第二章 若宮高校鉄旅同好会 ープレミエール・ルコントル
帰宅すると、家はパンと金属の匂いで半分できていた。
母が粉をふるう音が台所の奥で小さく降り続き、壁越しに車両基地の圧縮機が低く脈打つ。床がかすかに震えるたび、今日という日がまだ完全には終わっていないことを、家の骨組みが教えてくれる。
机にカメラを置き、液晶に二枚の写真を呼び出す。
朝の練石。向かいホーム。
一枚目には風が、二枚目には呼吸が写っている。
そう言いたくなるほど、画面の奥に“誰か”の輪郭が、光より先に息を持っていた。
日付と時刻だけのファイル名に保存。
タグは付けない。説明もしない。
——でも、今日だけは、数字のあとに短い記号を打ちたくなった。指先が勝手に“しおり”を挟もうとして、ぎりぎりでやめる。言葉を足すと、音が濁る。
本棚の端に古い時刻表。父が昔持ち帰ったもので、角が柔らかく丸い。
ページをめくると紙の繊維が指にひっかかり、その感触だけで朝の駅の光が戻る。
夕方、若宮のホームで、彼女は夕焼けを薄く身にまとって笑った。
——「また見れるといいね」。
ひとことが波紋になって、腹の底でゆっくり広がる。
外の線路を踏む音が、いつもより一回多く響いた気がした。世界のテンポが、ほんの少し違う。
ベッドに横になる。瞼の裏に二枚の写真が並んで、あいだに夕焼けの切れ端が挟まっている。
——明日、なにかが始まるかもしれない。
列車の縦揺れみたいな単調さに身を預けて、眠った。
*
翌朝。ホームルーム前の教室は、まだ体温が残っているみたいに柔らかい。
ノートの一行目に日付だけを書いて、ペン先を止める。
「おはようございまーす」
扉の方から、よく通る声。
腕に紙束、背中に大きなリュック。
目尻が笑っている三年生が一人、教室に入ってきた。
「若宮高等学校・鉄旅同好会の
一列目からビラが回る。僕の机にも一枚落ちて、角が、さっき止めたペン先に触れた。
“鉄道写真”“列車模型”。
二語が胸の裏にぴたりと貼りつき、心臓がそこに重心を移したみたいに静かに揺れる。
——だけど、一人では行かない。
そういう自分の形はもう知っている。
人の集まりに自分の影を置くのは得意ではない。
背景に紛れていれば日差しに焼けない。そう思っていた。
「栞、行ってきなよ〜。私はムリだけど」
前の列から
彼女の視線は秋津にだけ向いて、僕の席は相変わらず空調の風みたいに通過される。
「鉄旅って地味じゃね?」「体育祭のダンス練のほうが盛れるでしょ」
同じグループの囁きは、音量だけ控えめで、内容は十分に教室向き。
秋津はビラを見て、そっと畳み、筆箱の下に挟んだ。表情は読めない。
チャイム。出席を取り、連絡事項が続く。
ビラの黒い字が机の上でじっとしている。
“写真”“模型”。言葉だけで、音がする。
*
昼休み。
窓際の光がノートの罫線を、夏になる前の陽炎みたいに揺らしている。
隣で、紙の擦れる小さな音がした。
秋津が、さっきのビラをもう一度開いて、しばらく黙って眺め、それからゆっくり畳んだ。
「……ねえ」
前を向いたまま、声だけ僕のほうに落ちてくる。
「これ、行く?」
ビラの端が、机の上で指に押さえられている。
僕はペン先を止めたまま、少し考えてから、短く返す。
「……さあ」
「“さあ”って」
秋津が、ちょっとだけ息を含ませて笑う。
「見学。短いって言ってたやつ。一人だと、私も行きづらいんだよね」
言い方は軽いけれど、完全な冗談でもない。
僕はビラの文字をちらりと見て、目を逸らす。
「……別に」
「別に?」
「……行っても、行かなくても」
どっちつかずの言い方しか出てこない。
本当は、“写真”と“模型”のところで心が動いていたくせに、
それをそのまま口に出すと、何かが決定されすぎる気がして、言えない。
