第19話 風祭の夜
朝いちばんの風は、山の背から降りてきて、村の屋根を順番になでた。
薄い板を重ねた屋根が小さく鳴り、軒先の紙垂が、音にならない合図をくり返す。
わたしは、ヒノキの香りがする小屋の戸口に立って、指先で袖をつまんだ。
袖をつまむくせは、こっちに来てから身についた。
何かを言えないとき、かわりに指が言う。
——今日は、カゼマツリ。
村の人たちは、ずっと前からその準備をしてきた。
坂の上では男衆が太い綱をよっている。
軒下では女たちが白い紙を切って、ちいさな三角を糸に通し、風の路へ吊るす。
子どもたちは、青い実の鈴を腰に結んで走り、転んで、笑う。
「ナギ」と呼ばれると、わたしは振り向く。
まだ胸の奥がそわそわするけれど、その呼び名は怖くない。
わたしの隣で、シズが頷いた。
シズはこの小屋の世話をしてくれる女の人で、春より少し冷たい目をしているが、笑うと急にやわらかい。
彼女は指で、風の流れを空へ描いた。
「カゼ、ミチ。ナギ、タツ」
ゆっくり、区切って言ってくれる言葉は、いつも風の速さより少し遅い。
だから、わたしでも追いつける。
小屋の中には、昨夜のうちに渡された布が置かれている。
薄い白。
胸もとに青い糸で小さな印が縫ってある。
八つの針目が、わたしの息の数とだいたい合う。
これを着て、風の路を歩くのだと、シズは紙に描いて教えてくれた。
絵は上手ではないけれど、風のほうが絵をおぎなってくれた。
布に腕を通す。
白は、光をすこし吸う。
肩のあたりで生地が小さくきしんで、わたしは背筋をのばした。
外に出ると、村の真ん中に立つ古いトチの木が、葉をふるわせた。
葉の裏は銀色で、風がくるたびに、夜の星みたいにひかる。
幹に巻かれた注連縄は新しく、塩の白さが朝日に乾いている。
カゼマツリの始まりは、昼の手前。
わたしは、シズといっしょに坂をのぼって、風の路の入口に立った。
入口には、低い石が二つ。
ひとつは丸く、もうひとつは角ばっている。
石の上に、干した草の束が置かれていて、そこに白い紙がひとひら挟まっている。
紙には、わたしの知らない文字。
けれど、その白さの向こう側に、だれかの呼吸を感じた。
「ナギ」
シズが、わたしの名をよぶ。
「ココ、アシ。ココ、クチ」
彼女は足もとと口もとを指さして、それから空をあおいだ。
「コトバ、ハカゼ」
言葉は風だ。
その言い方は、祝詞みたいで、わたしは胸の真ん中を指で押さえた。
太鼓の音が、遠くでひとつ鳴った。
山から降りる音。
それから、ゆっくり近づく音。
鼓面をやさしく撫でるような打ちかたで、誰かが合図する。
わたしは、風の路に足を入れた。
紙垂が、頬にふれる。
紙の角が、昼の光をはねて、小さな虹みたいな色を生む。
息を吸う。
胸のあたりで、冷たいものがひらく。
吸った風は、背中から抜けていく。
体の中に、細い路ができる。
前を歩くのは、村の子。
腰に鈴。
鈴は音より先に、匂いをもっていた。
青い実が砕ける匂い。
あの匂いは、ことばになる前のことば。
路の途中で、幟が出てくる。
白と、少しの青。
幟は、海を知らないのに、波の形を知っている。
山風は、その波を見て、機嫌をなおす。
幟を結ぶ手の後ろで、男衆が綱を肩にかけた。
綱の繊維が服に擦れて、乾いた音を鳴らす。
細い橋を渡る。
下には、水がある。
水の匂いは、岩の匂いとすぐに混ざる。
混ざった匂いが、舌の奥に落ちる。
わたしは、舌に落ちた匂いのかけらを、そっと飲み込んだ。
飲み込むと、喉の奥に小さな灯りがともる。
その灯りは、鏡の欠片に反応して、胸元でかすかに震えた。
——聞こえる?
