第21章 矛盾

二人は、色のある空間——アパートの部屋のような場所にいた。

雨は降らず、部屋に入ってしまうと、もう普通の部屋に招かれているのと区別がつかなかった。



久しぶりに雨から逃れられたせいか、シュンの心がわずかに解けていく。


男はポンっと赤いタオルを生み出し、シュンへと差し出した。



「……ありがとう」



受け取りながらも、シュンの目は男から離れない。


(物を“生み出す”?……やはり、こいつは普通じゃない)




警戒と興味がせめぎ合う。

キューブの危険性もわかっていないようだが、

その無邪気な仕草の奥に、どこか人間離れした“自然さ”があった。


この世界の謎を解くうえで——この男は、間違いなく鍵になる。




「俺はシュン。三十一歳。消防庁特殊救助隊・第七機動分隊所属だ。」


「えっ、救助隊の人なの? じゃあ、もしかして……俺を助けに来たの!?」

男は身を乗り出し、目を輝かせた。


そのまっすぐな反応に、シュンはわずかに息を詰める。


「いや……残念ながら、俺もこの世界に迷い込んだだけだ。」


「……そっか。」

男の肩がわずかに落ちる。

「はぁ……早く元の世界に帰りたいな……」




シュンはその言葉に答えられなかった。

胸の奥で、リナの笑顔がまだ揺れていた。

“帰りたい場所”が、もうこの世界のどこにもない自分とは違って——

この男には、まだ帰る現実があるのだ。




「俺はタケル。二十一歳。都内の大学に通ってたんだ。

……と言っても、もう何年経ったのかもわからないけどね。」


「どういうことだ?」


「ここに来たのが二十一の時。

 それから、たぶん……四年? 五年? もう数えるのもやめた。」


「……四年? この世界でか?」


「そう。何度か抜け出そうとしたけど、どこにも“外”なんてなかった。」


シュンは息をのむ。


このタケルという男の言うことが本当なら、この危険極まりない世界で生き続けていたということになる。




(そんなこと可能なのか?…いや——)


「そうか。君は喪失がないんだな」




「喪失?」




「そう。キューブは人間を“思い出の世界”に引きずり込む。

 思い出に負けた人間は“懐古病”となって、一週間で死ぬ。」


「さっきから何を言ってるのか分かんないけど……

 あんたに、俺の何が分かるんだよ。喪失がないって?ふざけんなよ。」


「……え?」


「十歳のときに母親を亡くしてる。」


シュンは目を見開く


「だが……君は“悲しい記憶”を再現されていないんだろう?」


「してない。あんたらが勝手に過去に浸ってるだけだ。

 俺は、思い出になんて負けない。」


「君のほうこそ何を言っている。あれは意志の問題じゃない。

 無理やり心の奥をこじ開けられるようなものだ。」




沈黙。

空気が重くなる。




シュンは静かに息を吐いた。

「……喪失がないなんて決めつけたのは詫びる。だが、こちらの事情も聞いてくれ。」




そして語り始めた。

2020年に東京で最初に発生した“赤色化現象”。

空間の置換。

そこから観測された“キューブ”。

発症した人間が、次々と昏睡状態に陥る“懐古病”。

地上では、それが今や社会的な脅威になっているということ。




タケルは一言も口を挟まなかった。

シュンの声だけが、静かな色の世界に響いていた。


話が終わると、タケルはしばらく何も言わず、

やがて小さく息を吐いた。




「……そっか。

 外は、もう……2025年なんだな。」


その声には、驚きでも絶望でもなく、

“置き去りにされた実感”だけがあった。




「俺の人生……どうなっちゃうんだろうな……」


その言葉を聞いた瞬間、

シュンは初めて、タケルが“本当にここで生きてきた”のだと悟った。



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