風の中のぼく
匿名A
第1話
「あーあ、」
ちょうど正門を過ぎたところで声が漏れた。
「結局今年も同じなのかな、」
「なんだか、そうなりそうだね」
すれ違ったそこら辺のおじさんが驚いた顔で僕を振り返る。
それは僕の話し相手がマスコットの人形だったから。
けど、そんなことはちっとも気にならなかった。
気にひかかっていたのは昨日から始まった中学校生活。
当たり前だけどクラス替えがあって六組になった。
前に同じクラスになった人もいるけど新クラスは新クラス。
小学校では六年間友達一人できなかった僕でもできるかも。
心からやり直そう、そう思っていたのに、
「隣の席がまた東さんだなんてねぇ、」
「東さんもまた福くん!?ってうめいてたし、」
「けど、仕方ないね、なにせ小学校一年生からずっと連続で隣の席だからね、」
「でも、静かにしてほしかったよね、なにせみんなが僕をチラ見するんだから」
誰も声には出さなかったけど言いたいことはなんとなくわかってた、
僕と東さんは“そういう”組み合わせなんだと思われてる。 変わり者と、関わりたくない人。 それが僕で、東さんはその被害者。 そんなふうに見られてる気がして、席に座るたびに背中がざわつく。
「でも、東さんは何も言わなかったよね」 「うん、ただ、机をほんの少し遠ざけただけ」 「それだけで、全部わかっちゃうんだよね」 「わかっちゃうのが、いちばんつらいよね」
教室のざわめきの中で、僕の声は誰にも届かない。 マスコットの口元に手を添えて、そっと目を伏せる。 誰にも聞かれないように、誰にも見られないように。
「今年も、きっとこのままなんだろうな」 「うん、でも、それでいいよね」 「うん、だって、僕は僕だし」 「それ以上でも、それ以下でもないし」
チャイムが鳴った。 教室の空気が一瞬だけ張り詰める。 僕はマスコットをそっと机の中にしまって、 何もなかったふりをして、前を向いた。
先生が入ってきて、出席を取り始める。 名前を呼ばれるたびに、誰かが「はい」と返事をする。 僕の番が来ると、少しだけ間が空いた。 「福くん」 「……はい」 声が小さすぎたのか、先生が一瞬だけ顔を上げた。 でも何も言わず、次の名前を呼んだ。
東さんは、僕の方を見なかった。 机の境界線を越えないように、肘をきっちり自分の側に収めていた。 その姿勢が、僕を責めているように見えた。 でも、責められるようなことはしていない。 ただ、僕はここにいるだけなのに。
「ねえ、福くん」 マスコットの声が、机の中から響いた気がした。 「今年も、静かに過ごそうね」 「うん、そうするよ」 「誰にも迷惑かけないように」 「うん、誰にも見つからないように」
窓の外では風が吹いていた。 桜の花びらが、まだ少しだけ残っていて、 それが舞い上がって、誰にも気づかれずに落ちていった。
僕も、そんなふうに過ごせたらいいのに。 誰にも気づかれずに、誰にも邪魔されずに。ただ、静かに、そこにいるだけで。
その日の帰り道、僕はいつもより少し遠回りをして帰ることにした。校門を出て、まっすぐ家に向かう道を外れて、川沿いの遊歩道を歩く。春の風が頬を撫でて、マスコットの耳がふわりと揺れた。
「福くん、今日はがんばったね」 「うん……でも、やっぱり疲れたよ」
誰にも聞こえないように、マスコットにだけ聞こえるように、そっとつぶやく。マスコットは何も言わなかったけど、僕の手の中で静かにうなずいた気がした。
川の向こうに、桜の木が並んでいる。もうほとんどの花は散ってしまって、枝先には若い緑の葉がちらほらと顔を出していた。
そのとき、後ろから小さな足音が聞こえた。振り返ると、そこには東さんがいた。僕と目が合うと、彼女は少しだけ立ち止まり、そしてまた歩き出した。
すれ違うかと思ったその瞬間、東さんが立ち止まって、ぽつりとつぶやいた。
「……あのさ、」
僕は驚いて立ち止まる。東さんが僕に話しかけてきたのは、たぶん初めてだった。
「そのマスコット、ずっと持ってるよね」
僕は思わずマスコットをぎゅっと握りしめた。何か言わなきゃと思ったけど、言葉が出てこない。
「……変だと思ってた。でも、今日、ちょっとだけわかった気がした」