薄い声が、風の縁に乗ってきた。
人間の声。
遠くから来る声。
知っているひとの声。
「……なぎ……」
声は、鏡の欠片をやさしく叩いて、消えた。
わたしは立ち止まりかけて、足を運ぶ。
いまは、振り向かない。
振り向くのは、風の礼儀に反する。
路の終わりには、広場がある。
広場の真ん中には、低い石段と、古い柱が一本。
柱には、昔の印が刻まれている。
円。
三つの点。
線が八つ。
印を見るだけで、体の中の路が、すこし太くなる。
石段の下に、村の人たちが集まっていた。
顔は見える。
目は見えない。
見えないのは、彼らが伏せているからではない。
風が、目のかわりをしているからだ。
風の流れが、表情のかたちを教えてくれる。
それで、じゅうぶんだった。
シズが一歩、前に出る。
小さな鈴を鳴らす。
わたしの背のほうから、太鼓が一打、つづく。
「ナギ」
シズが、はっきり言う。
空気が、それをくるんだ。
名前は、やわらかい。
けれど、そのやわらかさのまま、骨に入ってくる。
わたしは、石段の前で止まる。
胸元の鏡の欠片が、熱をもつ。
指で、布の上から軽くおさえた。
欠片は、心臓の鼓動と合わせて、すこし跳ねる。
そのとき、山が遠くで鳴った。
長い、低い音。
雷ではない。
地の、寝返り。
村の人たちの肩が、一度だけ上がって、すぐに下がる。
誰も、騒がない。
騒がないことは、強さだ。
空気のどこかが、冷えた。
昼なのに、影が近い。
目を凝らすと、白いものがいくつか、風の中に立っている。
人の形に似ているが、形ではない。
影に似ているが、影ではない。
声が、ない。
声は、感じるものになって、胸の奥で、白い波になった。
——見ない。
わたしは、膝の力を逃がす。
息を、細くする。
白いものは、何かを確かめに来ただけだ。
風が、それを通す。
通るとき、紙垂がうしろ向きに揺れる。
揺れがおさまるのを待って、シズが鈴を鳴らした。
「ナギ、ウタ」
彼女は口の前に手を置いて、子どもに教えるみたいに、ひとつ息を吐いた。
わたしもうなずく。
歌は短い。
旋律は、ほとんどない。
ことばより先に、息がある。
息は、風の路を通って、柱の中へ入っていく。
柱は、石より軽い音で応える。
それで足りる。
歌のあいだ、鏡の欠片がもういちど震えた。
——ミユキ?
声は、いちどだけ、はっきりした。
わたしは、喉の奥をしめつける気配に、片手を添えた。
涙になりそうなものが出てきて、でも、出ない。
出ないかわりに、息が澄む。
澄んだ息が、ことばの形を持たずに、柱へ入っていく。
歌が終わると、広場の周りから、干した草の香りがいっせいに近づいた。
女たちが草束を高く掲げ、男衆が綱を引き、子らが鈴を鳴らす。
風は、路の上だけでなく、体の中の路も通りたがる。
わたしは、胸を少しひらいた。
名前は、外から与えられるだけじゃない。
息を通すたびに、内側でも生まれる。
祭の正午の前、短い休みがあった。
わたしたちは広場の端で、薄い粥をすすった。
粥は塩が強く、けれど、のどにやさしい。
器の底に、ひとつだけ焦げが残って、それを指でこそげ取る。
焦げの苦みは、覚悟の味に似ていた。
シズが、土の上に指で円を描く。
「ナギ、ミチ。ココ、アタラシ」
彼女は円の外を指し、空を見上げる。
「ミチ、フルイ。アト」
古い路の跡は、風が教える。
わたしは、頷く。
円の内側に、小さな点を打つ。
点は、ひと。
ひとつの点、たくさんの風。
風は、点と点を結ぶとき、よろこぶ。
午後、祭は静かな方へ折れていった。
