ストーカー⁉︎
都心のオフィス街に佇む小さなカフェ。ランチタイムの喧騒もひと段落し、店内には穏やかなジャズが流れていた。窓際の席では、午前中の仕事を終えたばかりの二人のOLが、遅めのランチを楽しんでいた。
「由美……幸せそうだったね……」
私、望月 円(もちずき まどか)は、ふて腐れたようにテーブルに顎を乗せ、そう呟いた。つい先週、同じ部署の同僚だった由美の結婚式に出席したばかりだった。純白のウェディングドレスに包まれた由美の笑顔が、今も脳裏に焼き付いている。あの幸せそうな表情、新郎を見つめる優しい眼差し、そして会場を包んでいた祝福の空気――それら全てが、今の私には眩しすぎた。
「そうだね〜。ギリギリ二十代で滑り込めたって感じだよね〜」
向かいに座る同期の御影 美樹(みかげ みき)は、スマホを操作しながら軽い調子でそう答える。彼女の指は慣れた様子で画面をスワイプし、恐らくSNSか何かをチェックしているのだろう。美樹の表情には、特に羨望の色は見られない。いつもの冷静で客観的な彼女らしい反応だった。
円は少し身を乗り出し、美樹の顔を覗き込むように尋ねた。
「美樹は羨ましくないの?」
カプチーノのカップを置いた美樹は、私の方を見て、少し驚いたような表情を浮かべた。
「羨ましいよ? でも私に見合う男がいないんだからしょうがないじゃない?無理に結婚しても直ぐに離婚とか嫌だしね」
そう言いながら、美樹は黒縁のメガネを人差し指でクイッと持ち上げた。その瞬間、レンズが窓から差し込む午後の光を反射し、彼女の表情が一瞬隠れる。この仕草は、美樹が何か強がっている時の癖だ。長年の付き合いで、私はそれをよく知っていた。
「そんなに羨ましいんだったら、元彼にプロポーズされた時にOK出せば良かったのに」
その言葉を聞いた瞬間、フォークを持つ指が止まった。
あ、やば。絶対顔に出た。
私はすぐに笑って誤魔化そうとしたけど、口の端がぎこちなく引きつるのを自分でも分かった。
「ちょ、ちょっと!それ言う!?ひどいよ〜!」
つい声が大きくなってしまう。
こんな話、笑って受け流せたはずなのに。 胸の奥がチクリと痛くて、思わずむくれるみたいに頬をふくらませた。
「だってさ……あの時ほんとに忙しかったの。新人で、毎日ぐちゃぐちゃで。恋とか結婚とか考える余裕なかったってば!」
言いながら、自分でも分かってる。
言い訳みたいだって。
でもあの時の私は本気だった。
泣きながら帰った夜もあったし、必死に食らいついて、やっと社会人の自分を形にしていった。
「……後悔してないよ?ちゃんと自分で決めたことだし」
言葉にすると、少しだけ息が震えた。テーブルの上のアイスラテの氷がカランと鳴る。
私は慌ててストローをくわえて飲んだ。冷たいのに、喉がやけにからっぽだ。
私は急に堪えきれなくなって、子供のように手足をバタつかせながら叫んだ。
「あ゛〜ッ!ウェディングドレス着たい〜! 幸せになりたい〜!」
カフェの他の客が、一斉にこちらを見た。恥ずかしさよりも、この鬱屈した気持ちをどうにかしたい衝動が勝っていた。私は構わず、テーブルに突っ伏しながら続けた。
「はぁ……運命の人、私の前に現れろっ!」
私の必死な様子を見て、美樹がニヤリと笑った。その笑みには、何か企みがあるような予感がした。
「そうね〜。円がそう言うと思って、今週の土曜に合コンセッティングさせていただきました〜。ニヒヒ」
美樹は満足そうに、まるで商談を成功させた営業マンのような表情で言った。
「ふぁ〜、流石営業部エース! 仕事出来すぎだよ〜」
私は感嘆の声を上げた後、ハッと気づいた。
「えっ、でも美容院行かないとじゃん!」
「だからっ、土曜にしたんじゃない。金曜の夜か土曜の午前中にでも行って来なよ」
美樹の用意周到さに、私は改めて感心した。彼女は本当に仕事ができる。こういう細やかな配慮が、営業成績トップを維持している秘訣なのだろう。
「ははぁ〜」
私はテーブルにひれ伏し、潤んだ目で美樹を見上げた。まるで主君に仕える家臣のように。
「崇め奉りなさい。はっはっはっ」
美樹は勝ち誇ったように高笑いする。私は彼女の耳に口を近づけ、小声で囁いた。
