第16話 許すことなどできなかった


 きっかけは、クラス委員の仕事を、夏生とふたりで片づけていたときのことだった。


 この頃すでに、新しい芳賀雪奈としてクラスに溶け込み、明るい性格の女子生徒として受け入れられていた雪奈は、当然のように夏生とも仲良くなっていた。


 むしろ春からクラス委員として、ふたりだけの時間を共有していたぶん、他のクラスメイトより、雪奈は夏生への親しみを感じていた。


 もちろん、夏生の見た目通りに心優しく、気の利く性格が前提にあればこそで、裏表のない夏生を雪奈は、よき友達として気に入っていたのだ。

 夏生の小柄な外見も、心の底に男性への恐怖心をひた隠していた雪奈にとっては、特にストレスにならなかったから。


 そんな夏生は一見すると、小柄で自信のなさそうな、目立たない男子生徒だが、クラスで存在感がないわけではなかった。

 美人の幼馴染、黒川冴がいつも夏生を連れまわしていたから。


 ふたりの関係は一年の頃から有名だったようで、教室でふたりが密着していようと、過剰にさわぐクラスメイトはいなかった。


 雪奈は初めのころ、冴の大胆な行動に驚いたが、恥ずかしがって離れる夏生と、その姿を穏やかな顔で見つめる冴に、幼馴染としての信頼関係を感じて、ふたりが触れ合う姿に、いつの間にか癒されるようになっていた。

 そこに、自分が求めていた日常があるような気がして。


 だから雪奈は、夏生と冴がふたりでいる姿が好きで、よく眺めていた。

 他のクラスメイトと違って慣れていなかったぶん、周りより多くの瞬間を、雪奈は見ていたのだ。


 そうしてふたりの姿に癒されながらも、少しずつ、少しずつ違和感を蓄積させていた。

 何とは言えない違和感を。

 それが明確な形をもったのが、夏生とふたりでクラス委員の仕事を片付けているときのことだったのだ。


「夏生くん? どしたの?」


 書類をまとめていた雪奈が、ふと顔を上げると、振動したスマホを手に持ったまま、固まっている夏生が目に入った。


 もうすでに、何度もふたりで仕事を片付けている雪奈は、夏生がズルをして仕事を人に押し付けたり、サボって楽をするような性格ではないと知っていた。


 だから別に、夏生がスマホを見ていても、なんとも思うことはなかったのだが、スマホを持ったまま固まっている夏生は、サボっているというより、むしろ動揺しているように見えて、雪奈は思わず声をかけていた。


「え、あ、いや、手を止めててごめん。冴からちょっと連絡きてて」

「なぁんだ、黒川さんか。ホント仲いいんだねぇ。返事くらいしてあげたら?」

「ありがとね。送ったらすぐやるから」

「そんなに慌てなくていいってば、夏生くんのサボりー! なんて言わんからさ」


 雪奈としては少し揶揄ったつもりだったのだ。

 夏生なら、サボってないよ! と慌てた笑顔を見せてくれると思って。

 けれど実際に返ってきた反応は、雪奈の想像とは違っていた。


 夏生は雪奈の揶揄いが聞こえていなかったかのように、スマホに文字を打つことに夢中になっていたのだ。


 やっぱりいつも一緒にいる幼馴染のことになると、周りが見えなくなるのだろうか。

 初め雪奈は、そんなふうに考えて、スマホを操作する夏生を眺めていた。

 そして、すぐに違和感に気が付いた。

 