太鼓は、打たれない。
紙垂は、もうほとんど動かない。
音のかわりに、匂いが濃くなる。
山の皮膚の匂い。
古い木の芯の匂い。
岩の冷たい呼気。
それらが重なって、目に見えない幕をつくる。
幕の向こうで、白いものがもういちど立った。
今度は、声がすこし、あった。
声は、意味にならない。
意味にならないまま、安心の形だけが届いた。
わたしは、頭を下げる。
見ないまま、礼をする。
礼は、見えないものに向けるから、礼だ。
祭が暮れに近づくと、幟の影が長く伸びた。
影は黒いのに、温かい。
影の中に立つと、昼の汗が急に軽くなる。
子どもたちは鈴をはずして、代わりに小さな灯りを持った。
灯りは火ではない。
山の石から採った淡い光。
石の光は、風に消されない。
風は、それを好きだから。
「ナギ」
シズが、最後の合図の鈴を鳴らす。
わたしは、石段の前に戻った。
柱の影は、わたしの足もとに重なって、二重の影を作る。
影と影のあいだに、薄い風が通る。
通るたびに、わたしの中の路が、少しずつ、太くなる。
名を授かるわけではない。
名は、もうある。
今日は、それを、風に確かめてもらう日。
確かめの仕方は、昔から、あまり変わらない。
石段の上に、古い器が置かれた。
器の底には、透明な水。
水は、揺らさない。
息で揺れるから。
シズが、器の縁に指を置き、わたしを見た。
「ハク」
彼女が短く言う。
息。
わたしは、胸の前で手を合わせ、細く、ひとつ、吐いた。
水の面が、わずかにふるえた。
ふるえは、輪にならない。
輪にならないまま、光って、消える。
消えたあと、器の底に小さな筋が見えた。
筋は、路。
路は、器の外にも、延びているように見えた。
「ナギ」
シズの声が、いちどだけ高くなる。
広場のはしで、子どもが小さく声を上げた。
わたしは、その声に、うなずく。
うなずくと、うなずき返しがあった。
声ではなく、匂いでもなく、手ざわりでもなく、
それらの全部がすこしずつ混ざったもの。
そのとき、鏡の欠片が、三度、ちいさく鳴った。
——みゆき。
今度は、名前だった。
わたしの昔の名前。
胸が、すこし痛くなる。
痛みは、やわらかい。
やわらかい痛みは、遠いところから来て、わたしの中で座った。
座った痛みは、急がない。
急がないから、泣かない。
祭が終わると、夜はすぐに降りた。
村の灯りは少なく、星は近い。
トチの木の下に、細い影が並んで、やがて消えた。
人々は、家へ戻る。
戻る背中に、風が、ひとつずつ、触れていく。
触れられた背中は、少し軽くなる。
軽くなった背中は、よく眠る。
わたしは、シズとゆっくり小屋へ戻った。
小屋の戸口に、白い小石が置かれている。
小石の片面に、八つの小さな切り込み。
誰が置いたのか、だれも言わない。
言わないことは、秘密じゃない。
言わないことで、風に預ける。
布を脱いで、畳んで、胸元の欠片を指で触る。
冷たさは、あのときより落ち着いている。
指先が、わたしの鼓動を一拍ずらす。
ずれは、不安じゃない。
ずれは、余白みたいに、呼吸を広げる。
藁の寝台に横になる。
天井の梁が、黒い川に見える。
川の上を、風が渡る。
渡るたびに、梁の節が、乾いた小さな音を鳴らす。
目を閉じて、三つ、数える。
風の匂いは、今夜は甘い。
干した草と、焦げと、塩のあと。
そこに、少しだけ、遠い街の空気が混ざる。
コンクリートの匂い。
雨上がりのアスファルト。
信号機の赤。
だれかの笑い声。
わたしの名前を呼ぶ声。