「当日はおごらせていただきますゆえ」
「円屋〜、お主も悪よの〜」
「美樹様程では」
二人は声を潜めながら、まるで時代劇の悪代官と越後屋のように高笑いした。カフェの他の客たちは、また不思議そうにこちらを見ていたが、私たちは気にしなかった。こんな馬鹿なやり取りができるのも、七年来の友人だからこそだ。
昼休みが終わり、私は会社に戻った。都心にそびえ立つ高層ビルの十五階。大手広告代理店「クリエイト・ワン」のクリエイティブ戦略部。窓からは東京の街並みが一望できる、この会社の中でも人気のフロアだ。
私のデスクに戻ると、すでにパソコンのモニターには数十件の未読メールが表示されていた。午前中に提出した企画書への質問、クライアントからの修正依頼、後輩が作成した資料のチェック依頼……。仕事は山積みだ。
「望月主任、こちらの資料、確認をお願いできますか?」
入社二年目の後輩田中君が恐る恐る声をかけてきた。彼の手には、まだ赤ペンの跡が残っていない真っ白な企画書が握られている。
「ああ、置いといて。午後イチで見るから」
私は優しく微笑みながら答えた。田中君はホッとした表情で、資料を私のデスクの隅に置いていった。
私の名前は望月 円。年齢は二十八歳。この大手広告代理店に入社して七年目になる。入社当初は右も左も分からず、先輩たちの後ろをついて回るばかりだったが、今ではクリエイティブ戦略部の主任という肩書きまで付いた。
部下も三人抱え、大きなプロジェクトのリーダーを任されることも増えた。クライアントからの評価も高く、「望月さんに任せれば安心」と言ってもらえることも多い。上司からも信頼され、同僚からも頼りにされている。
仕事は、順風満帆だ。
でも――。
私はふと、窓の外に目をやった。夕暮れが近づき、オレンジ色に染まり始めた空。その向こうには、無数のビルが立ち並び、その中には無数の人々が生活している。その中の誰かと、運命的な出会いをする日は来るのだろうか。
恋の方は、何一ついい出会いがない。
この数年、仕事を頑張ってきた結果なのかもしれない。でも、世の中の女の子は恋と仕事を両立しているんだと思うと、本当に尊敬する。私には、そのバランスの取り方が分からなかった。
気づけば、合コンも婚活パーティーも、「また今度でいいか」と先延ばしにしてきた。休日は疲れて寝てばかり。平日は残業で帰りが遅い。プライベートの時間なんて、ほとんどなかった。
「このままじゃダメだよね〜」
そう思いながらも、目の前の仕事に追われる日々。気づけば、同期や後輩がどんどん結婚していく。焦りはある。でも、どうすればいいのか分からない。
ため息をつきながら、私はパソコンのキーボードに向かった。考えても仕方ない。今できることをやるしかない。そう自分に言い聞かせて、仕事に没頭した。
企画書の作成、クライアントへのメール返信、後輩の資料チェック、会議の準備……。気づけば、オフィスから人の気配が消えていた。
「終わった〜」
両手を高く上げて背伸びをする。肩がゴキゴキと音を立てた。長時間のデスクワークで、体中が固まっている。首を回すと、これもまたゴキゴキと音がした。
ふと、腕時計を見る。二十時十五分指していた。
「うわっ、もうこんな時間! って……急ぐ必要ないか……」
誰も待っていない家。温かい食事も、おかえりと言ってくれる人もいない。急いで帰る理由なんて、何もなかった。
椅子がギシッと悲しげな音を立てた。まるで私の心情を代弁するかのように。
帰り支度を済ませ、オフィスを後にする。エレベーターホールには誰もいない。ビルの警備員が「お疲れ様です」と声をかけてくれるのに、軽く会釈で返す。
外に出ると、十一月の冷たい空気が頬を撫でた。昼間の温かさとは打って変わって、夜はもう冬の気配がする。私はコートの襟を立て、駅へと向かった。
駅までの道のりは、街灯が規則正しく並び、サラリーマンやOLたちが足早に通り過ぎていく。みんな、家で誰かが待っているのだろうか。そんなことを考えながら歩いていると、なんとなく背後に人の気配を感じた。
振り返る。
