【21話】ハム or エッグ-2
早くも残り少なくなってきた昨日の稼ぎを絞り出し、公共機関で大学へ向かう。言うまでもなく、通学定期は元の時代に忘れた財布の中である。こういう小さな出費が地味に痛い。電車に揺られほどなくして、大学の最寄り駅に着いた。ここからキャンパスまで直通バスで十数分。いつもは大学へ通う若者で満員のバスの車内も、空席が目立つ程にガラガラでなんだか少しラッキーな気分になる。構内に併設されたバス停で降りると、遠くから運動部らしき声が聞こえてきた。キャンパスに隣接している人工芝のグラウンドで、おおかたラクロス部あたりが練習でもしているのだろう。この暑いのによくスポーツなんぞに興じれるもんだ。インドア派を自負している俺は、なるべく日陰を通るべく、棟の合間の裏路地を選択する。三年も通っていれば、自ずとそういうのにも詳しくなる。演劇部がいつも練習している小ホールへは、この道が最短でもある。
普段は学生でいっぱいの、今はしんと無人の学生ラウンジの横を抜けた先が、目的地の小ホールだ。入口の前に立つと、扉の向こうから大きな声が聞こえた。絶賛稽古中のようだ。邪魔にならないように、そっと扉を開く。
中に入ると、まず目に飛び込んで来たのは、真剣な面持ちで演技をする部員たちだ。力の入った表情でセリフを放っている。たどたどしい話しかたになっている部員もいるが、あれは一年生だろうか。腹式呼吸から飛び交うダイナミックなセリフの応酬のなか、ひときわ存在感を放つ透き通った声が鼓膜に突き刺さる。活舌も良く耳障りも良いセリフの主は、まさかの陽茉莉だった。あいつ、やっぱり声は良いな。枕元で囁かれたときも、ぞわっと痺れたし。
「はい!ストップ!全然ダメ!」
芝居の空間の正面に設けられた長机には数人の部員が座っており、その中で真ん中に座っている女が、手をパンパンと叩き演技を止めた。おそらく彼女が演出家なのだろう。
「陽茉莉、全然感情が乗ってない。それに役の気持ちが掴めてないんやない?もっと相手のセリフを聞いて、自分の感情を動かして。」
金髪ポニーテールの演出家はダメ出しする。演出家といえども流石演劇部。その声量はとても大きく、やはり一言一言を相手にぶつけるようにしっかりと発している。
一旦休憩にしよう、と演出家が区切り席を立つ。各々休憩を取る者もいれば、台本を手にセリフや演技プランを確認する者もいる。陽茉莉も置いていた台本へ駆け寄り、水分補給しながら食い入るように先ほどのシーンを見返している。真面目な顔、初めて見たな。
「なんや、語。来てくれたの?」
金髪ポニーテールのエセ関西弁の演出家が俺に気づいて声をかけてきた。朝出掛けていった恰好とは違い、ジャージ姿の稽古スタイルになっている。
「ちょっと大学に用事があったついでにね。お邪魔じゃなかった?」
「大丈夫。語がいきなり訪ねてくるのは一昨日ぶりだから。慣れてるで。」
それに、と灯は顔を近づけそっと耳打ちし、こう続ける。
「家だけじゃ寂しくなったから、あたしに会いに来てくれたんでしょ?」
アホか。何の冗談だそれは。
ふふっ、と灯は屈託のない、無邪気さすら垣間見える笑顔を俺に向ける。お前、長い付き合いの俺だからいいけど、その辺のモテないメンズにはそうしてやるなよ?盛大に勘違いされるぞ?
「いやいや、語にしかしないよ?」
あらあら、まあまあ。トドメまで入れてくるとはなかなかの破壊力じゃないか。だが、相手が悪かったな。さっきも言った通り、俺じゃなければ…。
「はいはい、わかったわかった。それより、せっかく来てくれたんやから稽古見ていきなよ。陽茉莉も頑張ってるし。」
「陽茉莉のやつ、苦戦してるみたいだな。」
「今回主役だからね。プレッシャーが大きいんだと思うんよ。声は綺麗なんだけどね、少し演技が固いというか、感情ができていないというか。陽茉莉の良さ、らしさが出せてないんだよね。」
そんなのも見ててわかるのか。
「わかるよ。あたしが思うに、役者にはタイプが2つあるの。何をやってもその人に見えるタイプと、役に没頭してしまって全く別人になってしまうタイプ。ほら、芸能人とかにもいるでしょ。」
なんとなく当てはまりそうな俳優の顔が思い浮かぶ。しかし、結構前者の人が多い印象だが。
「そうそう。お芝居している人は、自分を見て欲しい、自分が目立ちたいって人がやっぱり多い。そういう人たちは、どちらかと言えば役を自分に近づけて演じるの。プロの中には、むしろ自分というブランディングを大事にするために、その手段を取る人もいるみたいだけど。反対に、自分に役柄を憑り映してしまうタイプも稀にいる。陽茉莉はそっちのタイプ。でも、今回は上手く役に入り込めていないみたいやねん。」
灯曰く、役作りというのは如何にその役を知ることができるからしい。設定やセリフから、その役柄の性格を想像し、何故そのタイミングでそんなことを言うのか、そのときどういう気持ちだったのかを想像し、一人の人間を知るのと同じように役を想像し理解していく。陽茉莉が今回うまく行っていないのはここらしい。まだ役柄を理解できていないから、その役の感情の流れについていけていないのだ。いやはや、演じるってのも奥が深いね。俺には無理だ。
十分程休憩を取ったところで、灯は稽古を再開させる。せっかくなのでもう少し見学させて頂くことにして、空いた席に座る。
「はい!じゃあさっきのシーンからもう一回いくよ!陽茉莉、余計な事考えないで集中してよ!」
「はい!」
灯が両手を打って鳴らすと、芝居が始まった。
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