第20話  風の骨

 朝の山は、まだ眠っているようだった。

 木々の葉の端がひとすじだけ揺れて、すぐに止まる。夜の冷えが残る空気の中で、ミユキは息を吸い込んだ。肺の奥に、風の名残がわずかに残っている。前の夜、祈りの形をなぞって風が止んだとき、胸のあたりに硬い音が走った。

 ――自分の骨の中で、何かが鳴った気がした。


 それは痛みではなく、ひどく静かな響きだった。

 誰かが遠くで石を転がすような、低い音。

 耳で聞くよりも、身体の奥に沈んでいくような響きだった。

 シズは朝餉の支度をしていたが、ミユキはまだ言葉を見つけられずにいた。

 指先を胸にあてると、あの硬い余韻だけが残っている。


 山は薄い霧に包まれていた。霧の奥で、鳥がひと声鳴く。

 その音が、空気の層を震わせていく。

 ミユキは、風が通る道を感じるように歩いた。

 石印が埋められた祠の前で足を止め、昨日の灰袋を思い出す。

 塩と灰の匂い。

 祈りの時の熱。

 手のひらの中心が、じんと痺れている。


 ――見るな、感じろ。

 その言葉が、耳の奥で響く。

 シズの声とも、風の声ともつかない。

 目を閉じると、光が裏返って白くなる。

 その白の中で、風が骨を擦るように通り抜けていった。


 骨の中を通る風は、音を持たない。

 ただ、通った後に世界が少しだけ軽くなる。

 山が息をして、空が沈黙で応える。

 そのやり取りの間に、自分の声がほんのすこし混ざる。

 言葉にならない息。

 それが、この国の言語なのだと、ミユキはようやく理解した。


 村の道を抜け、崖の端まで行く。

 そこから見える谷は、灰色と緑の境界で、

 霧が風の指先のように山肌を撫でていた。

 ミユキは、手に持った小石を落とした。

 石が下の水面に触れるまでのあいだ、風は鳴らなかった。

 ぽちゃん、という小さな音のあと、山全体が深く息を吐いた。


 風の骨は、山そのものの中にもある。

 石と木の間、光と闇の境目に。

 人がそれに気づく瞬間、風は名を得る。

 そして名を得た風は、人の内側へ入り、骨を鳴らす。

 ミユキはその音を聴きながら、祈りの型を繰り返した。

 息を吸い、吐く。

 空気が肺を通り、骨を震わせ、また山へ還る。

 それが、この国での「会話」なのだ。


 遠くで、シズの呼ぶ声がした。

 だが風が先に答えた。

 ミユキの頬をかすめる風が、彼女の言葉をさらっていく。

 ――まだ戻らない。

 心のどこかでそう呟いた。


 そのころ、遠い現実の街では、リナが資料室の窓を開けていた。

 京都の春は湿っていて、花粉と埃の混じる匂いがした。

 机の上には、風でめくれた古い箱がひとつ。

 漂流物の整理のために持ち込まれた箱で、発見場所は北の海沿いの町と記されていた。

 箱の中から、白いものがのぞいている。

 指先でつまむと、それは軽い。

 骨のようで、貝のようでもある。

 触れた瞬間、リナの指の間を風が抜けた。


 窓の外の木が鳴った。

 誰もいない部屋の空気が、ほんの一瞬だけ震えた。

 リナは目を閉じた。

 音がする。

 けれどそれは耳ではなく、骨で聴く音だった。

 研究室の壁がきしむ。

 風が、過去のどこかを通ってここに来たような気がした。


 彼女はメモを取ろうとして、手を止めた。

 言葉にできない。

 ただ、胸のあたりに残るのは「在る」という感覚だけだった。

 それがミユキの声なのか、風の残響なのか、もう区別はできなかった。


 窓のカーテンが膨らむ。

 紙の端が小さくめくれ、部屋の空気がひとめぐりする。

 リナの髪が頬にかかる。

 その瞬間、山の国の空でも同じ風が起きた。

 ミユキの指先が、風の流れに合わせてわずかに動く。

 距離も時間も違う二つの場所で、ひとつの風が息をしている。


 音はもう言葉ではなかった。

 それは、骨の中で生まれ、世界を撫で、また沈む。

 人も神も、音の中では同じものだった。


 風が止む。

 ミユキは目を開ける。

 霧の向こうに、白い光がうっすらと立ち上っていた。

 けれどそれを“見ない”。

 ただ、風が通ったあとの静けさを聴く。


 ――その静けさの中に、すべての声があった。


 音も、光も、言葉も消えて、

 ただ、風の音だけが残った。

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