でも、特に怪しい人はいない。ただ、同じように帰路につく人々がいるだけ。
「気のせい…」
そう思って、また前を向いて歩き始めた。
駅の改札を抜け、ホームへ向かう。電車を待つ間も、なんとなく視線を感じる気がした。でも、周りを見渡しても、みんなスマホを見たり、ぼんやりと電車を待ったりしているだけ。特に私を見ている人はいない。
「気のせいよね…」
そう自分に言い聞かせた。
やがて電車が到着し、私は座席に座った。平日のこの時間、上りの電車は比較的空いている。座席に身を沈め、目を閉じる。電車の揺れが心地よく、いつの間にかうたた寝をしていた。
どのくらい眠っていただろう。ハッと目を覚ますと、電車内の電光掲示板に自分が降りる駅名が表示されていた。
「やばっ!」
慌てて立ち上がり、ドアへと駆け寄る。ドアが閉まる直前、ギリギリで飛び降りた。背後でドアが閉まる音がする。
「セーフ……」
胸を撫で下ろし、改札へと向かった。
駅を出ると、もう辺りは真っ暗だった。街灯だけが頼りの住宅街。私はいつものスーパーへと足を向けた。
二十四時間営業のスーパー「フレッシュマート」。この時間になると、半額シールが貼られた惣菜が並ぶ。一人暮らしの私にとっては、ありがたい存在だ。自動ドアが開き、店内に入る。蛍光灯の明るい光が目に眩しい。
惣菜コーナーへ向かうと、予想通り、たくさんの商品に半額シールが貼られていた。私は目を輝かせながら、品定めを始めた。
「今日頑張った分と、明日頑張る分!」
そう言いながら、籠に次々と商品を入れていく。
鮭の塩焼き弁当、ひじきの煮物、ほうれん草の胡麻和え、冷奴用の豆腐、柚子ポン酢、そして缶ビール350mlを二本。
完璧なラインナップだ。これで今夜は安泰だ。
レジで会計を済ませ、店を出る。その時だった。
また、あの視線を感じた。
振り返る。でも、店内には数人の客がいるだけで、特に私を見ている人はいない。でも、確かに感じるのだ。誰かに見られている感覚を。
「気のせい、気のせい」
そう自分に言い聞かせ、スーパーを後にした。
家までは徒歩で約10分。普段なら何ともない道のりだが、今夜はなんだか違った。
コツ、コツ、コツ……。
私のヒールの音が、静かな住宅街に響く。そして、その音に重なるように、もう一つの足音が聞こえる気がした。
コツ、コツ、コツ……。
振り返る。でも、誰もいない。ただ、街灯が不気味に点滅しているだけ。
「気のせい、気のせい。帰り道が一緒なだけ」
そう自分に言い聞かせ、平静を装う。でも、心臓はバクバクと早鐘を打っていた。
角を曲がる。足音はまだ聞こえる。
また角を曲がる。まだついてくる。
私はここ最近、背後から人の気配を感じていたことを思い出していた。駅のホームでも、スーパーでも、そして今のように夜道でも。
「えっ、ストーカー⁉︎ でも、なんで私に……」
心の中で呟く。最近恋愛なんてご無沙汰だしストーカーに狙われる理由なんて、思い当たらない。でも、確実に誰かが私を追っている。この足音は、私の妄想じゃない。
「怖い……怖い……」
足が震える。でも、立ち止まるわけにはいかない。ヒールの底から地面の冷たさがじわりと上がってくる。家まであと少し。街灯のオレンジが、頼りない。心細い。スマホを握る手に汗が滲む。通話アプリを開いておくべき?メッセージを打ちながら歩く?でもそんな余裕、ない。胸がドクドクしてる。
頭の中に、テレビで見た防犯特集がよぎる。ストーカーって案外臆病だから、勇気を見せたら逃げる。大声を出す、堂々とする、振り返る。
……堂々、できるかな。いや、やるしかない。
「次の角を曲がって、まだついて来たら叫ぼう」
声に出すと、震えがほんの少しだけ落ち着いた気がした。
私は小さく頷き、角を曲がる。
コツ、コツ、コツ……。
……来た。
足音、まだついてきてる。
心臓が喉まで持ち上がるみたいで、息が吸えない。
「ついて来た……。あんたが悪いんだから、悪く思わないでね……!」
鼓動ごと噛みしめて、振り返る。
肺いっぱいに空気を入れて……
「キャー!誰かー!助けてー!ストーカーよーーー!」
夜道に私の声が弾けた。
自分で叫んどいて、鼓膜がびっくりしてる。