東さんは、川の方を見ながら続けた。
「私も、誰にも言えないこと、あるから」
それだけ言って、東さんはまた歩き出した。僕はその背中を見つめながら、胸の奥が少しだけ温かくなるのを感じた。
「……ねえ、福くん」 マスコットが、そっとささやく。 「もしかして、今年はちょっとだけ違うかもね」 「……うん、そうかもしれない」
風がまた吹いて、川面に小さな波紋が広がった。桜の花びらが一枚、僕の肩に落ちてきた。
それをそっと指でつまんで、空に放つ。
今年は、少しだけ、変われるかもしれない。
次の日の朝、僕はいつもより少し早く教室に着いた。誰もいない教室は、まるでまだ眠っているみたいで、窓から差し込む光が床に静かに広がっていた。
席に座って、マスコットを机の上にそっと置く。昨日の帰り道のことを思い出す。東さんの言葉が、まだ胸の奥で響いている。
「私も、誰にも言えないこと、あるから」
その一言が、僕の中の何かを少しだけ動かした気がした。もしかしたら、僕だけが特別に変わっているわけじゃないのかもしれない。誰もが、誰にも見せない部分を抱えているのかもしれない。
そのとき、教室のドアが開いた。東さんだった。僕は思わずマスコットを机の中にしまおうとしたけど、彼女はそれを見て、ふっと笑った。
「……おはよう、福くん」
初めて、東さんが僕の名前を呼んだ。僕は驚いて、でもなんとか声を出した。
「……おはよう」
それだけで、教室の空気が少しだけ変わった気がした。昨日までとは違う、ほんの少しだけ柔らかい空気。
東さんは自分の席に座ると、机をほんの少しだけ僕の方に寄せた。ほんの数センチ。でも、その距離が、僕にはとても大きく感じられた。
「ねえ、福くん」
東さんが、声をひそめて言った。
「そのマスコット、名前あるの?」
僕は少しだけ迷ってから、答えた。
「……ふくすけ、って呼んでる」
「ふくすけかぁ。かわいい名前だね」
東さんはそう言って、またふっと笑った。
その笑顔を見て、僕は思った。
今年は、ほんの少しだけ違うかもしれない。
誰にも見つからないように、静かに過ごすつもりだったけど。
もしかしたら、誰かに見つけてもらうのも、悪くないのかもしれない。
昼休み、教室のざわめきが少し落ち着いた頃、僕はそっとマスコットを机の上に出した。誰にも見られないように、教科書の影に隠すようにして。
「ふくすけ、今日は……ちょっとだけ、うれしかったよ」
ふくすけは何も言わない。ただ、僕の手の中で静かにそこにいる。
そのとき、隣の席から声がした。
「……それ、見せてくれる?」
東さんだった。僕は驚いて、思わずふくすけを握りしめた。でも、東さんの声は、昨日よりもずっと柔らかかった。
「触ったりはしないから。ただ、見てみたいなって」
僕は少しだけ迷ってから、ふくすけをそっと東さんの方に向けた。彼女は机の上に肘をついて、ふくすけをじっと見つめた。
「……なんか、安心する顔してるね」
その言葉に、僕は少しだけ笑った。
「僕が、そう思って作ったから」
「福くんが作ったの?」
「うん。小学校のとき、図工の時間に。誰にも見せなかったけど、ずっと持ってる」
東さんは、ふくすけを見ながら、ぽつりとつぶやいた。
「……私も、小学校のとき、誰にも言えないことがあって。ずっと、誰にも話してない」
僕は何も言えなかった。ただ、ふくすけをそっと東さんの方に押し出した。
「ふくすけは、話を聞くのが得意だよ」
東さんは、ふっと笑った。
「じゃあ、今度、話してみようかな」
その瞬間、教室の空気が少しだけ変わった気がした。誰かとつながるって、こんなふうに始まるのかもしれない。
ふくすけは、何も言わない。ただ、僕たちの間に静かに座っていた。
昼休みが終わるチャイムが鳴ると、教室のざわめきが再び動き出した。みんなが席に戻り、教科書を開き始める。僕もふくすけをそっと机の中にしまって、何事もなかったように前を向いた。
でも、心の中では何かが確かに動いていた。東さんの「今度、話してみようかな」という言葉が、ずっと響いていた。
午後の授業は社会だった。先生が黒板に地図を貼って、戦後の復興について話し始める。僕はノートを開いて、先生の言葉を写しながら、ふと隣を見る。