 明らかにおかしかったのは、夏生の表情だ。

 冴から連絡が来たならば、きっと嬉しそうに笑うのだろう。そんな雪奈の想像と違い、夏生は必死の様相で文字を打ち込んでいた。


 その表情を見たとき、雪奈は夏生に、過去の自分が重なって見えたのだ。

 まるで、すぐに返信をしなければ機嫌を損ねてしまうと、そう恐れて必死になっていたあの頃の自分の姿が。


「ご、ごめんね雪奈さん。もう終わったから」

「……あ、う、うん。じゃあ再開だね」


 呆然と夏生を見ていた雪奈は、声をかけられて我を取り戻した。

 見ればスマホをしまった夏生は、いつものように穏やかな笑顔に戻っていて、さっきまでの様子が、まるで夢だったかのように雪奈には思えた。


 けれど夢などではないと、すぐに雪奈は思い知らされることになる。


 その日はかなりの量の仕事を担任から任されており、いくら慣れてきた雪奈と夏生でも、いつものように素早く片付けることはできなかった。


 だからこれまでなら、もう終わっているような時間もとっくに過ぎてしまっていて、雪奈と夏生以外は、誰も校舎にいないのではないかと思うくらい、辺りは静かになっていた。

 だからこそ聞こえる音があった。夏生のスマホが振動する音だ。


「ごめん雪奈さん。返事だけしちゃうから」


 スマホが震える度に表情を一変させ、慌てたようにスマホを操作し始める夏生。

 時間が経過していくごとに、まるで急かすかのように、スマホが振動する間隔が短くなる。

 もはや夏生は冷や汗をかいていて、見ていて安心するような温かい笑顔は、すっかりと消え去っていた。


 雪奈はこのとき、転校してきてから初めて、本当の意味で自分以外の人に関心を向けていた。


 それまでの雪奈は、自分の過去を捨て去り、忘却することだけに必死で、他人に興味を持つ余裕がなかった。

 だから他人の反応で、新しい自分に成れているかと気にすることはあれど、他人そのものに対して関心など持てなかったのだ。


 だが、そんな雪奈ですら、目の前にいる夏生には、関心を向けざるを得なかった。

 夏生は集中してやるべきことを片付けていく、普段より素早く、少し雑にすら見えるようなやり方で。


 けれど一度スマホが震えれば、すぐに手に取って文字を打ち始める。相手を少しでも待たせてしまわないように、夏生の動作には、そんな気持ちが表れているようだった。


 雪奈は別に、夏生と長い付き合いがあるわけではない。

 それでも春から共に、少なくない苦労を一緒に乗り越えてきた、このもう一人のクラス委員のことを、雪奈はそれなりわかっているつもりだった。


 けれど、こんなふうに、見ていて心配になるような夏生の姿を見るのは、雪奈も初めてだったのだ。


「夏生くん? なにかあったの?」


 そう声をかけたとき、雪奈の中ではまだ、心配という感情が大部分をしめていた。なにか大変なことがあって、冴が連絡してきて、夏生もそれで慌てているのではないかと。けれど、


「な、なにもないよ! 全然平気! ごめんね何度も」


 そう言って、取り繕うかのように笑う夏生の笑顔を見たとき、雪奈の中で新しい感情が芽生えた。

 それは疑念。

 今度こそ雪奈は夏生の姿に、過去の自分をはっきりと見たから。


 慌てて真実を隠そうと誤魔化すその姿が、本当にそっくりだったのだ。

 普段はしっかりと視線を合わせて話すのに、今の夏生は、雪奈の姿すら視界に入れないように、斜め下の床に向かって話していた。


 あからさますぎるその変調に、夏生自身は気がついていないらしい。

 きっと動揺している夏生は、ただ話を誤魔化すことに必死なのだろう。

 だから雪奈が、穴が開くほど見つめても、まったく気がついていない。

 そんな夏生の姿を見ているうちに、雪奈の疑念は、確信めいたものに変わっていた。


 結局、その日の夏生は、残っていた仕事を乱雑に終わらせると、先に独りで帰っていった。

 最近は、クラス委員の仕事で放課後に残ったときは、途中まで一緒に帰るほど仲良くなっていたというのに、そんな習慣まで忘れてしまったかのように、夏生は急いで行ってしまったのだ。


