第34章 来訪者
2020年 春 東京
タケルは大学をさぼり、近所のパチンコ屋で時間をつぶしていた。
「よー兄ちゃん、出てるかい?」
背中越しに声をかけられる。
強烈なたばこの臭いの中に、缶コーヒーの甘い香りが混じっていた。
「おー、館花(たてはな)のおっさん。全然だよ」
「この店もケチ臭いよなぁ。あんだけ儲けてるくせに」
「ははは。ほんとそれ」
館花が差し出した缶コーヒーを受け取り、タケルは軽く頭を下げた。
「ありがと」
外に出ると、春の風が熱をはらんだ煙草の匂いをかすかに流していった。
「はぁ……つまんねぇな」
タケルの人生は、何もかもが満たされていた。
それでも、空っぽだった。
子どもの頃から勉強をしなくても成績は良く、
高校のときになんとなく買ったアルトコイン(仮想通貨の一種)が跳ね上がり、
気づけば数億の現金資産を持っていた。
学生でありながら、何不自由のない生活。
周囲から見れば、羨望と成功の象徴。
だがタケルにとっては、どれも“既に知っている退屈”の延長だった。
——金を得ても、何も変わらない。
ある日、資産運用の本を眺めていて「虚業コンプレックス」という言葉に目が止まった。
(……これだ)
タケルは直感した。
人は「金があれば幸せだ」と言う。
だが実際は違う。
金を使う目的が浅く見えた瞬間、人の価値は堕落する。
だから誰もが“実業”にしがみつく。
形がないと、自分を信じられないのだ。
タケルは考えた。
——俺は何をして生きる?
学校を辞めても構わない。
このぬるま湯のような生活が終わるなら、何でもいい。
ただ、生きている実感が欲しかった。
アパートへの帰り道、ふと視界の端に“認定幼稚園”の文字が映った。
園庭では、子どもたちが笑いながら走り回っている。
シャボン玉がいくつも浮かび、春の光を弾いていた。
(そうだ……子ども……)
タケルは立ち止まった。
自分でも意外なほど、その光景に目を奪われていた。
子どもはいい。
心がまっすぐで、どの仕草も生きている。
世界を疑わず、すべてを遊びに変えていく。
その無邪気さは、彼にとって“生命”そのもののように見えた。
それからタケルは、どうすれば自分が幼稚園の経営に携われるかを調べ始めた。
資格、認可、土地、教員、資金——
どれも彼にとってはただの“手順”だった。
「資金は山ほどある。焦ることはない」
普通の人間にとっては油断になる言葉も、タケルにとっては冷静な判断だった。
持ち前の知能と吸収力で、社会の仕組みを一つずつ飲み込み、
彼はあっという間に“経営者”への道を歩む準備を整えた。
「よし……プランは完璧。あとは土地を買って、進めるだけだな」
春の風が、スーツの裾をかすかに揺らした。
タケルは考え事をしながら、日本橋の上を歩く。
人々のざわめき。車の音。スマホを見ながらすれ違う通行人たち。
その中で、ふと日本橋の中央にある麒麟像が目に留まった。
「いつ見ても……ごっついな」
タケルは足を止めて、石像を見上げた。
翼を持つ麒麟。
本来は“理想郷を守る聖獣”の象徴。
だが、ここ東京の真ん中では、灰色の空の下に取り残されたままだ。
「……何のために、こんなものを置いたんだろうな」
自分に問いかけるように呟いた。
その声は、風に溶けて誰にも届かない。
タケルは再び歩き出した。
成功の設計図は完璧。
金も時間もある。
——何もかも、思い通りのはずだった。
その瞬間、足元が眩い光に包まれた。
「な、なんだ!?」
次の刹那、世界がひっくり返った。
風が裂けるような音とともに、身体が急降下する。
「うぁああああああああ!!」
視界が赤に染まっていく。
風圧で息ができない。
落ちているのか、浮かんでいるのかもわからない。
ドンッ——。
地面に叩きつけられた。
だが、痛みはなかった。
不思議なほど、現実感が薄い。
「……どこだ、ここ……?」
周囲を見回す。
そこは、見渡す限りの赤い草原だった。
まるで血のような雨が降り注ぎ
地平線の上には、無数の赤い立方体が静止して浮かんでいる。
それらはゆっくりと回転しながら、淡く光を放っていた。
その光景は——幻想的だった。
まるで、チェンマイの夜空に浮かぶコムロイの群れ。
赤い”四角“が空に舞うさまは、不気味ながら、どこか美しかった。
(……きれいだ…)
タケルの喉が乾いた。
目の前の異常が、現実の延長とは思えない。
それでも、どこか理屈の外にある“美”が、彼を黙らせた。
——その時、背後から声がした。
「……お兄さん、だぁれ?」
タケルは弾かれたように振り向いた。
そこにいたのは、赤いワンピースを着た少女だった。
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