——リナ。
眠りの手前で、鏡の欠片が、もう一度だけ、震えた。
それは合図ではない。
約束でもない。
ただの、在る証拠。
わたしは、小さくうなずいた。
うなずくと、梁の節が、ひとつ鳴いた。
夜の風は、言葉をつくらない。
つくらないかわりに、言葉の居場所を作る。
居場所があれば、あとは、そのうち、来る。
来るものは、急がせない。
急がせないものは、長くいる。
——カゼマツリの夜は、静かに終わる。
わたしは、ナギとして眠り、
ミユキとして、少しだけ、目を開けて、
また、眠った。
◇
同じ日の夕方、遠い町の図書室。
リナは、コピー用紙に鉛筆でなぞった。
なぞっているのは、古い板の拓本。
板の表には、丸と、八つの短い切り込み。
裏には、かすれた線で、「ナギノミチ」。
たぶん、誰かが後から書いた。
墨は新しいが、板はずっと古い。
窓の外で、風が信号機を揺らす。
風の音は、図書室に入って、紙をめくる。
紙がめくられる音の中に、細い鈴の音が混じった気がして、
リナは顔を上げた。
誰もいない。
いないのに、胸の皮膚がすこしだけ粟立つ。
彼女は、机の端に置いた小箱を開けた。
中には、白い小石。
片面に、八つの切り込み。
切り込みは浅く、指でなでると、ほとんど平ら。
でも、光の角度で、かすかに影が立つ。
小石のそばには、ガラスの欠片。
縁は滑らかで、触っても痛くない。
欠片が、ほんの一瞬だけ、指先の熱で鳴ったような気がした。
——みゆき?
リナは、誰にも聞こえない声で、問いかけた。
問いかけは、音にならない。
音にならないかわりに、胸の奥で、薄い風になった。
風は、紙を一枚、裏返した。
裏返った紙の白が、夕日の赤を受けて、薄い桃色になる。
彼女は、鉛筆の先で、板の印を表に出し、
丸の中の空白を、小さく残した。
空白は、言葉の前。
言葉の前が、いちばん静かだ。
静かなところに、風が通る。
通った風は、どこかへ行く。
行った先が、どこか、彼女は、知っている。
——待つ。
それが、今夜のしごと。
窓の外で、旗がはためいた。
旗は、この町の祭の旗。
色は派手で、柄は新しい。
けれど、風の触り方は、どこでも同じだ。
リナは、目を閉じて、息をひとつ吐いた。
吐いた息のうすさは、名前を呼ぶ前のうすさに似ている。
彼女は、うすい息を折りたたんで、胸にしまった。
◇
夜のまんなか、山は、ひとつ、長く息を吐いた。
村の犬が、短く鳴いて、すぐ黙る。
風は、路を辿りなおして、紙垂の先をやさしくかすめた。
紙の角が、星の光を一粒だけはね返し、
その粒は、すぐに闇に溶けた。
わたしは、眠りと眠りのあいだで、
名前をひとつ、確かめた。
ナギ。
音は、淡い。
淡い音は、遠くまで行く。
行って、戻る。
戻るとき、だれかの声の端を連れてくる。
「——みゆき」
声は、もう、恐れじゃない。
わたしは、うなずいた。
うなずきは、風といっしょに、梁の節を鳴らした。
鳴った節の音は、短い。
短いけれど、忘れない。
カゼマツリの夜は、そうして閉じた。
明日の朝、紙垂は半分降ろされ、幟は巻かれ、綱はほどかれる。
道具は片づけられるが、路は消えない。
路は、息の中に残る。
息が残るかぎり、名前は、迷わない。
——わたしは、ここにいる。
そう思ったとき、鏡の欠片は、もう鳴らなかった。
鳴らないことは、静けさ。
静けさは、約束より、長くもつ。
わたしは、眠った。
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