東さんは、真剣な顔でノートを取っていた。時々、眉をひそめたり、ペンを止めて考え込んだりしている。その横顔を見ていると、なんだか少しだけ安心した。
僕は、ふくすけの耳を指先でそっとなぞりながら、心の中でつぶやいた。
「……ふくすけ、僕、ちょっとだけ頑張ってみようかな」
ふくすけは、何も言わない。ただ、机の中で静かにそこにいる。
放課後、教室を出ると、空は少し曇っていた。春の陽射しが雲に隠れて、風が少し冷たく感じる。
僕は、昨日と同じように川沿いの道を歩くことにした。今日も、少しだけ遠回り。
すると、また後ろから足音が聞こえた。振り返ると、やっぱり東さんだった。
「……また、遠回り?」
僕はうなずいた。東さんは、少しだけ笑って言った。
「じゃあ、今日は一緒に歩いてもいい?」
僕は驚いたけど、すぐにうなずいた。
二人で並んで歩く川沿いの道は、昨日よりも少しだけ明るく感じた。風が吹いて、若葉が揺れる。川の水面には、雲の影がゆらゆらと映っていた。
「ねえ、福くん」
東さんが、ふいに言った。
「ふくすけって、どんな性格なの?」
僕は少し考えてから、答えた。
「……静かで、優しくて、でも、ちゃんと僕のこと見てくれてる」
「そっか。なんか、福くんに似てるね」
その言葉に、僕は少しだけ笑った。
「……そうかもね」
東さんは、ふくすけの耳を見ながら、ぽつりとつぶやいた。
「私も、そういう誰かがいたらよかったなって、ずっと思ってた」
僕は、ふくすけをそっと東さんの方に差し出した。
「ふくすけは、二人分の話も聞けるよ」
東さんは、ふっと笑って、ふくすけの頭をそっと撫でた。
その瞬間、僕の胸の奥が、また少しだけ温かくなった。
今年は、ほんの少しだけ違う。
それは、誰かと話すことから始まるのかもしれない。
そして、誰かと歩く帰り道の中で、少しずつ変わっていくのかもしれない。
ふくすけは、何も言わない。ただ、僕たちの間に静かに座っていた。
──次の日の昼休み、僕はふくすけを机の上に出すのを、ほんの少しだけためらった。 でも、東さんが隣で静かにノートを閉じて、僕の方を見て言った。
「今日も、ふくすけに会える?」
その言葉に、僕はふくすけをそっと机の上に置いた。 東さんは、昨日よりも少しだけ近くに顔を寄せて、ふくすけを見つめた。
「……ねえ、福くん。ふくすけって、福くんのこと、なんて呼ぶの?」
僕は少し考えてから答えた。 「……“福くん”って呼ぶよ。ずっとそうだった」
「そっか。じゃあ、ふくすけは、福くんのいちばんの友達なんだね」
その言葉に、僕は少しだけうなずいた。 でも、心の中では、何かがじんわりと広がっていた。 “友達”という言葉が、こんなに優しく響いたのは、初めてだった。
「ねえ、福くん」 東さんが、ふいに言った。 「私も、ふくすけみたいな子、作ってみようかな」
「……ほんとに?」
「うん。図工の時間に、作ってみる。名前は……まだ決めてないけど」
僕は、ふくすけの耳をそっと撫でながら言った。 「ふくすけ、仲間ができるかもね」
ふくすけは、何も言わない。
でも、机の上で少しだけ誇らしげに見えた。
──放課後、僕たちはまた川沿いの道を歩いた。 昨日よりも風が強くて、若葉がざわざわと揺れていた。
「ねえ、福くん」 東さんが、少しだけ声をひそめて言った。 「私ね、小学校のとき、ずっと保健室に通ってたの。誰にも言ってなかったけど」
僕は、何も言わずに歩きながら、ふくすけをポケットの中でぎゅっと握った。 東さんの声は、少しだけ震えていた。
「教室にいるのが、怖かったんだ。誰かに見られるのが、怖くて」
僕は、ふくすけをそっと取り出して、東さんの方に向けた。 「ふくすけは、そういう話を聞くのが得意だよ」
東さんは、ふくすけを見つめて、ぽつりとつぶやいた。 「……ありがとう。福くんも、ずっと一人だったんだよね」
僕はうなずいた。 「でも、今は、ちょっとだけ違うかも」
その言葉に、東さんはふっと笑った。 「うん。私も、ちょっとだけ違うかも」
川の水面に、夕陽が差し込んで、きらきらと光っていた。 ふくすけは、僕たちの間に静かに座っていた。 まるで、何かを見守るように。
