第31章 誕生日おめでとう
「今日は……六歳の誕生日だね」
ユイはそう言って笑った。
けれど、その笑顔はすぐに崩れた。
シュンは何も言えなかった。
ユイのことが心配で、異動のことなどとても伝えられない。
——夫婦がこれほど打ちのめされても、現実は無情に降りかかる。
ユイはフォークを持つ手を震わせながら、
目の前の皿をじっと見つめていた。
ミートソースの湯気はもう消えていて、
部屋の空気だけが、冷たく淀んでいた。
シュンも同じだった。
食欲など、とっくにどこかへ消えていた。
二人の間に漂う沈黙が、
まるで“もう誰もいない食卓”を形づくっているようだった。
少しの沈黙のあと、ユイがぽつりとつぶやいた。
「……どうして、責めないの?」
その声は、泣き出す直前の子どものように震えていた。
「え?」
「私が……もっと早くリナの異常に気づいていたらって……思わないの?」
シュンは一瞬、言葉を探した。
フォークの先で皿をなぞる音だけが、静かに響く。
「……あれは、誰にもわからなかったよ。俺にも……わからなかった」
ユイはしばらく黙っていた。
唇を噛みしめ、肩を小さく震わせていた。
その沈黙が、怒りとも悲しみともつかない空気を作る。
やがて、ゆっくりと顔を上げ、
まっすぐにシュンを見据えた。
「でも、あなたが検査を進めたじゃない……」
声に…憎しみにも似た感情がこもる。
「ほんとは……もっと前から思ってたんでしょ?
“病院行けよ”って……思ってたくせに!」
バンッ——。
ユイの手が机を叩いた。皿が揺れ、ミートソースが跳ねた。
「ユイ…!」
シュンは立ち上がり、駆け寄ってその身体を抱きしめた。
ユイは「離して!」と叫び、腕を振りほどこうとする。
テーブルの脚が倒れ、皿が床に落ちた。
ミートソースが飛び散り、赤い斑点が白い床に散った。
「やめろ、ユイ……!」
「うぁあああ!もういやだ!リナ!リナ!!」
しばらくの間、もみ合うような沈黙が続いた。
やがてユイの力が抜け、シュンの胸の中で小さく震えた。
次の瞬間、抑えていた嗚咽がこぼれた。
「……ごめん……ごめんね……」
その声が、あまりにも小さく、かすかだった。
シュンは何も言わず、彼女の背中をゆっくりと撫でた。
視線の先には、床にこぼれたミートソースがあった。
赤い色が、ゆっくりと広がりながら、冷えていった。
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