第45章 懐古病



赤い風が、草原を撫でていく。

二人は並んで走っていた。




シュンと、タケル。



赤い空の下、雨粒はもう痛くはなかった。

むしろ、優しく包まれているような感覚さえあった。


歩を進めるたびに、足元がぐにゃりと歪む。

地面はどこまでも不安定で、まるで夢の中を走っているようだった。




「……なぁ、シュンさん。あの子に会って、どうする気なんだ?」

タケルがぽつりと問う。


「……わからない。だが…このまま怖がっていても意味はない。」

「“あの子”が、いったい何者なのか。俺たちが、なぜここにいるのか。踏み込んだ質問をしてみよう。たとえ…まだ小さくて理解できなくても。」




その言葉を口にした瞬間、

視界が、ぐらりと揺れた。


「ぐぅっ……!?」



シュンが足を止め、頭を押さえる。




「どうした!? シュンさん!?」


タケルは不安になり周囲を警戒した。


しかし、どのキューブも反応した様子がない。




「う…あ、ああっ——!」


視界が、裂けるように二重にぶれた。

赤い空間が波打ち、そこへ現実の光が割り込んでくる。

目の前を、“青白い光”が何度も横切った。


(——幻覚? 違う…これは…ライト…天井の……?)

(…思い出じゃない…! これは、なんだ……!?)


立っているはずなのに、身体が傾き、

背中が何か冷たいものに押しつけられる。

意識が上下を失い、世界がひっくり返る。


ガラガラガラガラ——!


耳の奥に、金属とゴムが擦れるような音。

何かが揺れ、振動している。

それは、赤い空間に響く“異音”のようでありながら、

現実から伸びてくる救助の手の音でもあった。


(……タンカ……? 運ばれてる……?)


喉が焼けるように熱く、声にならない呻きが漏れる。

——赤い光と青い光が交錯する。

どちらが現実かもわからないまま、

シュンの意識は、ゆっくりとひとつの世界に引きずり戻されていった。



その中に——




女の声が、混ざった。


「……シュンさん……!!」




(——声だ。)

誰かの、必死な——生きた声。




「お願い……目を覚まして……!!」




その瞬間。


視界が、崩れるように——白く、反転した。




◇  ◇  ◇



時が飛んだように静かな空間。


カーテンが揺れ、その隙間から差し込む白い光。


病室の天井。


消毒液の匂い。点滴も見える。


そして……誰かが、すぐそばにいる。




「……奥さんも娘さんも死んじゃって…こんなのってないですよ」


震える声だった。




「私……」




声の主が、微かにしゃくりあげる。


「私…まだ…あなたに何もしてあげられてない…」




「経験してなくったってわかりますよ…奥さんも、お子さんも死んじゃったら…誰だって立ち直れない…」




ベッドの横。

椅子に座ったナルミが、顔を伏せ、泣きじゃくっていた。




「でも…でも…帰ってきてください、シュンさん……。

私ちゃんと支えるから……いっぱい伝えるから……だから、もう一度……」




静かに、シュンは、目を閉じた。




◇  ◇  ◇




「おい!シュンさん! ……大丈夫か!?」

タケルの声が、遠くから聞こえてきた。




意識が、ゆっくりと浮上する。




——そして、わかった。




おれは……“次元に落ちた”んじゃない。




これは——懐古病だ。




“記憶”に取り込まれ、“思い出のなかで死んでいく”病。




(……間違いない。タケルが見た人たちも、全員…)




懐古病にかかった人間は、“意識だけ”がこの場所に引きずり込まれる。

そして——思い出と“再会”する。



かつての幸せ、かつての後悔、かつての願い。

そこで“満足”してしまえば、すべてが終わる。



意識も、身体も、まるごと消えていく。


現実では、肉体が一週間で死亡する。



死因は不明とされた。

でも本当はこの世界で「意識が赤い霧になった瞬間」だ。




戻ってきた者はいない。




赤い雨が体を撃つ



濡れるたび、胸の奥で少し“思い出”の感情が襲ってくる。

思い出と現実の境目が、ゆっくりと溶けていく。




(……俺も、“終わり”に向かってる)


横を見ると、タケルが眉をひそめていた。

何かを感じ取っているのかもしれない。



でも、まだ——俺の中には、前に進む意志がある。


(ナルミ……。わかってる。俺はまだ、終わってない)



「……シュンさん…一体どうしたんだ?」

「いや……大丈夫だ」

シュンは、静かに呼吸を整えた。

まだ時間はある。

けれど、それがどれほど残っているのか、もう誰にもわからない。



本当に一週間なのか。

思い出に“抗い続けたら”延命できるのか。



そんなことすら、誰にも——わからない。




(……それでも俺は…あきらめない)




彼は拳を握り直すと、前を見据えた。




「行こう。終わらせに」


そして、再び歩き出した。

赤い空の向こう、あの少女が待つ場所へ——。


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