第4話 ネバー・モア

矢上亘が、『すのうどろっぷ』の店内を歩き回っていた。

檻の中の猛獣のような足取りで。

普段、この男がここまで感情を露わにすることは滅多にない。


出勤時間はとうに過ぎているが、北山心春の姿はまだない。

それ自体は、さほど不思議ではなかった。

彼女は大学四年生だ。

この時期は特に忙しく、急な欠勤をすることもあるだろう。


だが、問題は――昨日の生放送以来、まったく連絡が取れないことだった。

心春は無断欠勤などしない。

休むときは必ず、理由を丁寧にメールかLINEで知らせてくる。

几帳面で、そういうところだけは律儀な娘だ。


それが、昨日から一切の音沙汰がない。

不審に思った矢上は、普段なら決して破らない“線”を越え、心春の実家に電話をかけた。


電話に出たのは母親だった。

「心春は病気で出勤できない」と言っていたが――

涙を押し殺していた声は、ただの病気ではないことをありありと伝えていた。


携帯の着信音が鳴った。

だが、心春からではない。

音の主は、矢上が普段手に取ることのない、使い捨ての端末の一つだった。

その番号を知る者は、ただ一人しかいない。


「……因幡ウサギか」

『やあ、マスター! 行方不明の子猫ちゃんの消息が分かったよ』


画面に映ったのは、バニーガールのアバター。

ウィンクを一つ、軽やかに飛ばしてくる。


因幡は、矢上が懇意にしている闇ブローカーの一人だ。

扱う品は、武器、人材、情報、何でもあり。

裏の世界では引っ張りだこの人気者だ。


だが、因幡にとって、矢上は特別な存在だ。

昔、命を救われた恩があり、それ以来、彼の依頼は常に最優先で受け付けている。


『心春ちゃんの件、良い知らせと悪い知らせがあるけど……どっちから聞く?』

「どっちでも構わん」

『じゃあ、良いニュースからいこうか。君の予想通り、あの子はトラブルに巻き込まれた。収録のあとで誘拐されたんだ』


淡々と告げながら、因幡はタブを切り替える。

画面の中で、数人の男たちが意識を失った心春を黒塗りのワゴンに押し込む姿が映し出された。


『犯人は監視カメラの死角をうまく利用していたけど……運が悪かったね。ウチの“子ウサギ”が、その路地裏を見張っていた』


矢上は、苦笑を噛み殺した。

因幡が神居市中に“子ウサギ”――隠しカメラを仕込んでいるのは知っていた。

だが、その網がこんな路地裏まで広がっているとは、想定していなかった。


――まったく、恐ろしい奴だ。敵には回したくない。


「ここまで撮れているなら、心春の居場所は割れているな?」

『バッチリさ。監視カメラのネットワークを辿って車の行き先を突き止めた。犯人の顔も警察のデータベースと照合して、名前と前科を特定済み。ついでに、連中の一人の携帯をハックして、組織の背景も洗っておいたよ。素人はありがたいね。個人の携帯を仕事に使うから、入れ食いだった』


どうやって、面識もない他人のスマートフォンに、一日足らずで侵入できたのか、矢上には想像もつかない。

だが、それができるからこそ、因幡はこの業界の最先端を走っていられるのだ。


「それで、誰が、何のために心春を攫った?」

『焦らないで。順を追って説明するよ。犯人は「ブラック・フラッグ」って組織。もとはネットの陰謀論サークルだったけど、去年あたりから急に金回りが良くなってね。軍事教官まで雇って、いまや立派なテロリスト集団さ。で、心春ちゃんが攫われた理由は――たぶん、人違い』

「……人違い?」

『“Stella Kitchen”に在籍してて、同じ番組に出てた春日井桜子って子がいるんだ。内閣官房長官の娘さ。で、BFの連中は彼女と間違えて、心春ちゃんを攫ったみたい』

