第21話 ニアミス

【ヒルデ視点】


王都を出発してから二週間、私とクラウス様、そして護衛の騎士の方々は、ついに目的地のミストラル村に到着しました。道中はクラウス様の執拗なアプローチをかわすのに苦労しましたが、辺境に近づくにつれて彼の口数も減っていったのは幸いでした。


ミストラル村は想像していたよりもずっと小さく、穏やかな空気が流れる場所でした。村人たちは私たちのようなよそ者の来訪に驚いていましたが、私が『奇跡の聖女』だと知ると、皆、敬虔な態度で迎えてくれました。


村長さんのお宅でお話を伺うことになりました。私が星屑の花を探しに来たことを告げると、村長さんは難しい顔をしました。


「星屑の花…確かにその花の言い伝えはこの村にも残っております。しかしその花が咲くのは森の最も深い場所。そこは『森の主』が縄張りとする危険な場所でございます」


森の主。村の伝説に語り継がれる巨大な熊型の魔物だそうです。並の討伐隊では歯が立たないほどの強さを誇るとか。


護衛の騎士団長であるガレス様が自信ありげに言いました。


「ご心配には及びません。我ら王家の精鋭が必ずや聖女様をお守りいたします」


その言葉は頼もしいものでしたが、私の心の中には一抹の不安がよぎっていました。アムルさんがいてくれたら…。またそんなありえないことを考えてしまう自分に嫌気がさします。


私は村人たちに、最近村で何か変わったことはなかったか尋ねてみました。何か手がかりが欲しかったのです。


村人たちは口々に「守り神様」の話をしてくれました。畑の魔物や鉱山の魔物を一夜で退治した謎の人物。しかし、その正体は誰も知らないとのことでした。


ただ、最近村に越してきたアムルという青年がとても強いらしいと子供たちが噂していると聞きました。


アムル。その名前に私の心臓が大きく跳ねました。まさか。そんなはずはない。同姓同名の別人でしょう。


私は自分にそう言い聞かせました。私の知るアムルさんはこんな辺境の村にいるはずがないのですから。




【アムル視点】


その日、俺はいつもより深く森の奥に入っていた。最近、村の近くで動物の死骸が頻繁に見つかるようになったからだ。何者かが縄張りを広げている。その気配を辿って、俺は森を進んでいた。


ファファは俺の肩の上で少し不安そうにしていた。


「アムル。なんだか嫌な感じがするよ…」


彼女の言う通り、森の空気は重く張り詰めていた。小動物の気配が全くしない。皆、何かに怯えて隠れているのだ。


やがて俺は開けた場所に出た。そして、そこにいる奴の姿を認めて息を呑んだ。巨大な熊。いや、熊というにはあまりにも大きすぎる。体長は五メートルを超えているだろう。全身が傷だらけの黒い毛で覆われ、その目には知性と凶暴な光が宿っていた。


森の主。村の伝説で語られる存在だ。奴が縄張りを広げ、村に近づいてきている。このまま放置すれば、いずれ村に被害が及ぶだろう。やるしかないか。面倒だが。


俺は静かに剣を抜いた。森の主も俺の存在に気づき、ゆっくりと立ち上がった。凄まじい威圧感。空気がビリビリと震える。並の冒険者ならこの威圧感だけで腰を抜かすだろう。


しかし、俺の心は静かだった。島で対峙した魔物たちに比べれば、この程度では何も感じない。


森の主が咆哮を上げた。木々が揺れ、地面が震える。そしてその巨体に見合わない俊敏さで突進してきた。


俺は動かなかった。奴の巨大な爪が俺の顔面に迫る。俺はそれを最小限の動きでひらりとかわした。そしてすれ違いざまに奴の脇腹を浅く切り裂く。


手応えが硬い。筋肉の鎧だ。生半可な攻撃は通じない。だが、俺は奴の弱点を見抜いていた。古傷だ。奴の左目には古い一文字の傷跡があった。おそらく過去に何かと戦って負った傷だろう。そこが奴の唯一の死角。


森の主は俺の予想以上の強敵だった。その攻撃は、一撃一撃が致命傷になりうる威力を持っている。俺は完全に防御に徹し、奴の攻撃パターンを読み切ることに集中した。


何度も何度も紙一重で攻撃をかわす。その度に俺の集中力は研ぎ澄まされていった。ファファは俺の肩の上で固唾を飲んで戦いを見守っている。彼女の妖術はこれほどの相手には通用しないだろう。これは俺一人の戦いだ。


数十回の攻防の後、俺はついに奴の動きの癖を完全に見切った。奴は必ず右腕の大振りから攻撃を始める。そしてその攻撃の後、一瞬だけ左目の死角ががら空きになる。チャンスはその一瞬だけだ。


俺は賭けに出ることにした。奴が再び右腕を振りかぶる。俺は避けない。むしろその懐へと飛び込んだ。


奴の爪が俺の背中を掠める。服が破れ、焼けるような痛みが走った。だが、構わない。俺は奴の左目の下まで到達していた。そしてそこから天に向かって剣を突き上げる。


「しまッ…!」


俺は自分のミスに気づいた。奴は俺の狙いを読んでいたのだ。俺が剣を突き上げるのと同時に、奴は自らの顎を砕く勢いで頭を下げてきた。俺の剣は奴の頭蓋骨に阻まれ、浅く突き刺さっただけだった。


そして俺は頭突きをまともに食らい、吹き飛ばされた。木に叩きつけられ、意識が遠のきそうになる。


まずい。完全に油断していた。この世界の魔物も馬鹿ではない。島での経験則が通用しない相手もいるのだ。




【三人称視点】


ヒルデと護衛の騎士たちは森の奥へと足を踏み入れていた。星屑の花が咲くという場所はもうすぐのはずだった。


その時、森の奥から凄まじい戦闘音が聞こえてきた。木々がなぎ倒され、地面が揺れる音。そして魔物のものらしき苦悶の咆哮。何かが戦っている。


「全警戒!」


騎士団長のガレスが叫ぶ。騎士たちは剣を抜き、ヒルデを囲むようにして陣形を組んだ。ヒルデも杖を強く握りしめた。


やがて戦闘音は止み、森に静寂が戻った。彼らは恐る恐る音のした方へと進んでいった。


そこに広がっていたのは信じがたい光景だった。森の一角が抉れ、周囲の木々は根こそぎ倒されている。そしてその中央に、巨大な熊型の魔物が倒れていた。森の主だ。


その額には一本の剣が深々と突き刺さっていた。ほぼ一撃で脳を貫かれ、絶命したのだろう。あまりにも凄まじい戦闘の痕跡。そしてそれを成し遂げた討伐者の姿はどこにもなかった。


一体誰が。ガレスはゴクリと唾を飲んだ。これほどの魔物を単独で討伐できる人間など、この国には数えるほどしかいない。


騎士たちは村で聞いたアムルの名を思い出していた。まさか。そんなはずはない。


ヒルデもまたその戦闘の痕跡に既視感を覚えていた。この無駄のない戦い方。相手の弱点を的確に突く戦術。それはかつて島で見た彼の戦い方にどこか似ていた。


ヒルデは首を横に振った。ありえない。彼はもういないのだから。


彼女たちは討伐者の正体に気づかないまま、本来の目的である星屑の花を探し始めた。


その頃アムルは、別の道を通ってすでに村へと帰る道を歩いていた。二人の運命はすぐそこまで近づいていながら、交わることはなかった。

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