秋津は、ビラを指でとん、と叩いた。
「清瀬くん、鉄道、好きでしょ」
胸の内側が、少しだけ跳ねる。
昨日、練石のホームでシャッターを切った音まで思い出してしまって、視線を下に落とす。
「……まあ」
「“まあ”」
今度の笑いは、さっきより少しだけ素直だ。
「じゃあ、行こ。付き合って。
私一人だとたぶんやめるから。清瀬くんが来ないと、行かない。」
言葉の出口をふさがれたみたいに、返事が詰まる。
そんなふうに言われたら、断るほうがよほど難しい。
「……別に、行ってもいいけど」
ようやく絞り出した返事は、どこまでも曖昧だった。
“行きたい”とも“楽しみ”とも言わないまま、ギリギリの線で頷いた形。
秋津は、それで十分だと言わんばかりに、あっさり頷いた。
「うん。じゃ、放課後。理科準備室の奥ね。途中で逃げたら、怒るから。」
最後だけ、冗談みたいに言って、ビラをまた筆箱の下に滑り込ませる。
その横顔はもう普通の昼休みの顔をしていて、さっきの真剣さは見えなくなっていた。
曖昧な返事のまま、話は終わった。
けれど、ノートの一行目——さっき書いたばかりの日付が、
“行く”という意味を勝手に背負ってしまったような気がして、僕はそこから目を逸らした。
本当は、誘われなくても行くつもりだった。
でも、その一言を言うには、僕の口はまだうまくできていない。
代わりに、短くて曖昧な言葉だけが、今日も喉のあたりを行き来している。
*
放課後。
チャイムの余韻がまだ天井に貼りついているころ、僕と秋津は、理科棟の三階の端っこにいた。
「……こっち、だよね」
案内も看板もない廊下の突き当たり。
掃除用具入れの横にある、目立たないドア。
小さなプレートにマジックで「鉄旅同好会」と書かれた紙がセロハンテープで貼られている。
だいぶ前からそこにあるらしく、端がくるりと丸まっていた。
秋津が、指先でノックを二回。
中から椅子を引きずるような音がして、それから鍵の回る小さな音。
「はーい……お、来た来た。どうぞ」
現れたのは、ホームルームでビラを配っていた三年生——椎名先輩だった。
さっきよりも少しだけ、目の下に疲れの影がある。それでも口元は普通に笑っている。
中は、「部室」という言葉から連想するものより、ずっと小さい空間だった。
理科準備室の半分をパーテーションで区切っただけの場所。
折りたたみ机が二つと、丸椅子が三つ、スチール棚と、積み重ねられたダンボール。
でも、そこにはちゃんと“匂い”があった。
紙の匂い。インクの匂い。セロテープが古くなったときの甘い匂い。
そして、ダンボールの隙間から、少しだけ油の匂い。
「改めて。三年の椎名。鉄旅同好会の、今んところ部長ってことになってる」
先輩は軽く頭を下げて、僕らを見る。
「二年の……えっと、秋津さんと、清瀬くん、だよね?」
「はい。秋津です。えっと、今日は、見学だけ」
秋津がきちんと頭を下げる。
僕は少し遅れて、小さく会釈だけした。
「見学だけでも十分。来てくれただけで、やる気がだいぶ補充されたから」
椎名先輩はそう言って、ダンボールのひとつに手を掛けた。
「じゃ、机の上だけちょっと借りるね。ほんと、たいしたものはないけど」
ダンボールの蓋が開くたび、部屋の空気が少しずつ重くなる。
古い紙が空気を吸って、ふわりと膨らんだような、そんな感じ。
一つ目の箱には、ビニールカバーのかかった大型アルバムがぎっしりと並んでいた。
二つ目には、細かい字でびっしり埋まったノートと、折りたたまれた路線図。
三つ目には、ぐるぐる巻きになった銀色のレールと、小さなパワーパックと、スポンジケースに収まった通勤電車のミニチュア。
「ここまでは、鉄研時代の遺産。正式名称は“鉄道研究部”だったんだけどね、昔は」
先輩はアルバムを一冊取り出して、机の上にそっと置く。
