第3話 ナイト・ストーカー



『……美味しい! 外はサクサク、中はぷるぷる! それでいてちょっと懐かしい味がして――こんなの初めて!』

『それはロクムと言います。世界三大料理の一つに数えられる、トルコ料理のデザートなんですよ!』

『へぇ、トルコ料理ですか? 心春さんの実家は海産問屋だから、お魚料理が出ると思ってました。いい意味でびっくりです!』

『実は……私、生魚が苦手なんです。だから、アルバイトしてる喫茶店のオーナーに、このレシピを教えてもらいました』

『あら、まあ、それは――』

『そのマスターさん、とっても素敵な方なんですよ。優しくて、礼儀正しくて、それに料理がすっごく上手で!』

『あ、あの、心春さん?』

『外見も格好いいんです。ハーフなのか、灰色狼みたいな銀色の髪で、おひげがダンディーで、身長が180センチ近くある上に、引き締まった細マッチョで――』

『そ、そろそろ時間が……!』

『あっ、ちなみに喫茶店の名前は「すのうどろっぷ」って言います! でも、お店には看板がなくて、代わりに白い鈴みたいなお花の絵が飾ってあるんです!』

『い、以上、料理研究会「Stella Kitchen」の晩御飯に突撃いたしました! 皆さま、おやすみなさい!』

『すのうどろっぷです!皆さま、すのうどろっぷをよろしくぅ!!』


心春を押さえ込むレポーターの悲鳴を最後に、画面はコマーシャルへと切り替わった。


「……何やってんだ、あいつは」


無断で宣伝された喫茶店のオーナーは、額を掌で覆い、深いため息をついた。


時は午後八時半。

閉店間際の『すのうどろっぷ』では、長年の常連であるヤン夫妻が、少し遅めの飲茶の夕食を楽しんでいた。


「今のは生放送かい? 心春ちゃん、元気なのはいつもだけど……今回はちょっとやりすぎだな」

「お店のこと、あんな風に話して大丈夫? 厄介なことにならなきゃいいけど……」


心配そうに顔を見合わせる華僑の老夫婦の声に耳を傾けながら、矢上は腕を組み、わずかに眉をひそくめた。


「まあ――ゴールデンタイムとはいえ、今どきテレビを観ている人間もそう多くはありません。

ほとぼりが冷めるまで、表の絵を仕舞っておけば、面倒にはならないでしょう……」


テレビで心春が話したのは、「料理が得意な、身長180cm前後の銀髪の男」、そして「すのうどろっぷ」の店名だけだ。

そこから“ワイルドハント”の“白髪鬼クルースニク”を連想できる者は、そうはいない。

まして、そいつらが今この日本に潜んでいる確率など、限りなく低い。


大事には至らないだろう。

――このときの矢上は、まだそう考えていた。



「もー、何やってんのよ心春! あんたのせいで、私まで居残りになったじゃない!」

「ごめーん、桜子! もう勘弁してぇ……!」


夜も更け、人影のまばらになった歓楽街を、北山心春がしゅんぼりと歩いていた。

公共の電波を使って、勝手にアルバイト先の宣伝をしたせいで、番組プロデューサーとサークルの顧問にたっぷり絞られ、今も親友の春日井桜子に大目玉を食らっている最中である。


「……へへっ。でも、先生とPDのおじさんの間に入ってくれてありがと。

桜子がみんなをなだめてくれなかったら、アタシ、今ごろまだ説教中だったかも」

「そりゃ、長い付き合いだからねぇ……」


まなじりを吊り上げて怖い顔をしているが、桜子はそれほど怒ってはいなかった。

心春の親友をやっていれば、この手の騒動は日常茶飯事。

これくらいのことで揺らぐほど、二人の仲は浅くない。


桜子と心春の付き合いは、高校時代にさかのぼる。

桜子の家は代々政治家を輩出しており、父親は内閣官房長官にまで上り詰めた。

その名はあまりに有名で、目に見えない壁となって同級生を遠ざけ、桜子は高校に入るまで、まともな友人を作ることができなかった。


――心春が現れるまでは。


「こんにちは! アタシ、心春! 春と桜で、アタシたち、良いコンビになれそうだよね!」


そう言って、爆弾みたいな少女は桜子の人生の中に飛び込んできた。

最初はその猛烈なアプローチに戸惑っていた桜子だったが……

二年生の頃、ある事件をきっかけに二人の関係は大きく変わることになる。


当時、桜子たちが通っていた女子高は、令和には珍しく厳格な校則で知られていた。

髪の毛は肩まで。髪染めは絶対に禁止!