──次の日の朝、教室に入ると、東さんは紙粘土を持ってきていた。 「図工の時間まで待てなくて、昨日の夜、ちょっとだけ作ってみたの」
僕は驚いて、彼女の手元を見た。 そこには、まだ形の定まらない、小さなマスコットがいた。
「名前は……まだ決めてないけど、ふくすけの友達になる子」
僕は、ふくすけを机の上に置いて、そっとその子の隣に並べた。 ふくすけは、何も言わない。
でも、少しだけ嬉しそうに見えた。
東さんは、ふくすけに向かって言った。 「これから、よろしくね」
その瞬間、教室の空気が、また少しだけ変わった気がした。 誰にも見つからないように過ごしていた僕が、 誰かと一緒に、見つけてもらうことを、少しだけ望んでいる。
ふくすけは、何も言わない。 でも、僕たちの間に、静かに、確かに、そこにいた
次の日の昼休み、東さんは昨日よりも少し早く席に戻ってきた。 僕はふくすけを机の上に出すタイミングを探していたけど、彼女が先に言った。
「今日も、ふくすけに会える?」
僕はうなずいて、そっと机の上に置いた。 東さんは、昨日よりも少しだけ近くに顔を寄せて、ふくすけを見つめた。
「……ねえ、福くん。ふくすけって、音楽とか好き?」
僕は少し考えてから答えた。
「うん。たぶん、静かな音が好きだと思う。風の音とか、川の音とか」
東さんは、ふくすけの耳にそっと指を添えて言った。
「私、ピアノ習ってるんだ。ふくすけに、聴かせてみたいな」
僕は驚いた。東さんが何かを「聴かせたい」と言ったのは、初めてだった。
「……ふくすけ、きっと喜ぶと思う」
その日の放課後、僕たちはまた川沿いの道を歩いた。 風が少し強くて、若葉がざわざわと揺れていた。
「ねえ、福くん。今度、学校の音楽室で、ふくすけにピアノ聴かせてもいい?」
僕はうなずいた。ふくすけも、ポケットの中で静かにうなずいた気がした。
数日後の昼休み、東さんがそっと言った。
「今日、音楽室、空いてるって。先生に聞いたら、使っていいって」
僕たちは、誰にも見つからないように、静かに音楽室へ向かった。 東さんがピアノの前に座ると、僕はふくすけをそっと鍵盤の上に置いた。
「……じゃあ、弾くね」
東さんの指が鍵盤に触れると、教室の空気が変わった。 静かで、優しくて、少しだけ切ない音が、ふくすけの耳に届いた。
僕は目を閉じて、その音を聴いた。 ふくすけも、何も言わずに、ただそこにいた。
曲が終わると、東さんがふくすけに向かって言った。
「ありがとう。聴いてくれて」
ふくすけは、何も言わない。 でも、鍵盤の上で、少しだけ誇らしげに見えた。
春の終わりが近づいていた。 教室の窓から見える桜の木は、すっかり若葉に覆われていて、あの花びらが舞っていた日々が、少し遠くに感じられた。
昼休み、東さんは自分のマスコットを机の上に出した。 まだ名前は決まっていないけれど、ふくすけの隣に並ぶその子は、少しずつ形を整えられて、今ではちゃんとした顔をしていた。
「ねえ、福くん」 東さんが、ふくすけを見つめながら言った。 「この子の名前、決めたよ」
僕は顔を上げた。 東さんは、少しだけ照れたように笑って言った。
「……“はるこ”っていうの。春に出会ったから」
「はるこ……いい名前だね」 僕はふくすけをそっと撫でながら言った。 「ふくすけも、喜んでると思う」
東さんは、はるこをふくすけの隣に寄せた。 二つのマスコットが、机の上で肩を寄せ合うように並んだ。
ねえ、福くん」 東さんが、少しだけ声をひそめて言った。 「ふくすけと、はるこみたいに……私たちも、仲良くなれたらいいな」
僕は驚いて、でもすぐにうなずいた。 「……うん。僕も、そう思ってた」
東さんは、ふっと笑った。 その笑顔は、今まででいちばん自然で、いちばん近くに感じられた。
「じゃあさ、今度の土曜日、一緒に図書館行かない?」 「うん。行こう」
チャイムが鳴って、昼休みが終わった。 でも、僕の中では、何かが始まった気がした。
土曜日。 図書館の帰り道、僕たちは並んで歩いていた。
東さんは借りた本を胸に抱えながら、時々ふくすけとはるこを見比べて、ふっと笑っていた。
「ねえ、福くん」