透明フィルム越しに、駅や列車の写真が整然と並んでいる。
撮影者の名前が小さく書かれているページもあって、昔の三年生や、知らない二年生の名前が並んでいた。
「一番よく行ってたのが、新徳安方面。あと、郊外のローカル線。
文化祭で写真展示したり、冬に一泊二日で乗りまくったり——そういうのの残骸」
ページをめくる指の動きは丁寧で、少しだけ懐かしそうだった。
僕は自然にアルバムの端に手を伸ばす。
一枚の写真で指が止まる。
NR新徳安線の通勤車両。形式は、僕のよく知っているやつだ。
でも、一両だけ、顔の印象が違う。
ヘッドライトの位置がわずかに高く、前面の塗装がほんの少しだけ薄い。
クーラーの箱の形も、見慣れたものと違っていた。
「……これだけ、仕様が違う」
思わず声に出す。
「幕の最終ロット……かな。パンタグラフも、ここだけシングルアーム。同じ新徳安行きでも、こいつだけ、ちょっと顔が違う」
「へえ」
秋津が横から覗き込む。
僕とアルバムの距離が近づいて、制服の袖が少しだけ触れた。
「顔が違う、って面白い。
乗ってると、窓の揺れ方とか匂いとか、分かるけど……見た目でも分かるんだ」
「うん。光の拾い方とか。
同じ線路でも、車両が違うと、世界の音が少し変わるから」
言ってから、少し恥ずかしくなる。
でも、秋津は「ふーん」と短く笑って、写真から目を離さなかった。
「ノートは、旅程のメモ。だいたい、こんな感じ」
椎名先輩が別の箱からノートを一冊取り出す。
日付、駅名、時刻、乗り換え、備考。
細かい字で、列車の番号や車両形式が書き込まれているページもあった。
ところどころに、「無理筋」「走る」「ギリ」といった物騒なメモ。
「ここ、“三分”って書いてある」
秋津が指で示す。
「乗り換え、三分」
「高校生の脚力なら、ギリ。
でもまぁ、乗り換え失敗したほうが、あとで笑えることもある」
椎名先輩は、冗談みたいに言っているけれど、字のひとつひとつには本気の温度が残っていた。
Nゲージの箱を開けると、銀色のレールがぐるぐると丸まっている。
レールのジョイナーの部分は、何度も抜き差しされたのだろう、少しだけ黒ずんでいた。
スポンジケースには、通勤型電車が数両。
側面の帯は、現行塗装より少しだけ濃い色をしている。
「これ、動くんですか?」
と秋津が訊く。
「正直、怪しい。
前回ちゃんと動かしたのは、二年前の文化祭だから。
今は、“ここにあった”っていう証拠みたいなもんかな」
先輩はそう言って笑い、パワーパックの摘みを指先で軽く撫でた。
「まぁ、今日は“動かさない”見学でごめん。
鉄道に興味ある人がいるって分かるだけでも、俺としては十分」
ほんとうに「短い見学」だった。
アルバムを二、三冊めくって、ノートを数ページ眺めて、模型の箱の中身を覗くだけ。
それなのに、僕の中では、けっこうな情報量になっていた。
——この学校に、こういう“残骸”が積まれている場所がある。
そこに、まだ埃をかぶりきっていない「線路」が、少しだけ残っている。
それを、なんでもない顔をして守っている人間が、目の前にいる。
そう思ったところで、ドアのほうから、小さなノックの音がした。
*
コンコン、と二度。
椎名先輩が「どうぞー」と返すと、ドアが少しだけ開いた。
「失礼します。生徒会です」
腕章をつけた二人組が立っていた。
黒髪をきちんと結んだ女子と、眼鏡の男子。
どちらも、教科書の端にきれいに線を引きそうなタイプだ。
「今、大丈夫ですか?」
「うん。見学中だけど、大丈夫。どうした?」
椎名先輩は、机の上のアルバムに手を置いたまま答える。
「例の件で……ちょっと、お話を」
「例のって、ああ、あれか」
先輩の声が、少しだけ低くなる。
