第22章 生存者

タケルのことは、ほとんど何もわからなかった。

ただ——この世界に来たこと。



この世界では“悲しい過去”を見ないこと。

亡くなった母親も見ていない。




簡単な物質なら、生み出せる。

だがそれは、パンや水、子供が遊ぶような玩具ばかりで、

複雑な機械や生き物を作ることはできなかった。




それ以外には、何もわからないという。


ただ——


一つだけ、有力な情報があった。




「ここには、女の子もいる。まだ小さい子だ」


「……女の子? 俺たちみたいに迷い込んだのか?」


「いや、わからない。

 俺がここに来た時には、もういたんだ。

 最近はあまり見ないけど……いい子だよ。」




シュンは空間の外を見た。


血のように赤い空。

ゆらゆらと揺れるキューブの光。

風の代わりに、どこからともなく“記憶の粒”が舞っている。


それは、光でも塵でもなかった。

空気そのものが、人の思い出でできているように見えた。


「あってみるか…」


外では赤い雨が、静かに、また降り始めていた。



第23章 前進



「女の子に会いたいなら、行ってみるといいよ。

 ほら、あっちの空間。」


タケルは赤い草原の向こう――わずかに色の残る別の現実空間を指さした。


「俺はもう、眠くてさ。

 ここなら雨にも濡れないし、ちょうどいいベッドもある。」




あくびを噛み殺しながら、タケルはけだるそうに歩き出した。

そのままベットに潜り込み、布団を頭まで被る。


「……一緒に来てくれないのか?」


「やだよ。濡れたくないし。」


「俺が“思い出”に囚われたら、どうするんだ。」

タケルは布団の中で身動きもせず、淡々と答える。




「ああ、言ってなかったね。」


「何をだ。」




「俺はここで、たくさんの人間を見てきた。

 でも一度でも“思い出”に浸ったら、もう何をしても戻れないんだ。

 どれだけ叩こうが、叫ぼうが、蹴飛ばそうが……無駄さ。」


シュンは息をのんだ。




「やがてそいつは、赤い霧みたいになって消える。

 そうやって、みんな消えてった。」




静寂。

草原の奥で、ぽつりと——赤い雨が滴る音だけが響いていた。


「あんたも、“思い出”が怖いなら、この空間から出ないほうがいいよ」


シュンは、タケルの言葉に反論する気にはなれなかった。

ここは常識の届かぬ場所だ。

なぜタケルだけが特別なのかはわからない。

だが、この世界が自分にとって安全ではないことだけは確かだった。


——道徳など、ここでは意味をなさない。




「わかった。少女と話したら、またここに戻ってくる」

「……そうか。気をつけなよ。思い出は思い出。死んだ人間は、帰ってこない」

「……わかっている」




シュンは、男が指し示した方角へ歩き出した。


赤く濁った空。

風に波打つ草原。

そのすべてが、どこか現実の質感を欠いている。


——ここは、一体、何なのだろう。


足音が草をかすめるたび、記憶が疼いた。

コウタのことを思い出す。

彼は、再現された教室に取り残され、やがて“懐古病”に沈んでいった。


なぜこの空間には、多くの人間が現れるのか。

なぜタケルだけが、特別なのか。


——何も、わからない。




そして、もう一人。

名も知らぬ少女。


タケルは「小さな女の子」と言っていたが、一体いくつなのか。

もし彼より先にこの世界にいたのなら、とっくに十歳前後になっていてもおかしくない。


それでも、確かめるしかない。

自分の目で、この世界の真実を。



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