孤独な戦いの始まり


 九月の朝方は随分と明るく、噎せ返るような熱気に包まれていた。

 普段から眠りの浅い光は、例のごとく微かな黎明で目を覚ますことになる。


 しかしながら、それは今に始まったことではない。

 日頃から市販の睡眠薬がないと眠れない自分にしては、よく眠れている方だ。

 元々両親が服用していたものをこっそり飲むようになり、今ではこれがないと眠ることができない。


 静かな太陽光と暴力的な熱気は既に室内を満たし始めており、光はタオルケットを足で蹴り飛ばした。


 同時に冴え渡っている瞼を擦り、ベットから体を起こす。


 覚醒状態の体を引きずりながら、光はトイレに向かう。

 妙に疲れの抜けない体は、昨日の疲労を十分に残していて、鉛のように重たく感じられる。


 そんな体で再度眠りにつくことなどできず、光は常備している睡眠薬を手に取り用を足す。

 用法を完全に無視しているが、今の所この方が、体は遥かに楽である。

 だから中途覚醒の時には、半錠の服薬をするのが日課になっていた。


 その日も普段と変わらず、使い慣れた睡眠薬の瓶を持って台所へと向かう。

 階段の真上から、階下を一瞥すると、リビングから人の息遣いのような気配があることに気づく。


 謎めいた気配。

 それが率直な感想である。


 物音が響いたとか、人の声がしたとか、そういうものではない。

 漠然とそこに何かがいるかのような気配。


 光は一瞬、その気配を前に階段の踊り場に立ち尽くす。

 一階は両親の寝室がある。

 尤も、父はリビングのソファーベットで寝ており、母は寝室のダブルサイズのベットで寝ていた。


 人がいるのは当然であり、そこに対して気配を感じるということは当たり前だ。


 だが、光は感じたことのない奇妙な気配に導かれるが如く、階段の天板を足で鳴らす。


 足先にかかる自身の体重。

 それと連動するように軋む音。


 これに対して反応するものはおらず、謎の気配はただそこにあるのみだった。


 光は階段を静かに下りて、リビングに続く扉の前に立つ。

 そこで、感じたこともない異常さが夏の暁に溶け込んでいることを気取らされる。


 最初に感じたのは強烈な血液の臭い。

 感じたこともない生臭さと、まるで人の体温が散乱したような温い感覚が皮膚にまとわりつく。


 一体、この感覚はなんなのか。


 言い表し難い不快さに眉をひそめていると、曇りガラス越しのリビングに、何かが通り過ぎた。


 光は思わず声を上げてしまう。

 自分でも間抜けな声だと感じるよりも先に、「声を出してしまった」ということの方へ気が取られた。


 だがリビングで動き回った「何か」は、光の声など意に介していないらしい。


 そればかりか、先程まで部屋の中を正体不明の存在感で走り回っていた「何か」は、影も形もないかのように消えてしまう。


 それでも、辺りにぶちまけられた不快な感覚は消えなかった。

 どころか、周囲を包みこんでいる凄まじい生臭さは、徐々にその臭気を増しているかのように思える。


 光はその場から逃げたくて仕方がなかった。

 それでも空間を取り巻いている異常さが、少しずつリビングへ自らを誘わせる。


 ジリジリとリビングの扉を開くと、感じたこともない臭いが鼻を突く。


 まるで焼き焦がした鏝(こて)を人皮を押し付けるかのような異様な臭気。

 少し吸い込んだだけで吐き出してしまいそうになるほどだった。


 漠然とした空間。その中で光は、嫌なものを感じていた。


 ただただ、恐ろしい。


 それしか表現のできない気味の悪さ。そんなリビングで、父のことを呼ぶ。


「父さん……?」


 返答はなく、ただただ残響ばかりが耳についた。

 決して小さい声ではない。

 少なくとも一定の反響を残す声音に対して、光は呼吸を荒くする。


 何がここで起こっているのだろうか。

 不安と疑問が思考をかき乱すと同時に、裸足の先で何か、温いものが触れた。


 その次に、光は絶叫する。


 足先に触れたものは、大量の血溜まりだった。

 そのさらに少し先には、切断された腕。


 一瞬、それが何なのか、理解できなかった。

 形としては認識することができるが、到底現実的とは思えない光景に、脳が理解を拒む。


 けれど、光を更に絶叫させたのが、腕の奥にあった父親の首だった。


 作り物などでは決してない。

 見覚えのある顔が、虚な眼球を向けて光を一瞥している。


 当然、そこには微かな鮮明さもなく、ただこちらを向いたレンズが如き眼差しだった。


 光は思わず、その場で嘔吐してしまう。

 喉の奥からせり上がってくる饐えた何か。

 それが口元に広がってもなお、この光景が現実とは思えなかった。


 そう、これは夢。


 光がそう思い込もうとした矢先、あまりの光景に思わず意識を失ってしまう。


 薄れていく意識の中、光は寝室に滑り込んでいく何かを視界に捉えた気がした。


 それが何なのかは、全く持って分からなかった。





 それから数時間後、里見光の自宅のインターホンを鳴らしたのは、幼馴染の中村千尋だった。


 千尋は普段から光とともに学校に通っていた。


 小学校のときから変わらない日常の出来事。

 それは今なお、二人の関係を繋いでいる。


 その日も何ら変わりない、日常の一日だった。


 インターホンを鳴らし、数分程度の待ち時間。

 時間には比較的ルーズな傾向のある光は、数分ほど人を待たせることはよくあること。


 千尋はそんなことを思いながら、スマホで光にチャットを飛ばす。


「家についたぞ、っと」


 誰に当てるわけでもない声が漏れるが、一向に既読がつかない状態。

 何度か追加でインターホンを鳴らすが、それでも人が出てくる気配はなかった。


 普段なら二回もインターホンを鳴らせば、光の母が罵声の一つでも浴びせに来るというのに。


 一緒に学校に通ったことは数え切れないが、それでもこんな出来事は今までなかった。

 千尋は何度もチャットを飛ばしてみるが、その全てに既読がつかない。


 寝過ごしているのだろうか。


 そんなことを思って、近くのポストにかけられている鍵を手に取る。


 普段からだらしない光がここに鍵を置いているのは、千尋だけが知っていること。

 それを使って扉を開けると、沈黙よりも先に強烈な生臭さが鼻をつく。


 一体これはなんの臭いなのか。

 顔をしかめながら「お邪魔します」と声を張るのだが、響くのは自らの声のみだった。


「光ー? どうしたんだよ、遅刻するぞー?」


 玄関から光の部屋に向かって声を張り上げるが、やはり他の声は聞こえてこない。

 静まり返った部屋の中、申し訳無さを抱きつつも靴を脱いで入っていく。


 最初は光の部屋を確認するが、そこには誰もおらず、乱雑に放置されたタオルケットだけがあった。


 何かが、光にあったのではないか。


 千尋の中でそんな感情が浮かび始める。

 と同時に、凄まじい絶叫が部屋中を引っ掻き回す。

 声はリビングから聞こえていた。


 間違えるはずもない。その声の主は光だった。


 千尋は思考よりも先に足を動かしてリビングに駆け込んでいく。

 そこには、想像を絶する地獄が広がっていた。


 千尋はこの時、知るよしもなかった。


 これから、光を守るために、たった一人で孤独な戦いをすることになるなど。

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