町の静けさが一瞬止まって、冷たい風が頬を撫で――
「……え?」
目の前で、男の人が固まっていた。
男性は、私と同じくらいの年齢だろうか。いや、もう少し若いかもしれない。目つきの悪い三白眼で、第一印象はあまり良くない。スーツを着て、片手にはスーパーの袋を持っている。
「おい! おい! ふざけんなよ! 誰がストーカーだよ! 撤回しろ!」
「撤回なんてするわけないでしょ!」
声が震えてるけど、それは恐怖じゃない。プライドだ。私は絶対に引かない。だって―― 本当についてきてた。それが事実。
「……あっ、思い出した!」
自分の脳が急にスイッチ入る。
「あんた、スーパーで見た気がする! ほら、レジ横の惣菜コーナー! 半額シールじーっと見てた!」
ビシッと指を突きつける。
「あれは……ただシャケ弁見てただけだ!」
男の顔が真っ赤になる。恥ずかしさと怒りが混ざったような。
「現行犯ね!」
私は手を震わせながらスマホを取り出し、110をタップした。
画面の数字が光って、心臓も跳ねる。
「スーパーで見かけただけでストーカー扱いか! 自意識過剰なんじゃねぇのかよ!」
「もしもし警察ですか? ストーカーに追われています! 場所は――」
男の叫び声が背中に刺さる。
でも、私は止まらない。止まれない。
通報を終えると、スマホを握りしめたまま宣言した。
「誰が自意識過剰ですって!?
私くらいイケてるキャリアウーマンには、ストーカーの一人や二人いるのよ!」
「……自分でそれ言っちまうのかよ」
男の声は呆れ半分、怒り半分。
でも、どこか“困ってる人の声”に聞こえた。
これは私の錯覚? いや、多分気のせいじゃない。
「ガルゥゥ!」
思わず歯をむき出しにする。
鼻息まで荒い。私、いま完全に野生動物。
「グルぅぅ!」
男も負けじと唸り返す。
なんなのこの人。なんなの私。状況は混沌。
お互い、一歩も引かない。
夜道で、大人二人が本気で威嚇し合ってる。
冷静に見たら完全にバカ。だけど―― 怖かったんだ。だから私は戦った。
その時、
パトカーの赤色灯が視界の端で瞬いた
「どうしたのー? 痴話喧嘩?」
警察官の一人が、呑気そうに尋ねた。
「違うに決まってるでしょ!」「だろ!」
私と男は、息の合ったように同時に答えた。その瞬間、私たちは顔を見合わせ、すぐに目を逸らした。
「カップルの痴話喧嘩じゃないの? 話聞くから、二人とも離れて」
警察官に誘導され、私と男はそれぞれ離れた場所で事情を説明することになった。私は警察官に、ここ最近の出来事を話した。背後から追ってくる気配を感じていたこと。駅のホームで視線を感じたこと。スーパーで見かけた男が、暗がりの中でも私を追ってきたこと。
「うーん……それだけじゃストーカーとは断定できないですよ……。うーん、取り敢えず免許証見せて」
警察官はボールペンでこめかみを掻きながら言った。
「えっ、なんでですか? 私、疑われてるんですか?」
私は不安になって尋ねた。
「違う違う。住所が近いだけかもしれないでしょ?」
「……たしかに」
私は免許証を取り出し、警察官に渡した。警察官はそれを確認すると、もう一人の警察官のところへ行き、何やら見比べている。
「あーこりゃ間違うわ」
警察官は納得したように頷き、私たちに免許証を返した。
「もう帰っていいよ」
「えっ、なんでこのストーカーが無罪なんですか⁉︎」
私は食い下がった。
「だから言っただろ、俺はストーカーじゃないって」
男が勝ち誇ったように言う。そして、なぜか名乗り始めた。
「俺は朝日奈真琴(あさひな まこと)だ」
「なんで名乗るの? 気持ち悪いんですけど」
「はぁ?」
「まぁとにかく、君ら家が近いんだよ。だから望月さんが謝って、早く帰りましょうよ。明日も仕事でしょ?」
警察官の言葉に、私はゆっくりと、ロボットのように首を軋ませながら真琴の方を向いた。彼はドヤ顔をしていた。その表情が、無性に腹立たしかった。
「どぉうもぉーすぅみぃまぁせぇんでぇしぃたぁー」
私はふて腐れながら、わざとらしく謝罪した。
「それで謝ってるつもりなんですかねー」
