アーケード街の蛍
黒巻雷鳴
アーケード街の蛍
残業を終えて疲れきったおれは、シャッターが降りたアーケード街のど真ん中をブリーフケース片手にトボトボとひとり歩く。
今日は疲れた……いや、今日も疲れた。生きるのにも疲れた。
転職の二文字が、一瞬だけ頭を過る。
しかし、再就職をするには勇気と決断が必要な年齢に達していた。そもそも、うちの会社はブラックだ。円満退社ができるのであろうか?
このまま真っ直ぐ帰れば、妻が作ってくれた温かい夕食が待っている。
けれども、帰りたくはなかった。理由はなんとも言えない。おそらくこの症状は、帰宅恐怖症なのかもしれない。
「助けてくれ」
誰に話しかけるわけでもなく立ち止まり、見上げたトタン屋根の天井に愚痴をつぶやく。少しでも遅く帰ろうと、いつもとは違う道を通ることにして、アーケード街の中程にある脇道へ入った。
何気なくそばにあった〝蛍〟と書かれた立て看板を見る。店の外観の趣は古風な小料理屋といった感じで悪くない。
ちょっとだけ、寄って行くか……。
迷わず暖簾をくぐり、引き戸を開ける。
店内に客は誰も居らず、和装の女将らしき妙齢の女性がひとりだけだった。
「すみません、まだやってますか?」
「あっ、はい。でも、先程団体のお客さんたちが帰ったばかりで、お刺身とか、ほかの料理もあまり出せませんけれど……」
「いえいえ、大丈夫です。おれも少し呑みに入っただけなもんで」
申し訳なさそうにする彼女に勧められるまま、おれはカウンター席の中央に腰掛けた。
「とりあえず瓶ビールをひとつ。それと──」
壁に貼られたメニューを端から順番に見る。
家で夕飯を食べることを考えて、酒の肴を一、ニ品注文すれば良いか。
「アボカドのピリ辛塩昆布和え、あと、長芋の海苔巻きステーキをください」
「はい。まずはビールをどうぞ」
「あっ、すみません」
ビールをついでもらい、すぐに唇を湿らした。
目の前でテキパキと料理を作る女将と雑談を交わしながら──会話のなかで、彼女はやはりこの店の女将だとわかった──それを酒のあてに、
「お待ちどおさま。お先にアボカドのピリ辛塩昆布和えになります」
ほほう、胡麻油とにんにくの香りが食欲をそそるな。白炒り胡麻と……この赤いのは、豆板醤か?
箸でひと口、頬張る。
アボカドの濃厚なとろける食感、塩昆布の味の濃さもいい塩梅で絶妙だ。
「お味はどうですか?」調理を続けながら、女将が笑顔で訊ねる。
「ええ、とっても美味しいです。なんか意外な組み合せですね」
「うふふ、ありがとうございます。亡くなった父が考えたんですよ」
「ああ……お父様が……」
なんだか少し、気不味い空気になってしまった。
ここは話題を変えよう。
「そう言えば、お店の名前の〝蛍〟って……」
「アレ、わたしの名前なんです。このお店を持ったとき、わたしがちょうど産まれて、それで父が」
「あー、そうでしたか。風情があると言うか、素敵なお名前ですね」
「ありがとうございます。お待たせしました、長芋の海苔巻きステーキです」
「おおっ」
輪切りにされた琥珀色の長芋に巻かれた海苔──存在感のあるビジュアルに、思わず声が出てしまった。
今度は豪快にかじる。海苔とバター醤油の相性が抜群で、米が欲しくなる。
気づけば、瓶ビールは空になっていた。
「どうされますか?」
お会計を済ませて、店を出る。
女将の声を背に受けて、おれは来た道を戻り帰路へ着く。
二品だけだったが、どちらの料理も味は最高だったし、なかなか良い雰囲気の店だったな。リピーターになりそうだ。
腕時計を見る。少々遅くなってしまった。コンビニでスイーツでも買って、妻のご機嫌をとるとしよう。
おれは〝蛍の光〟を口ずさむ。
あの店の出来事を思い出していると、不思議と明日もなんだか頑張れそうな気分になれた。
アーケード街の蛍 黒巻雷鳴 @Raimei_lalala
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