「桜子って子、そんなに心春に似ているのか?」

『いや、身長と髪色、それに後ろ姿くらいだね』

「馬鹿な……」


いくらなんでも杜撰すぎる。

矢上自身、現役時代に似た任務を何度もこなしている。

身柄確保で最も重要なのは、ターゲットの識別だ。顔も服装も違う人間を誤認するなど、常識ではあり得ない。


『で、ここから悪い知らせ。心春ちゃんの現場で、壊れた携帯と一緒に、これが見つかった』


画面が切り替わる。

そこに映ったものを見て、矢上の目つきが変わった。


『北欧ルーン……神王オーディン、またの名をヴォーデンが片目を犠牲にして得た魔法の文字。マスター、これ、昔あんたの組織が暗号に使ってたやつじゃない?』

「ああ……」


「ワイルドハント」の社長は、所属する傭兵たち全員にルーンを割り当てていた。

矢上の符は、太陽を意味する〈ソル〉。

そして画面に映るのは、切望のルーン〈ニイド〉。

それを与えられたのは――。


食血魔ストリガか……」

『やっぱり知り合い?』

「ああ。できれば、二度と会いたくない手合いのな……」

『そいつは、お気の毒さま。まだまだ、悪いお知らせが続くよ』


チャット画面のバニーガールが、急に真面目な顔になる。


『日本の武器の闇市場で、短機関銃や散弾銃の値段が暴騰してるんだ。僕も一枚噛んで大分儲けさせてもらったけど……ついでに仕入れた情報によれば、強面のおじさんたちが一個小隊ぐらい神居市に入ってきてるらしい。ロシアの陸軍空挺部隊や保安庁出身の連中がね』

「元軍人を短期間でそれだけ集められる組織と言えば……『鶏足の小屋イズブシュカ』だな」


矢上は奥歯を食いしばった。

遠い昔に切り刻み、止めを刺し、土に埋め、墓標まで立てたはずの過去が、ゾンビのように甦ろうとしている。


「だが、やつらの首領、魔女王バーバヤーガとは話をつけておいたはずだ」

『……それ、十年も前の話だよ?』因幡が呆れたように言う。『魔女のお婆さまも歳を取り、昔ほど影響力はなくなった。昨年ガンの手術をしてからは人前に出ることも少なくなったしね。それ以来、大ロシア主義者たちが小屋の中で幅を利かすようになったんだ。君が十年前に殺した、大幹部『白騎士ベールイ』の残党がね』


矢上は深くため息を吐いた。

亡霊の冷たい指が首筋に触れるのを感じた。だが、逃げることはできない。死霊どもは決して諦めないからだ。

対抗するには、もう一度殺し、墓場に押し込めるしかない。


『これ、たぶん罠だよ』

「――知っている」

『それでも行くんだね?』

「選択の余地はない」


バニーガールのアバターが、大きくため息をついた。


『まったく、君って奴は……。今、手元にある限りの情報を送っておいたよ。あとは好きにしな!』

「ありがとう。報酬はどこに振り込めばいい?」

『いいよ、そんなのは! 君には怖いワニから守ってもらった恩があるし。でも、どうしてもって言うなら――生きて帰って、美味しいエスプレッソをご馳走して!』

「来週、良い豆が入るんだ。それまでは死ねないな……」


「幸運を祈るよ」

そう言い残して、因幡は通話を切った。


携帯を置いた瞬間、タイミングを計ったようにドアベルが鳴る。

矢上は反射的に、カウンター下の隠し拳銃に手を伸ばした。

だが、入ってきた人物の顔を見て、肩の力を抜いた。


「百地さん、いらっしゃい。悪いけど、今日はもう閉店なんだ」

「アルバイトの心春ちゃんがいないね……」


『すのうどろっぷ』の常連客、百地トオル。

年齢も性別も曖昧なその顔で、店内を静かに見渡す。


「たちの悪いインフルエンザに感染したようでね。今から消毒のために店を閉めるんですよ」

「大陸産のウイルスはタチが悪いからね……」


二人はしばし、沈黙のまま目を合わせた。

交わす言葉は少なくとも、互いの意図はそれだけで通じた。


「お店の再開、どのくらいかかりそう?」

「安全が確認できるまで、しばらくは閉店です」

「……じゃあ、ヤンさん夫婦やアレックス君たちに伝えておいた方がいいかな?」


矢上は一瞬だけ目を伏せ、深く頭を下げた。

「よろしく……お願いします」


「お大事に」

百地は、ふわりと微笑んだ。

「気に病まないで。僕たちはみんな、このお店が大好きだから」


---


店のドアベルが鳴り、百地の姿が消えたあと――

矢上は拳を握りしめ、こみ上げるフラッシュバックに耐えた。


――白い花。

――赤い雪。

――ゆっくりと倒れる影。

――未完成のまま、途切れたマフラー。


すまない、ルカ。

少しだけ、一人にしてくれ。

今度こそ、間に合わせる。

必ず、助ける。


そう心の中で呟きながら、矢上は店を後にした。

カウンターの奥を抜け、廊下の絵に隠された入り口から地下へと降りていく。


長年手入れされながら、決して使われることのなかった“道具”たちが、微かに囁くような音で、彼に話しかけてくる。


幕は上がった。

役者は揃った。

長い序奏の果てに――


白髪鬼クルースニクが、舞台へ戻るのだ。


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