第19話 辺境の噂

【アムル視点】


商人バルツが帰った後、俺の生活はまた元の静けさを取り戻した。いや、正確には、以前よりも少しだけ騒がしくなった。村人たちの俺を見る目が、明らかに変わったのだ。鉱山の一件で、俺が「守り神」の正体であることが村中に知れ渡ってしまったらしい。


村人たちは俺に会うたびに感謝の言葉を口にし、何かと差し入れを持ってきてくれるようになった。特に子供たちは俺を英雄のように扱い、毎日家に遊びに来る。リナに至っては、ほとんど俺の家に住み着いているような状態だった。


「静かに暮らしたいんだがな……」


俺がため息をつくと、肩の上で目を覚ましたファファが笑った。


「諦めなよ、アムル。あんだけ派手にやっちゃったんだから当然でしょ」


彼女は楽しそうに言った。


「それより、あのおじさんの誘い、断っちゃってよかったの?豪邸に住めたのに」


ファファが尋ねる。


「興味ない」


俺は短く答えた。王都の豪邸。そんな場所に住んだら、ヒルデの噂が毎日耳に入ってくるだろう。それだけはごめんだった。俺はここでいい。この静かな村で、彼女のことを思い出さずに済むなら。


しかし、心のどこかで分かっていた。俺は彼女を忘れようとすればするほど、逆に彼女のことばかり考えてしまっているということに。


俺はバルツからもらった名刺を暖炉の火に投げ込んだ。炎が名刺をあっという間に灰に変えていく。これで俺と王都との繋がりは消えた。そう、思いたかった。




【三人称視点】


王都に戻った商人バルツの頭の中は、アムルという青年のことでいっぱいだった。あの圧倒的な実力。そして、それに全く見合わない無欲さ。常識外れの存在。


バルツは商売柄、これまで数多くの冒険者や騎士たちと接してきた。しかし、アムルのような人間は初めてだった。彼は規格外の怪物だ。そしてその怪物は今、辺境の村で静かに牙を隠している。


バルツは思った。彼をこのまま埋もれさせておくのはあまりにも惜しい。いや、国家的な損失ですらある。何とかして彼を表舞台に引きずり出せないか。バルツは様々な策を巡らせたが、金や名誉で動かない男をどうやって動かせばいいのか、見当もつかなかった。


その夜、バルツは取引先の貴族たちが集まる高級酒場にいた。酒が進み、場が盛り上がってきた頃、バルツはわざとらしく大きなため息をついた。


「どうしたバルツ殿。何か悩み事かな」


一人の男爵が尋ねる。バルツは待ってましたとばかりに口を開いた。


「いやはや、先日仕事で訪れた辺境の村で、とんでもない人物に出会いましてな……」


彼はそこで言葉を切り、周囲の興味を引いた。貴族たちが一斉に彼に注目する。


「とんでもない人物とは?」


バルツは勿体ぶりながら語り始めた。鉱山を占拠した魔物の大群を、たった一人で一夜にして殲滅した青年がいたこと。その青年が金にも名誉にも全く興味を示さなかったこと。彼は話を少しだけ誇張して語った。


貴族たちはバルツの話を面白そうに聞いていたが、誰も本気にはしていないようだった。


「はっはっは。それはまた面白い作り話ですな、バルツ殿」

「辺境の村にそんな隠者がいると?まるで物語のようだ」

「酒の肴にはちょうどいい話だわい」


彼らは口々に笑い飛ばした。無理もない。常識的に考えればありえない話だ。


バルツは内心舌打ちしたが、表情には出さなかった。彼はわざと悔しそうな顔をして言った。


「作り話などではありません!私はこの目で見たのです!彼の纏う覇気は、そこらの騎士団長など足元にも及ばないほどでしたぞ!」


彼の必死な様子が、逆に貴族たちの笑いを誘った。


「剣を振るう姿はまるで鬼神のようだったと、村人は言っていました。そう……まさに『辺境の剣鬼』とでも呼ぶべきお方でしたな」


バルツがそう言った時だった。


酒場の隅のテーブルで静かに酒を飲んでいた一人の男が、ピクリと反応した。その男は近衛騎士団に所属する騎士だった。彼はバルツの話をただの与太話として聞き流していなかった。


彼の脳裏に、最近ギルドで処理されたある記録が蘇っていたからだ。二年間の失踪から生還したにもかかわらず、即日引退したC級冒険者。名前は確かアムル。失踪場所は魔境の海域。そして引退後に向かった先は北東の辺境――。


全てのピースが繋がっていく。まさか……。騎士は冷や汗をかいた。もしバルツの話が真実なら、国はとんでもない人材を野に放っていることになる。


バルツの流した噂は、王都の社交界でしばらくの間、酒の席での笑い話として消費された。「辺境の剣鬼」。その二つ名はどこか滑稽な響きを持ち、誰もそれを真実だとは思わなかった。


しかし、噂というものは人の口から口へと伝わるうちに、変質し尾ひれがついていくものだ。最初は笑い話だった噂も、語り継がれるうちに少しずつ真実味を帯びていく。


特に、軍や騎士団関係者の中には、バルツの話を無視できないと考える者も少数ながら現れ始めていた。彼らは密かに調査を開始した。辺境の村ミストラル。アムルという名の青年。その名前が王都の一部で静かに囁かれるようになっていった。


もちろん、辺境の村にいるアムル自身は、そんなことなど知る由もなかった。彼は今日も村の子供たちと遊び、ファファと他愛のない会話をし、静かな一日を終えようとしていた。


彼の望む平穏な日常。しかし、その日常は彼自身の規格外の力によって、皮肉にも彼の手から離れようとしていた。王都で生まれた小さな噂の種。それがやがて大きな渦となり、彼を飲み込んでいくことになる。


その時が刻一刻と近づいていることを、彼はまだ知らなかった。

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