でも、笑みは消さないまま、「ごめん、ちょっとだけ席外すね」と僕らに向かって言った。
「アルバム、適当に見てていいから」
そう言って、椎名先輩は生徒会の二人を廊下側に誘導し、ドアを半分だけ閉めた。
完全には閉めきられていないすき間から、声が少しだけ漏れてくる。
「……はい、分かってます。
人数のことと、活動の……ええ。
書類は、もう一回出し直します」
「このままだと、その……」
男子のほうの声が途中で途切れる。
廊下を通る誰かの足音に、言葉の半分がかき消された。
「具体的なところは、顧問の先生から、改めてお伝えします。
今日は、とりあえず“こういう状況です”っていう確認だけで」
女子の声は、丁寧だけど、少しだけ硬い。
「うん。了解。
とりあえず、今は“続けていい”ってことで、合ってるよね?」
「はい。今すぐ何かが、ということではないです。
ただ——」
そこから先は、また足音で遮られて、よく聞こえなかった。
廊下の端で誰かが笑っている。
完全なセンテンスにならない単語だけが、断片的に耳に残る。
「人数」「記録」「継続」「今年度中」
そんな言葉たち。
僕はアルバムを開いたまま、ページの上ではなく、透明なビニールの反射を見ていた。
柔らかくゆがんだ光の向こうで、椎名先輩の背中と、生徒会の腕章がぼんやり揺れている。
「やばそうだね」
秋津が、小さな声で言う。
ノートを閉じたまま、視線を下に落としている。
「……かも」
僕はそれだけ返した。
“やばい”の具体的な中身は分からない。
でも、“ここがこのままではいられない”という雰囲気だけは、はっきりと伝わってきた。
やがてドアがまた開いて、生徒会の二人が軽く会釈して去っていく。
椎名先輩は「お疲れさま」と言って見送り、ゆっくりドアを閉めた。
戻ってきたときには、さっきより少しだけ、肩の位置が低くなっていた。
それでも、僕らの前に立つときは、ちゃんと笑う。
「ごめんね。途中で中断しちゃって」
「いえ……」
秋津が首を振る。
僕も、なんとなく頷いた。
「まあ、簡単に言うとだね」
椎名先輩は、机の端に腰をあずけるようにして言う。
「このままだと、“鉄旅同好会”は今年でおしまいかもしれない、って話」
その言葉は、意外なほどストレートだった。
でも、種明かしはそこで打ち切られる。
「詳しいことは、今のところまだ決まりきってない。
だから、あんまり深刻に受け取らないでいいよ。
今日来てくれた二人に、“重い話”するつもりはないし」
軽く笑いながら、先輩は両手を広げてみせる。
「ただ——まあ、正直に言うとね。
本音では、もう少し“味方”が欲しいな、とは思ってる。それくらい」
先輩の苦笑の顔と、その「味方」という言葉が、部屋の隅に引っかかったまま、しばらく揺れていた。
見学は、本当にそれで終わりだった。
アルバムを元の箱に戻し、ノートと模型も片付ける。
時間にしたら、二十分もなかったと思う。
でも、部屋を出るころには、頭の中の風景はかなり違っていた。
さっきまでただの“同好会”という響きだった名前が、
少しだけ「消えてしまうかもしれないもの」の色を帯びていた。
*
準備室を出ると、理科棟の廊下は、夕方の匂いでいっぱいだった。
教室棟からは部活のかけ声が遠くで響いている。
窓の外では、グラウンドの土埃が薄く浮かんでいた。
階段の踊り場の自販機の前で、僕と秋津は立ち止まった。
なんとなく、そのまま帰る空気にならなかったからだ。
「飲む?」
秋津が言って、財布を取り出す。
僕もICカードをポケットから出す。
同じ列に並んでいる缶コーヒーのボタンを、同時に指先で触れて、同時に引っ込めた。
「……どうぞ」
「いや」
短い言葉がまた重なって、ふたりして少しだけ笑う。
結局、僕が別の種類のボタンを押して、秋津もそれと同じものを選んだ。
