんな蹴っ倒しちゃったんだけど。手応えないわねぇ」
「手応えを求めるものでもないと思うけどね」
「確かに」
くすくすと笑う時雨さんといると、どうしても緊張感が削がれてしまう。ここまで肝が据わった人も珍しいものだ。
口元に手を当てて笑みを零す時雨さんが、「あぁ、それから」と言い足した。
「わたしのことは紗七って呼んでちょうだいな。貴女のことも、唄乃でいいかしら?」
「え? あ、……構わないけど」
咄嗟に答えた私に対し、時雨さん……紗七は、「わたしのことも名前で呼ぶのよ?」と笑顔で言い足す。
「分かったわよ。……えーと、……そう、紗七って呼べばいいのね?」
「……今わたしの名前忘れていたでしょう?」
不機嫌そうな表情を浮かべるものの、本気で機嫌を損ねたわけではないようだ。
「ごめんなさい。暗記が苦手で」
「人の名前くらい覚えないと、相手に失礼じゃあないかしら?」
「……そうだった。他の人たちにも、このこと伝えた方がいいわよね?」
思いっきり話を逸らす。
だがそれは紗七も思っていたことのようで、私の言葉に「そうよねぇ」と返した。
「わたしも友人とはぐれちゃってここにいたのよねぇ。唄乃も?」
「えぇ。……それと、たぶん、だけど。貴女のご友人、私のクラスメイトと一緒にいると思うわよ」
「あら、そうなの?」
それなら安心ね、と笑う紗七を見ながら、そっと森の外の様子を伺う。
あの女の子は既に諦めたようで、再び「めだかの学校」を歌いながらふらふらと歩き出していた。
「探してみる? あの子もどこか行っちゃったみたいだし」
「……そうね。怪我してなきゃいいけど」
呟きながら立ち上がる。
「紗七はどうする? 他の知り合い探す?」
「いやよ。こんな途方もなく広い場所からどうやってたったひとりの友人をひとりっきりで探せって言うのよ?」
「……ひとりなの? というか、なんで私がいるのにひとりで探すことを前提にしてるのよ」
「わたしが見つけた子は、だけどね。……手伝ってくれるの?」
「ここまで聞いておいて、『じゃあ頑張ってね』なんて放り出す人間だと思われていることは心外ね」
ともあれ、一度紗七と彼女を合わせてみないと分からないというわけか。
さて、彼らはどこにいるのやら。
しかし、現状問題はそれだけではなかった。
「……紗七」
「なぁに?」
「このだだっ広い空間のどこかにいる彼らを、一体どうやって探せというの……?」
森から一歩出れば異臭はしなくなる。代わりに、周りが危険な空間に変わるのだ。
そんな中、一体どうやってあの四人を探せというのだ。
「足を使うしかないわねぇ」
「それは分かってるけど」
なんとなく、怖いと思った。
「怖い? なにが?」
「……分からない、けど、なにかが怖い」
「……そう。奇遇ねぇ」
「え?」
紗七が言うには、彼女も途中、得体の知れない恐怖に襲われてしまったらしい。
私のように、今まで続いているわけではないらしいけれど。
「なんなのかしらね……」
四六時中、全方向から誰かに見られている。
そんなまとわりつくような視線が、常に付きまとっているのだ。
「どうしましょうか。どちらかがなんともなければ分かれて行動していただろうけれど」
「私はひとりでもいいけど、貴女は?」
「わたし? ……正直に言わせてもらえば相当怖いわね。こんな状況下で、ひとりで動くなんて」
正気の沙汰じゃない。
そう言って苦笑する紗七を見て、「じゃあ」と口を動かす。
「まずは彼らを探しましょう。それが先決よ」
私の言葉に、紗七はそうねと笑って。
私の一歩先を走り出した。
「あ、」
「早く来ないと置いてくわよ?」
ふふっと笑う紗七。
先ほどまでの余裕を取り戻したかのように見える彼女に僅かな安心を抱きながらも、口先では文句を垂れる。
「待ちなさいよ! ひとりじゃ怖いって言ってたくせに!」
「あら、貴女が先に怖いって言っていたんじゃない?」
「もう……っ」
言いながら走り出す。
このとき、紗七がいてくれて良かったと、なんとなく思った。
丑三つ時通り、神隠し村 夕凪 @yuunagi0427
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