東さんが、少しだけ歩幅を緩めて言った。
「私ね、最近、朝起きるのがちょっとだけ楽しみになったの」
「どうして?」
「だって、学校に行けば、福くんと話せるから」
僕は思わず立ち止まった。 心臓が、またどくんと鳴った。
東さんは、僕の顔を見て、少しだけ頬を赤くした。
「……変かな、こういうの」
「ううん、変じゃない。僕も、同じこと思ってた」
「ほんと?」
「うん。東さんが隣にいてくれて、話しかけてくれて……それだけで、毎日がちょっとだけ違う」
風が吹いて、ふくすけの耳が揺れた。 はるこも、東さんの手の中で小さく揺れた。
「ねえ、福くん」
東さんが、ふくすけを見つめながら言った。
「私たち、ふくすけとはるこみたいに、ずっと一緒にいられたらいいなって思ってる」
僕は、ふくすけをそっと握りしめた。 ふくすけは、何も言わない。 でも、僕の手の中で、静かにうなずいた気がした。
「……僕も、そう思ってる。ずっと、そう思ってた」
東さんは、少しだけ笑って、でもその目はまっすぐだった。
「じゃあさ、付き合ってみる? 私と」
その言葉は、まるで春の風みたいだった。 やさしくて、でも確かに僕の心を揺らした。
「……うん。付き合おう。東さんと」
その瞬間、ふくすけとはるこが、ベンチの上で肩を寄せ合ったように見えた。 風が吹いて、桜の花びらが二人の間に舞った。
帰り道、僕たちは何も言わずに歩いた。 でも、その沈黙は、今までのどんな会話よりもあたたかかった。
東さんが、ふいに言った。
「ねえ、福くん。ふくすけって、福くんのこと、なんて呼ぶの?」
「“福くん”って呼ぶよ。ずっとそうだった」
「そっか。じゃあ、私も……“福くん”って呼んでもいい?」
僕はうなずいた。 「うん。うれしいよ」
東さんは、ふっと笑った。 その笑顔を見て、僕の胸の奥が、じんわりとあたたかくなった。
月曜日の放課後。 教室の空気は、昼間のざわめきをすっかり忘れたように静かだった。
僕はふくすけをポケットにしまいながら、東さん——いや、はるの方を見た。
「ねえ、はる」
僕がそう呼ぶと、彼女は少しだけ驚いた顔をして、それから笑った。
「……うれしい。福くんにそう呼ばれるの、なんか、特別な感じがする」
僕はうなずいた。 その言葉が、胸の奥に静かに染み込んでいくのを感じながら。
「今日も、遠回りして帰ろうか」
「うん。ふくすけも、はるこも、きっとそう言ってる」
二人で並んで歩く川沿いの道は、昨日よりも少しだけ暖かかった。 風が吹いて、若葉が揺れる。 水面には、夕陽がゆらゆらと映っていた。
「ねえ、福くん」
はるが、ふくすけを見つめながら言った。
「付き合うって、どういうことなんだろうね」
僕は少しだけ考えてから、答えた。
「……たぶん、一緒にいることを、ちゃんと選ぶことだと思う。誰かに見つけてもらうだけじゃなくて、自分でも見つけようとすること」
はるは、ふくすけの耳をそっと撫でながら、うなずいた。
「そっか。じゃあ、私、福くんをちゃんと選ぶね。これからも、ずっと」
僕は、ふくすけをはるこに寄せながら言った。
「僕も、はるを選ぶ。ふくすけも、きっとそう言ってる」
はるは笑った。 その笑顔は、春の終わりの光みたいに、やさしくて、少しだけ切なかった。
「ねえ、福くん。ふくすけって、泣いたことある?」
「……あるよ。僕が泣いたとき、ふくすけも一緒に泣いてくれた」
「そっか。じゃあ、はるこも、私が泣いたら一緒に泣いてくれるかな」
「きっと、そうだよ。だって、はるこは、はるのことをちゃんと見てるから」
風が吹いて、桜の花びらが一枚、ふくすけの頭に落ちた。 僕はそれをそっと指でつまんで、はるの手のひらに乗せた。
「これ、はるにあげる。春の最後の贈り物」
はるは、花びらを見つめて、ぽつりとつぶやいた。
「ありがとう。福くんと出会えて、ほんとによかった」
僕は、ふくすけをぎゅっと握りしめた。 ふくすけは、何も言わない。 でも、僕の手の中で、静かに笑っている気がした。
風の中のぼく 匿名A @Motobayasiazami
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