ベンチに腰を下ろし、プルタブを引く。
空気が少しだけ甘くなる。
しばらく、誰も何も言わなかった。
廊下を吹き抜ける風が、空き缶置き場のビニール袋をかさかさ鳴らす音だけが続く。
先に口を開いたのは、秋津のほうだった。
「……ちょっと、焦った」
「さっきの?」
「うん。
“このままだとおしまいかも”って、わりと直接に言われてたでしょ」
「……まあ」
僕は缶の縁を指でなぞりながら答える。
「正直、“行かなきゃよかった”って思うような重さじゃなかったけど……
“知っちゃったからには”、ちょっと気になる」
秋津は、缶を片手でくるくる回す。
指の間で、ラベルの印刷が小さく光った。
「清瀬くんは? 行ってみて、どうだった」
質問はまっすぐだけど、視線はこっちを見ていない。
だから、少しだけ答えやすい。
「……写真、よかった」
一拍置いて、もう一つだけ足す。
「模型も。
ちゃんと“好きだった人たち”がいたんだな、って感じがした」
言葉にすると、胸の奥がむず痒くなる。
でも、それが本音だった。
バラバラの「残骸」が、誰かの時間の跡であることは、素人目にも分かった。
「……うん。
なんか、“ここがなくなる”って聞いても、私たちには関係ないはずなのに」
秋津が、少しだけ笑う。
「関係ないはずなのに、“あ、やだな”って思っちゃった。
わがままかな」
「別に」
僕は首を振る。
言いながら、胸のあたりがぎゅっと小さくなる。
“関係ない”って言い切ることは、もうできなかった。
朝のホームも、夕方のホームも、そしてさっき見たアルバムも——
全部、一本の線の上にあるような気がしたからだ。
「……ねえ」
秋津が、缶を両手で持ち直す。
短く息を吸ってから、言った。
「入ろうよ。同好会に。」
缶のアルミが、指の力で少しだけへこむ。
言葉は、さっきの椎名先輩の「味方が欲しい」という一言と、ぴったり重なっていた。
「……」
僕はすぐには返事ができなかった。
“うん”と答えるのは簡単だ。
でも、本当にそう言ってしまったら、何かがもう戻れなくなる気がして、喉のあたりで言葉がぐるぐる回る。
「入ったからって、いきなり何かできるわけじゃないのは分かってる。
でも、“何も知らない”ふりして通り過ぎるのは、さすがにずるいなって」
秋津の声は、意外と淡々としていた。
泣きそうでも、怒っているわけでもなく、ただ事実を並べているだけ。
「それに——」
そこで、一瞬だけ言葉が途切れた。
覚悟を決めるみたいに缶をひと口飲んでから、続ける。
「清瀬くんが一人であそこに行くことは、たぶんこれからもないと思うから。
鉄道好きの清瀬くんに、今のうち、引っ張っとかないと」
言われて、反論しにくいところを正確に突かれた気がした。
図星すぎて、笑えなかった。
「……別に、行ってもいいけど」
やっと絞り出した返事は、また曖昧だった。
「入る」とも「入りたい」とも言っていない。
でも、「嫌だ」とも言っていない。
秋津は、それで十分だと言わんばかりに、あっさり頷く。
「じゃ、決まり。
このあと戻って、“入ります”って言お。
今なら、まだ先輩いるかも」
有無を言わせないほどの勢いではないけれど、
引き返す隙を与えないくらいの強さはあった。
「……分かった」
短くそれだけ答えて、立ち上がる。
空き缶置き場に缶を入れる音が、やけに大きく響いた。
*
もう一度、理科準備室の前に戻ると、ドアは少しだけ開いていた。
中では椎名先輩が、さっきのダンボールの蓋を戻しているところだった。
「あ、ごめん。まだいた?」
こちらに気づくと、先輩は鍵束を机に置き直した。
「えっと……」
僕と秋津は、顔を見合わせる。
どっちが言うか、一瞬迷って——
結局、秋津が一歩、前に出た。
「入部したいです。
鉄旅同好会に」