ある日、クラスの誰かが学校のコミュニティで、「桜子の茶髪が校則違反にならないのは、学校が忖度しているせいだ!」と書き込んだ。

根も葉もない言いがかりだった。桜子の髪が対象外なのは、祖母に外国人がいるからに過ぎない。


だが、引っ込み思案だった、桜子が反論しないのをいいことに、誹謗中傷は過熱。

とうとう噂は現実の教室に飛び火し、大学受験を控えてピリピリしていた同級生たちの間で大炎上の兆しを見せた。


――そのとき、心春が髪をピンクブラウンに染めて登校した。


当然、教師に捕まり、クラス全員の前で盛大に叱られた。

それでも心春は少しもめげず、桜子の席まで歩いていき、

「アタシも桜子みたいに、オランダ人のお婆ちゃんがいたらよかったのに!」

と、教室中に響く声で言った。


その一言で、桜子を包んでいた重苦しい空気は一気に吹き飛んだ。

やがて、心春と仲良く笑う彼女たちの姿を見て、ネットのデマも自然と鎮火していった。


それ以来、二人は急速に親しくなり、同じ大学に進学して机を並べるようになった。

知り合いの中には、二人の背中を見て「双子みたいだ」と言う者もいた。


---


「……ねえ、心春。あんた、宣伝の件、ちゃんとマスターに断ってからやったんでしょうね?」

「だ、大丈夫じゃないかな?」

「目をそらすな!こっちを見ろ!」

「いひゃい! いひゃいよ桜子!ほっぺ引っ張らないでぇ!」


桜子は親友のもっちりした頬から手を離し、ため息をついた。


「あんたさ、その喫茶店のマスターに入れ込みすぎ。歳の差、一回り以上あるんでしょ?やめときなよ、そんな不毛な恋」

「ち、違うもん! アタシとマスターはそんなんじゃないもん! アタシは、ただ――マスターに喜んでもらって、笑ってほしいだけなんだ!」

「……へえ、なんで?」


心春は頬をさすりながら、遠くを見るような目で言った。


「矢上さんはさ……アタシの前で笑ったことがないの。仕草や言葉遣いで、嬉しいのは分かるんだけど……多分、昔のトラウマか何かで、心から笑えないんだと思う」

「それ、あんたの“いつもの勘”ってやつ?」

「うん、そうだと思う……」


――まったく、この子は!


心春には、孤独な人の懐に入り、本人すら気づかぬ心の傷を癒す、不思議な才能があった。

だが時に、その行動は少し、いや、かなりやりすぎることもある。桜子は今回もそのパターンではないかと心配していた。


「とにかく、そのマスターとは距離感を取りなさいよ。親友が中年男と不倫なんて、私イヤだからね!」

「矢上さんはそんな人じゃないよ!桜子も会えば分かるから! 奢るから、今度一緒に『すのうどろっぷ』に行こうよ!」

「アンタに奢られるほど、官房長官の娘も落ちぶれちゃいないのよ。お金なら私だって――あれ?」


桜子は顔を青くして懐をまさぐった。


「やだ!どうしよう!携帯、スタジオに忘れてきちゃった!」

「早く取りに戻りなよ。お財布アプリとか入ってるんでしょ?」

「うん……心春、一人で帰れる?」

「人を何歳だと思ってるのよ! 桜子こそ、やばいテロリストとかに誘拐されないでね!」

「私はちゃんと護衛がついてるから、大丈夫!じゃあね!」

「また、あした!」


手を振って走り去る親友を見送ると、心春は鼻歌交じりに歩き出した。

ほぼ知り合い全員に叱られたが、彼女はまったく懲りていない。


明日が楽しみだった。あれだけ宣伝すれば、試しに『すのうどろっぷ』に足を運ぶ客が、一人二人、いや五十人ぐらいいてもおかしくない。

客さえ来れば、その素晴らしさはネットの大波に乗って広がり、店は繁盛するに違いない。


お客が列を作るのを見れば、あの笑わないマスターだって、きっとにっこりするはずだ。そう考えるだけで、心春の足取りは弾んだ。


ホップ、ステップ、ジャンプして一回り――ぴたりと足を止める。

苦しげな泣き声が、聞こえたからだ。繁華街の表通りを外れた、路地の入口に誰かがうずくまっている。


監視カメラの目が届かない薄暗い場所だ。顔をしかめ、一瞬ためらう心春。

しかし、人を助けたいという本能めいた衝動に逆らえなかった。


携帯を拳銃のように片手に構え、いつでも緊急番号に連絡できるようにしてから、じりじりとその人影に近づく。


「あ、あの……大丈夫ですか?」

「い、痛い! 痛いよ! 助けてくれ!」

「どこが痛いんですか? 今すぐ救急車を呼びますから、説明してください」

「頼むよ! すごく痛いんだ! だって、顔が――こんな風になっちゃったからさ!」


男は突然振り返った。

その顔の半分には、ゾンビじみた入れ墨が刻まれており、肉が腐り骨がむき出しになっているように見えた。


心春は息を飲み、悲鳴を上げそうになった。

だがその瞬間、男の手が毒蛇のように閃き、携帯を叩き落とすと、心春の首を掴んだ。

頸動脈を外科のような正確さで圧迫され、三秒もたたないうちに、視界は闇に溶けていった。


「一丁上がりと来たもんだ。おい、お前ら、お嬢さんを丁重に運べよ」


路地の闇から、さらに数人の男たちが現れ、ぐったりとうなだれる心春を担ぎ上げた。

そのうちの一人がふと手を止め、戸惑ったように最初の男を見やる。


「あ、あの、向井さん……この子、本当に標的なんですか? なんか、その……」

「あ? 茶髪に髪型、身長も情報どおりだろ?文句あんのか?」


質問した男は、相手の顔の恐ろしげな入れ墨を見て口をつぐみ、無言で作業に戻る。

向井はその様子を鼻で笑い、唇の端を吊り上げた。


「羊どもは、退屈だな、まったく。お前はどうだ、兄弟? このつまんねえ国で錆びてるんじゃねぇだろうな?」


コートのポケットからポストイットを取り出し、心春のひび割れたスマホの画面に貼る。


「黒ヤギさんお手紙書いた♪ 白ヤギさん食わずに読めよ、っとな!」


調子外れの鼻歌を口ずさみながら、ゆらりと踊る。

まるで、夜の怪異のように、男は闇へと消えた。

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