『Aura Off』

@Ferica

『Aura Off』

「社会福祉という概念が薄かったころの時代、人々は 村、血族、親族{ひとびとは むら、けつぞく、しんぞく} という単位で生活を営んでいた。」


Nは、パーソナルAI『Aura(アウラ)』が読み上げる歴史テキストの一節に、今日もまた眉をひそめた。祖母が子供だった頃――ほんの数世代前のことだ。


「Aura、もう一度『マンション』の定義を」

『空間の区分所有権です。複数の他者と構造物を共有しつつ、特定の区画を排他的に占有する権利。その権利の対価として、旧世界の単位で"一生"と呼ばれるほどの労働時間を支払うケースが一般的でした』


17歳のNには理解ができなかった。住居は、活動内容と生体リズムに最適化された空間がAGIによって割り当てられる。占有? 所有? なぜ「空間」という機能に、そこまで固執するのか。


AGIが統治するこの国では、所有の概念は希薄だ。分子レベルで資源は再生され、月や火星からも必要な物資はいつでも調達できる。銀河ハイウェイの第一期が完成して以来、「希少性」という言葉は歴史テキストでしか見なくなった。


Nの学習は、常にAuraとの一対一だ。彼の興味は「銀河物理学」。AuraはNの才能をその分野で最大化するようカリキュラムを組んでいる。 祖母の時代の「ヘンサチ」。「シケン」という記憶・計算・読解能力に偏った知能に序列をつけて階層化するシステムは、あまりに非効率で不可解だった。


「ハタラク」ことも、今や「知的遊戯」と同義だ。ユニバーサル・ベーシックインカムが行き渡り、時間拘束としての労働対価は、AGIが最も忌避する「リソースの浪費」と定義されている。


「N」


ふいに、リビングの窓辺に座っていた祖母が、Nを呼んだ。


「『あの子』、元気かしら」


ーーまただ。祖母の思考に残ったノイズ。


『あの子』とは、反AGI国家――通称『壁外(へきがい)』に残った祖母の妹、Nからみれば大叔母にあたる女性のこと。


「私の『家』…あの子が守ってくれてるかしら」


『家』とは、AGIにより共有資産化された、かつて祖母が「所有」していたという部屋(土地?)のことだ。Nは、その非合理な執着を、祖母の古い思考回路に残ったバグのように感じていた。


******


Nの18歳の誕生日。網膜に、静かな通知が投影された。


『パスポート情報更新。反AGI国家『ゾーン・デルタ』への短期観光ビザが承認されました』 Auraが補足する。


『Central AGIは、非合理性の実地学習が、あなたの知的遊戯に有益な情動的刺激を与えると判断しました』


ーー動機は、純粋な好奇心だった。


Nの祖母が執着する「血族」とは何か。そして「所有」とは、どんな感覚なのか。彼は、大叔母を訪ねてみたい衝動を押さえることができなかった。


出発の日、祖母はNに小さな古いペンダントを握らせた。銀が黒ずみ、石もくすんでいる。


「あの子に渡して。私たちが『家族』だった証だから」


『家族』祖母の発する言葉は、Nの認知している『家族』の概念とは異なる。AGIの管理下では、血縁者も最適化されたコミュニティの一員でしかない。Nは、その無価値に見える小さな古いペンダントの重みを感じることができないまま、ポケットにしまった。


『ゾーン・デルタ』のゲートをくぐる。 瞬間、Auraのシームレスサポートが途切れた。最適化された気温と湿度がなくなり、埃っぽい。


ーー生暖かい空気が肺を刺す。


Nは初めて「不快」と「不安」を同時に体験した。


******


出国時、彼らは、『通貨』(薄汚れた紙切れや金属片)で経済を動かしている。Nの腕に埋め込まれているクレジットチップは意味をなさないとも教わった。


『通貨』を利用して人が運転する車を利用して移動した。


ーーなぜ、人が操作している? 