はっきりした声だった。
僕は、横で小さく頷く。
「……僕も。
もし、まだ入れるなら」
椎名先輩は、少し目を丸くして、それからゆっくり笑った。
「もちろん。大歓迎だよ」
机の引き出しから、一枚の紙を取り出す。
上のほうには、“若宮高等学校 鉄旅同好会 名簿”と印刷されている。
その下に、手書きで“3年 椎名智”、“2年 雲雀ひなた”の名前。
「正式な書類はまた顧問の先生経由だけど、まずはここに。
学年とクラスと名前、書いて」
ボールペンを渡される。
僕は、紙とペンの重さを確かめてから、ゆっくり一文字ずつ書いた。
“2年 B組 清瀬 澄矢”
横で、“2年 B組 秋津 栞”の文字が並ぶ。
知らないうちに、呼吸まで同じテンポになっていた。
ペンを戻すと、椎名先輩が名簿を見下ろし、満足そうに頷く。
「これで、“二年が一人”じゃなくなった。
ありがと。ほんとに」
「……そんな、大したことじゃ」
思わず口に出しそうになって、途中で飲み込む。
「入る」と決めてしまえば、僕らにとってはただの一行のことでしかない。
でも、さっき廊下で聞いた「人数」とか「継続」という単語を思い出すと、
その一行が、思った以上に重い意味を持っているのかもしれないと思った。
「活動のこととか、細かい話は、また今度で。」
「はい」
秋津が即答する。
僕も、小さく「……大丈夫です」と付け足した。
それで、その日の「見学」は正式に終わった。
理科棟を出て、昇降口を抜ける。
校門を出るとき、空はすっかり夕方になっていた。
街灯が順番に点いて、歩道の縁をオレンジ色に塗っていく。
若宮駅までの道を、僕と秋津は並んで歩いた。
さっきまでいた教室の喧騒が嘘みたいに、道は静かだった。
「……入っちゃったね」
秋津が言う。
「うん」
「後悔してる?」
「……別に」
それは本当だった。
不安がないわけじゃない。
でも、“やめておけばよかった”という感情は、どこにも見当たらなかった。
「私、ほんとはね」
秋津が、少しだけ笑う。
「“鉄旅同好会”って名前聞いたとき、
最初は“地味そう”って、正直思ってた」
「……まあ」
「でも、写真見たら、“あ、ちゃんと楽しかったんだろうな”って思った。
なんか、それを“なかったこと”にされるの、やだなって。
……わがままだけど」
「わがままでも、いいんじゃない?」
僕は歩幅を合わせながら答える。
「どうせ、ほかの誰かが決めることだし。
せめて、ちょっとくらいは、“やだな”って思う側にいても」
自分で言っておいて、少しだけ驚いた。
こんなふうに言葉が出てくるのは、あまりないことだ。
「ふふ。
じゃあ、“やだな”チームとして、がんばろっか」
秋津は、駅の方を見ながら笑う。
その笑い方は、昨日、夕焼けのホームで見たものと同じで、
でも、それより少しだけ近いところにあった。
若宮駅の階段を上がる。
改札を抜ける人の波に、自然と身体を預ける。
ホームに出ると、遠くで列車のモーター音が立ち上がりつつあった。
「清瀬くん」
「なに」
「……また、写真見せてね。
今日みたいなの。
今度は、“乗ってるとき”のも」
「……考えとく」
本当は、“いいよ”と即答してもよかった。
でも、口から出てきたのは、そのくらいが限界だった。
それでも秋津は、あまり気にした様子もなく、
「うん。期待しとく」
とだけ言って、次の列車が来るホームのほうへ歩いて行った。
僕も、反対側のホームへ向かう。
さっき名簿に書いた自分の名前のインクが、まだ乾ききっていないような気がした。
列車が滑り込んでくる。
ドアが開く。
一歩、前へ。
——線路の上で、世界がほんの少しだけ進路を変えた気がした。
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