第一章:里見夫妻バラバラ殺人事件


 連日の事件捜査は、坂下勝利警部補の体を疲弊させていた。

 それでも、坂下は日々の業務を粛々とこなしている。


 体力、精神力、刑事としてどちらもタフでなければならない。

 日本の首都圏の警察捜査一課、それも強行犯係ともなれば、舞い込んでくる仕事は質も量も段違いになる。


 叩き上げも叩き上げで警視庁捜査一課の座を射止めた坂下は、自らの仕事に強いやりがいを感じていた。


 年齢としても三十代。

 現役世代として「脂の乗っている」と表現するに差し支えない。


 そんな坂下に舞い込んできたのは、これまでに受けたことのない仕事だった。


「坂下警部補、休憩時間に申し訳ないが、少し話がある」


 喫煙所で煙草を吹かしていた坂下を訪れたのは、捜査一課長・新井である。


 捜査一課の総長がこんな汚らしいところになんの用事か。

 そんなことを思わされはするものの、当然それに対応しない選択肢はなく、恐縮な声を上げる。


「はい、少々お時間いただけますか?」

「結構だ。こちらも無理な話になるかもしれんからな」


 新井の言葉に引っかかりを覚えるものの、坂下は特に気にかけることなくタバコの火をもみ消した。


 それからそそくさと新井と共に歩を進めると、辿り着いたのは応接室である。

 てっきり捜査一課長の部屋に通されると思い込んでいた坂下は、一体これから何が始まるのかと訝しんでしまう。


 警視庁の応接室が使用されることは、それこそ重役との面談時くらいのものだろう。


 警部補という立場ではあるが、坂下も入ったことは数える程しかない。

 そんな応接室に通されると、そこにはスーツ姿の若い男が立っていた。


 男はすらりと背の高い茶髪であり、いかにもキャリア然とした風体をしている。

 彼は新井が戻って来るや否や、丁寧に頭を下げた。


「坂下警部補、貴殿に折りいって、頼みがある」

「……というと?」

「こちら、本日付で捜査一課に配属されることになる、高峰陸斗警部補だ」


 男は高峰というらしく、その齢に対して「警部補」というところからするに、キャリア枠での警察官ようだ。


 警察におけるキャリア組は、叩き上げのノンキャリアの自分たちとは異なり、最終的には官僚の地位が約束されている。


 つまり、最終的には自分の上司になるような人間だ。

 そんなことを思考に掠めながら、坂下は新井に倣って頭を下げる。


「本日より配属ということで?」

「あぁ。この時期に珍しいが、まさに今日からの配属になる。それで、坂下警部補、君の下で彼の教育係をしてはもらえないか?」

「教育係ですって?」

「その通り。君は今、ちょうどバディがいない状態だろう? それに、君の刑事としてのノウハウを是非、彼に叩き込んで欲しい」


 新井の言葉に呼応するように、高峰は静かに頭を下げる。


 坂下はというと、その要望に対してどう答えてよいのか分からなかった。

 確かに自分は、これまで刑事として現場を駆けずり回ってきた。

 ある程度のノウハウもある。


 だがそれを、何も分からないキャリアの坊やに教え込むやり方など、全く持って想像もできなかった。


 それに、普段の捜査もある中で、新人教育をしている時間などない。


 数刻の沈黙の後、坂下は「自分には教育係なんて」とかぶり振る決断を下した。


「教育なんてしたこともないですよ。

 それに、大切な警視庁の今後を担っていく人材、失礼ですが自分如きに任せられるものもないかと」

「こちらもそれを見込んでの話になる。

 確かに高峰警部補も、ゆくゆくは警視庁を背負って立つ。

 だが、そこで基本的な刑事としての何たるかを理解していてもらわなければ困る」

「勿論、存じておりますが……」

「坂下警部補、君は実力で今の地位に上り詰めている。

 遠くない未来に昇進しているだろう。だからこそ、君に頼みたいんだ」


 熱烈な新井の言葉。

 当然、方便であると理解していても、気を悪くするものではない。


 更にこれを後押しするきっかけになったのが、次の新井の提案だった。


「もちろん長期ではない。

 彼には様々な部署を経験してもらうため、捜査一課は半年程度の予定だ。

 だから君に教育係を担ってもらう時間はせいぜい三ヶ月、悪い話じゃないだろう?」


 時間にして三ヶ月程度の子守。

 それなら自分でもできるのではないだろうか。


 坂下は怠惰と責務の間に思考を反復させた。

 その結果として、「三ヶ月で済むのなら」と新井の要求を飲み込むこととなる。



「本日より、どうぞよろしくお願いします。坂下警部補」


 早速高峰のデスク周りの整備までさせられた坂下に、若い高峰の挨拶が響く。


 いかにもな好青年といった調子の彼に対して、同じ男としては劣等感を抱かされそうになる。


 しかしながら、真面目な優男というのは十全に接しやすい。

 だからこそ、坂下も素直にその言葉に握手を求めた。


「あぁ、こちらこそ短い時間だがよろしく頼む」


 握手を求められた高峰は、どういうわけか一瞬だけ躊躇しながら、手に纏った革手袋を片方だけ脱いでその握手に応答した。


 微かな仕草ながら、他の流麗な所作に対して、その一点のみが浮き出たような奇妙な感覚。

 それに疑問符を抱きながらも、坂下は早速一日の業務について話し出す。


「刑事の本分は当然捜査だ。

 基本的には班単位で動く形になるが、今は担当する事件が空いている。

 こういう時には、他の事件のヘルプに回ることだって多い。最初は体力勝負になるから、そこから慣れるところからだ」


 業務説明と共に、埃臭いデスクを適当に空けて椅子をずらす。

 対して高峰は丁寧に頭を下げた。


「ご指導いただき恐縮です。最大限のご尽力をさせていただきます」


 まるでマナー講師のような言動の高峰に、坂下はひとまず腰を下ろして次の指示を思案する。


 さて、この新人には何を任せるべきか。

 基本的に、捜査一課にまで来るような刑事は自ら行動しているため、指示は抽象的なものが多くなる。



 そんなことを逡巡していると、坂下の内線が響く。


「こちら坂下」


 その電話の内容は、「都内のとある一軒家で夫婦のバラバラ遺体が発見された」というものだった。


 まるでお誂え向きと言わんばかりに飛び込んできた凶悪事件。


 坂下はため息を付きながらも、高峰へ「どうやら最初から、ヘビーなやつが来た」と言葉を漏らす。


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