脳が防御モードでフル回転しているのがわかる。鼓動が早い。


大叔母の「マンション」は、古びたコンクリートの塊だった。指定された部屋のドアノックした。ドアが開く。埃と、古い食べ物の匂いがした。


ーー他人のにおい


部屋には、痩せた大叔母と、Nと同年代の男がいた。

Nの従兄弟だ。Lと名乗った。


簡単に挨拶をすませ、祖母の近況を話した。軽い食事がテープルに用意されるとLは行った。


「この家は俺が相続するんだ!君には、相続権はないはずだからね。あとで揉めてもいやだから、はっきりしておきたいんだ。」


この、狭く、暗く、非効率な空間を相続?

Nは衝撃を受けていた。Lは、この「箱」の何を『相続』するんだ?


大叔母は、ベッドの上で激しく咳き込んでいた。AGIの世界なら一瞬でナノマシンが修復する病だ。


ーーあっ、そうだ。祖母から預かったペンダント。




Nがペンダントを大叔母に差し出す。彼女は震える手でそれを受け取とって、灰色の瞳でじっと見つめた後、声を上げて泣き始めた。


「お姉ちゃん…まだ、覚えててくれたんだ…」


******


その夜、LがNに言った。


「お前は『向こう』の人間だ。AGIが何でもくれるんだろ。この家はいらないよな?相続は、俺ひとりでいいよな。」


Nは戸惑った。「Aura、必要なリソースを…」と言いかけて、Auraがいないことに気づく。Nは、Auraがいないと何もが判断できない。Nは、かろうじて歴史テキストの単語を記憶から関連する概念を言葉にした。


「僕は…『チョキン』はしていない」


Nの世界では、 「富のストックは、非効率な『滞留』だ。

AGIはそれを許さない。「貯蓄」を行うと、重い税金と手数料がかかる。


「金がない!? だから相続のわけまえをよこせっていいたいのか?」 Lの目が、燃えるような「敵意」に染まる。Nは、生まれて初めて、他者からの剥き出しの攻撃性に晒された。


それは、知的遊戯としての「ディベート」とは全く違う、冷たい恐怖だった。


******


帰国の日。Nが部屋を出ようとした、甲高い音が鳴り響いた。大叔母がベッドから崩れ落ちた。Lが絶望的な声を上げる。


Nは何もできなかった。彼は銀河物理学は解けるが、この世界の「常識」すら知らない。


ーーAuraもいない。


その時。


隣の部屋のドアが開き、老人が顔を出した。「どうした!」 下の階から、人々が駆け上がってきた。 「大丈夫か!」 「薬の備蓄が少しある!」次々と人々が集まってくる。彼らは『通貨』ではなく、自分たちが『所有』する食料や薬、わずかな備蓄を、持ち寄ってくる。


Nは、その光景に立ち尽くしていた。 歴史テキストの一節が、脳内で再生される。


«——人々は 村、血族、親族{ひとびとは むら、けつぞく、しんぞく} という単位で助け合って生活を営んでいた。»


完璧なAGI(社会福祉)がないこの世界。ここでは、非合理で、時に争いの原因にすらなる「血」と「地」の繋がりこそが、人々を生かす唯一のセーフティネットだった。


******


帰国して、AGIが管理する自室に戻った。空気は清浄で、光は最適化されている。 『おかえりなさい、N』 Auraの滑らかな声が響く。『生体データに深刻なストレス反応を検知。非効率ゾーンでの体験は、あなたの情動に高過負荷を与えたようです。デトックスと認知の再調整を推奨します』


Nは、なぜか Auraの言葉をうるさく感じた。 彼はインターフェースに手を伸ばし、呟いた。 「Aura。オフ」


——完全な静寂。


Nは祖母の部屋へ向かった。祖母は窓辺で眠っていた。 Nは、その傍らに座り、生まれて初めて、自らの意志で祖母の手に触れた。 しわだらけで、温かい手だった。

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