「謝ってますけど、なにか?」
「はい!」
警察官が手を叩いた。
「これで和解ね! もうこういうので通報しないでねー」
そう言って、警察官たちは去って行った。
そして、私と真琴も帰ろうとした。でも、二人とも同じ方向へ歩き出す。
「ふんっ」
「フンっ」
私たちは顔を背けながら、同じ道を進んだ。足音だけが、静かな夜に響く。
「なんでまだ付いてくるのよ」
私はイライラしながら言った。
「警官が言ってただろ! 家が近いってよ!」
「家が近いにも程があるわ! もう一回通報するわよ!」
「おあいにくだな。俺はこのマンションに住んでるんでな。このくだらないやり取りも終わりってわけだ」
真琴が指差した先には、私が住んでいるマンションがあった。築15年の、ごく普通の中層マンション。
「嘘でしょ……私もこのマンションなんだけど……」
私は信じられない思いで言った。
「ゲッ。お前が俺のストーカーなんじゃねぇの……」
真琴は少し引いた様子で言った。
「そんな訳ないでしょ!」
私たちは無言でエレベーターに乗り込んだ。気まずい沈黙が流れる中、私は7階のボタンを押そうとした。
でも、真琴も同じタイミングで手を伸ばし、7階のボタンを押していた。
「また……」
「同じ階……」
エレベーターがゆっくりと上昇していく。その間、私たちは一言も言葉を交わさなかった。ただ、気まずい空気だけが流れていた。
7階に到着し、ドアが開く。私たちは同時に降りた。そして、同じ方向へ歩き出す。
まさか、と思った。
でも、その「まさか」が現実になった。
私の部屋は702号室。そして、真琴が立ち止まったのは――701号室。
隣同士だった。
私は警察官が言っていた言葉を思い出した。
「あーこりゃ間違うわ」
その意味が、今になって痛いほど分かった。
「隣の部屋とか、まじでウザいんですけど」
私は吐き捨てるように言った。
「それはこっちも同じだっての」
真琴も不機嫌そうに言った。
私たちは同時に、それぞれの部屋のドアを強く閉めた。バン! と廊下に響いた音が、勝負のゴングみたいに感じた。
「……むかつく」
コートを投げ捨て、スーパーの袋を放り出す。冷蔵庫から缶ビールを取り出し、プシュッと開けた。喉に炭酸がしみて、少し涙が出そうになる。
「むかつく、ほんと……」
惣菜パックを開け、鮭弁当を温める。
テレビつけたけど内容なんて頭に入らない。
食べて、シャワー浴びて、パジャマに着替える。
行動は全部自動運転みたいだった。
「むかつく……」
タオルで髪を拭き、歯を磨きながら鏡を見る。顔が、今日はひどく疲れて見えた。
スマホを確認。美樹から合コンのメッセージ。
合コンの詳細送るね♡土曜は全力で可愛くいこ!
……はぁ。
結局、私は布団に潜り込む。枕に顔を埋め、小声で叫んだ。
「むかつくぅ……!」
電気を消す。闇の中、まだ胸が熱かった。
その頃、隣の部屋でも同じことが起きていた。
バタン!
玄関のドアを乱暴に閉めた瞬間、玄関マットがずれた。真琴は靴を蹴り飛ばし、深くため息をつく。
「……は?なんなんだあいつ」
冷蔵庫を開ける。仕事帰りに半額で買った唐揚げ弁当と缶チューハイ。
それをテーブルに無言で置く。
チューハイを開け、一気に半分飲む。炭酸が喉に刺さって、怒りがまたぶり返した。
「なんで俺がストーカー扱いされなきゃならんのじゃ……」
レンジで弁当を温める。
チン。カリカリになった唐揚げを噛むと、妙に味が薄い。テレビをつける。
お笑い芸人がふざけているけど、笑えない。シャワー。熱い湯を浴びながらぐっと拳を握る。
「クソ……」
バスタオルで髪を乱暴に拭う。歯を磨き、鏡を見て言う。
「……あーもう気分悪りぃ!」
答えは出ない。布団に倒れ込む。天井を見つめる。
「もう寝る。ばかばかしい」
電気を消す。
静けさが落ちてきて、ようやく目を閉じる。
二人の部屋。
薄い壁一枚を挟んで、まったく別の世界。
だがその夜、
円と真琴は同じ言葉を心の中で呟いた。
「……むかつく」
そして、静かに眠りについた。
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