 気遣いの上手い夏生らしからぬ行動は、焦りゆえにだろう。

 よほど急がなければならない事情があったとしか思えない。そしてその事情は明らかに、何度も来ていた冴からの連絡だろう。

 その日から雪奈は、注意深く夏生を観察することにした。冴が夏生のそばにいるときは、特に念入りに。



 こうして夏生と冴の様子を観察し始めた雪奈だったが、自分の感じた不安が、まるで見当違いの杞憂でしかなかったのではないかと思った。

 そう思ってしまうくらいには、学校でのふたりの様子に変わりはなかったから。


 冴はときに夏生の面倒をみて、ときに揶揄い、夏生といることが心から楽しそうにみえた。

 夏生も、とくに冴から距離をとるようなことなく、冴のそばが自らの居場所であるかのように、常にそこにいた。

 そこにあるのは、雪奈が転校してきたときには、すでにあったお馴染みの光景だけだった。


 冴が夏生を楽しそうに連れ回し、夏生が素直についていく。それが誰もが知っているふたりの関係なのだから。

 だから、だから誰もが気付かなかったのだろう。雪奈でさえ、気のせいだったと思いかけたのだから。


 けれど、雪奈の疑念が完全に消えてしまう前に、夏生が顔に傷をつくってきたことがあった。


 軽いかすり傷だと本人は言っていたその傷。

 その傷自体は、確かにすぐ治ったようだったが、その日以降の夏生は、雪奈からみれば明らかに壊れてしまいそうだった。


 学校では上手く隠していたと思う。

 けれど顔の傷でまた疑念を深め、観察をやめていなかった雪奈の目には、夏生の変化が顕著に映った。

 冴に声をかけられるだけで、身体を硬直させ、一白置いてそれから笑顔になる。まるで意識して笑みを作っているかのような不自然さを雪奈は見逃さなかった。


 そんな夏生の姿を見てしまえば、もはや疑いでは済まされなかった。


 制服の袖を気にして触り、無意識に伸ばそうとしている夏生は、痣を見られないよう必死に隠す過去の雪奈だった。

 冴に呼ばれるだけで満面の笑みをつくる夏生は、相手が不機嫌にならないように、常に気を使っていたあの頃の雪奈だった。

 冴から連絡がくるだけで、何もかもをやめてまで、できるだけ早く返事をする夏生は、もう捨て去ったはずの、芳賀雪奈そのものだった。


 忘れたくても忘れることなどできない、あの頃の自分が、今も雪奈の目の前にいた。

 まるで、逃げ出してもずっと過去が追いかけてきているかのようで、雪奈はいてもたってもいられなかった。

 だから雪奈は、確固たる証拠を、得るために、夏生と冴の監視を学校の外まで広げることにした。ふたりのあとをつけることにしたのだ。

 そうしてすぐに、はじめからこうしていればよかったと、雪奈は後悔することになった。


 学校では仲睦まじい幼馴染。それが夏生と冴の姿だった。

 けれどひとたび学校を離れ、周りから人目がなくなると、冴が態度を一変させたのだ。


 雪奈は確かに見た。夏生を付き従えるようにして歩く冴の姿を。

 家まで連れていかれる間、夏生は怯えて挙動不審になっており、雪奈が知っている夏生とはまるで別人のようだった。


 夏生をそんなふうに変えてしまったのは、冴なのだろう。

 自分の鞄を乱暴に夏生へと投げ渡し、持たせて当然という態度で、慌てる夏生を待つことなく先に行ってしまう。

 さらに酷いことに、夏生が鞄を落としてしまったり、もたついて少しでも遅れると、冴は顔つきを見る影もなくかえて、夏生を怒鳴りつけるのだ。

 胸ぐらを掴まれ、汚い言葉で罵倒された夏生は、反抗する様子もなく、ただひたすらに冴へ謝罪を繰り返す。

 そんな夏生の姿が本当に自分そっくりで、雪奈は物陰で盛大に吐いた。


 壁に手をつき、なんとか身体を支えてながら、雪奈は決意する。もう見ているだけでは、とても我慢なんてできなかった。


「力になるから。私を頼って、ね?」


 雪奈は、夏生が必然的に冴から離れることになる、クラス委員の仕事のさい、夏生から直接事情を聞き出した。

 はじめは誤魔化そうと必死になっていた夏生も、袖をまくって腕の痣を晒せば、言い訳もできなくなったようだった。


 クラス委員という、このクラスに二人だけの立場のおかげで、元からそれなりの信頼関係があったこともプラスに働いたのだろう。

 雪奈が真摯な態度で促せば、夏生はぽつり、ぽつりと自分が置かれていり状況を話してくれた。


 それは雪奈の想像通りであり、想像よりも酷いものでもあった。


 夏生の身体にはもうすでに、腕以外にもたくさんの痣ができてしまっているようだった。

 さらに酷いのは、束縛され、これだけのことをされているというのに、夏生が冴を庇っていることだ。


 自分が悪いせいで、相手にこんなことをさせてしまう。

 相手を怒らせてしまうのは、自分なのだから、悪いのは自分で、相手は悪くない。

 そんな夏生の思考が、雪奈には手に取るようにわかる気がした。

 その思考こそが、自分そのものだったから。


 このままになんて、できるわけもなかった。


 新しい自分になるためにやってきた、新生活を送る場所。

 そこでできた、普通の日常への大切な鍵となる友達。

 そんな友達が、捨て去りたい過去の自分と同じ苦しみを味わっている。

 そんなこと、許せるはずもなかった。


 雪奈の中で急速に、冴への憎悪が膨らんでいく。同時に夏生を過去の自分にしてしまわないように、どんなことをしても、絶対に助けなければと決意を固める。


 雪奈は夏生へ、過去の自分を重ねていた。

 雪奈は冴へ、元彼を重ねていた。


 だから雪奈は、冴を許すことなど、できるはずもなかったのだ。

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