第38章 約束
「タケル……私のこと、嫌い?」
雨粒の音が今日は一段と強い。
しかし、その言葉はタケルの耳によく響いた。
「え……」
タケルは息をのんだ。
「私が……わがまま言ったから?
いつか、“しつける”ようになるの?」
その言葉に、タケルの胸がぎゅっと縮んだ。
“しつける”——
そんな言葉、この世界で聞くとは思わなかった。
「しつけ?まさか。そんなことしないよ」
「じゃあ、どうして遊んでくれなくなったの?」
少女の声は小さく、しかし確かに震えていた。
雨音にかき消されても、タケルの耳にははっきり届いた。
タケルは少女の目を見た。
その瞳の奥には、痛々しいほどの純粋さが宿っていた。
まるで、愛されることそのものが“存在理由”になっているかのようだった。
しかし、タケルにはもう、この少女の遊びに付き合う気力は残っていなかった。
毎日、赤い雨の中で繰り返される同じ日々。
朝も夜もない世界では、時間の経過さえ曖昧になっていく。
少女は毎回、同じ笑顔で「ブランコ押して」と言い、
タケルは無言でその背中を押した。
何時間も、何日も、延々と。
お絵かきの時間になれば、少女はまた同じ絵を描いた。
赤い空と、二人の笑顔。
それを見せるたびに、「ねぇ、どう? うまくなった?」と尋ねる。
「うん……上手だよ」と返す声にも、もはや感情はなかった。
タケルの中で、何かが少しずつすり減っていった。
優しさでもなく、忍耐でもなく、
ただ“もう、面倒を見たくない”という生々しい人間の感情。
その感情に気づいた瞬間、タケルは自分自身に小さな嫌悪を覚えた。
(俺は……何をしてるんだ)
だが、それでも赤い世界は止まらない。
雨は同じリズムで降り続け、少女は同じ言葉を繰り返す。
まるで、終わりという概念さえ存在しない世界で、
愛情だけがゆっくりと腐っていくようだった。
「……俺はね、もうそろそろ本当に帰らなきゃならないんだよ」
少女は顔を上げる。
赤い光が彼女の瞳に映り込む。
「……どうして?」
タケルは一度、深く息を吸った。
できるだけ優しい声を出すように努めながら言った。
「大丈夫。君を置いて行ったりしない。
一緒に帰ろう。そして一緒に暮らすんだ」
「ほんと?」
「ああ」
少女の表情が少しだけほころぶ。
「海のおさんぽ……できる?」
「できるよ」
「やった」
その笑顔を見て、タケルは小さく笑い返した。
だが胸の奥では、鈍い痛みが広がっていた。
(——そんな約束、できるはずがない)
「だからさ」
「うん」
「もう少しだけ、“我慢して”一人で遊んでてくれる?」
少女は少し間を置いてから、こくりと頷いた。
「…うん…」
その声は静かで、どこまでも穏やかだった。
けれど、その小さな唇の動きには、
確かに“何かを決めた者”の影が宿っていた。
タケルは気づかない。
少女の微笑みの奥で、わずかに揺れる赤い雨の粒——
それが、この世界そのものの脈動と同調していることに。
静寂が戻る。
ただ、風もないのに草原の端がざわりと揺れた。
そして——
この少女が、タケルを失わないために。
東京を巻き込んだ大災害を引き起こすことなど——
その時の彼は、まだ想像すらしていなかった。
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