第13話 たとえ涙を流しても


「いやぁ、夏生くんにも春がきたんだねぇ。芳賀ちゃんが相手ってのがかなりビックリしたけどさ」


 夏生が雪奈と教室を出ていってしまったあと、冴はまだ立ち上がることすらできていなかった。

 そんな冴の後で、何が楽しいのか、クラスメイトがうきうきと喋り続けていたが、冴にはまるで耳に入ってこなかった。


「冴は相談とか受けてたんでしょ? ちょっとくらい情報横流ししてくれたってよかったのに」


 だが、耳に入れる余裕すらなかったはずのその言葉が、冴の耳から脳を揺らす。

 どうでもいいと思っていたクラスメイトの言葉が、冴の心を確かに傷つけた。

 普段なら何を言われても冴は気にしないし、なんなら今も、別に悪口を言われたわけではない。

 ただ当然のように聞かれた言葉が、冴の心に深く、深く突き刺さったのだ。

 なぜなら冴は、夏生からたったの一度も、相談なんてされていなかったから。


「ちゃんと内緒にしてあげるなんて冴も律儀だよねぇ。まぁ何はともあれ、夏生くんに彼女ができて、冴にとってもよかったじゃん」

「……は?」


 たとえ本当は相談なんて受けていなくても、冴はクラスメイトの言葉を訂正する気なんてなかった。

 真相を伝える義理もなければ、本当は相談されていないなど、冴のプライドが邪魔をして、言えるわけもなかったから。

 だから冴は、なるべくこのクラスメイトの声を聞き流そうとしていた。けれど、今の言葉だけは聞き流すことができなかった。


「夏生に彼女ができてよかったって、なんで? どういうこと?」

「え、だって冴はずっと夏生くんの面倒見てたから。けどこれからは芳賀ちゃんがいるからさ、やっと冴は夏生くんから解放されたわけでしょ? よかったじゃん!」


 冴が夏生から解放されたと、このクラスメイトは確かにそう言った。

 目の前で冴自身がそう聞いたから、それは確かだ。

 だというのに、冴は今、どうしてもその言葉通りに受け取ることができなかった。

 そんなこと言われていないと分かっているのに、冴の中では今の言葉が逆転していたから。


 夏生が、冴から解放されてよかったねと。


「……そんなわけない」

「今までは夏生くんがいたからさ、冴は気を使って遊びに行けなかった場所とかあったじゃん?」

「そんなわけない、そんなわけないじゃん」

「これからは気にしないで冴も遊びに行けるってわけ! まぁ恋人はうらやましーけどさ、都合よくイケメンなんて落ちてないし、独り身連中でパーッと遊ぼうよ!」

「夏生は喜んでない、あたしは、独りじゃない」

「冴? 聞いてる?」

「……ごめん。ちょっと夏生に用事あるのお思い出したから」

「えっ!? ちょっと冴!?」


 冴は鞄をひっつかんで席を立った。

 立ち上がった瞬間、震える足に力が入らなくて、そのまま倒れてしまいそうになる。

 咄嗟に机に手をついて踏ん張り、冴は自分の太ももを叩いて無理やり震えを止め、それから全力で走りだした。

 後ろからクラスメイトに呼び止められる。

 その邪魔な声を振り切って、冴は振り返ることなく教室を出た。

 まだ追いつけるはずだと信じて。


 スカートをひるがえして廊下を走り抜ける。運悪く教師に見られ、慌てたように声をかけられたが、冴は完全に無視をした。

 階段に差し掛かり、やったこともなかったが、冴は階段を一段飛ばしで駆け下りる。躊躇なんてしている暇もなかったから。


「あっ!?」


 案外うまくやれていたはずだった。

 けれどそれは最初だけで、すぐに冴は足がもつれ、どの段に足をつけばいいかがわからなくなってしまう。

 自分でも制御できないスピードで駆け下りていた冴に、そんな状況を修正できるわけもなく、あと一、二段というところで、冴は足を踏み外して派手に転んでしまった。

 衝撃とともに、右の足首に鋭い痛みが走る。

 転んだ拍子に足をひねってしまったのだろう。ただひねっただけ、それだけの痛みが、体育の授業ですら、まともにしていなかった冴には久しぶりの感覚で、その瞳には涙が滲んできてしまう。


「あの、大丈夫ですか?」


 冴が咄嗟に顔を上げれば、見知らぬ女子生徒に覗き込まれていた。

 おそらく一年だろう。心配して駆け寄ってきてくれたらしい。

 声をかけられたことで、冴には周りが見えるようになった。

 よほど大きな音でも立てていたのだろう。冴の周りには、人だかりができてしまっていた。


 目の前女子生徒のように、心配してくれている者だけではない。面白がって笑っている者もいた。

 もう長い間、クラスでも上澄みにいた冴は、そんなふうに笑われるのが、本当に久しぶりだった。

 その嘲笑うかのような笑みを見た瞬間、冴の中でフラッシュバックする幼い頃の記憶。

 夏生だけが味方でいてくれた、あの頃の記憶。


「あ、あの、保健室に行ったほうが」

「……大丈夫、ありがとう」


 冴は意地で涙をひっこめて、痛みを我慢して自分で立ち上がる。

 心配して手を差し伸べてくれた女子生徒を手で制し、人ごみを割って歩き出す。


 本当は、大丈夫なんかじゃなかった。


 冴は今すぐ泣きついて、理不尽にアンタのせいだと、怒鳴り散らして、ごめんね大丈夫? と親身に慰めてほしくて仕方なかった。

 けれど、いつも隣にいて、そうしてくれたはずの夏生が、今はいないから。だから冴は、独りで歩き出すしかなかった。


 一歩進み、体重がかかるたびに、ズキズキと刺すような痛みが大きくなる。

 靴を履き替えるだけでさえ、唇を力いっぱいかみしめなければできなかった。

 はじめは、その痛みに負けてしまいそうだった。けれど冴は、その痛みを苛立ちに変えて、もう一度走りだした。


 片足を庇いながらの不格好な走り方。目立ってしまい、嫌でも注目を集めたし、頑張ってもまったく早くない。

 痛いだけで、まるで無駄にしか思えないその行動を、それでも冴はやめなかった。

 みっともなく息を切らして冴は走り続ける。普段なら髪が乱れるからと、絶対にしないはずなのに、それでも冴は止まらない。そして、


「はぁ、はぁ……はぁ、いた」


 冴はその背中を見つけたのだ。

 学校を出て、まだ少しという所、楽し気に談笑しながら、ゆっくりと歩いている一組の男女。

 たとえ周りに同じ制服をきた生徒が沢山いても、絶対に見間違えるはずもないその背中。

 夏生がまだ近くにいてくれたことに、冴は一瞬だけ安堵した。だがその安堵も、本当に一瞬だけ。

 夏生の隣には、まだ雪奈が当然のように寄り添っていたから。


 冴はもう、足の痛みを感じていなかった。

 そんなことがどうでもよくなるくらいに、夏生の隣に居座る雪奈が許せなかったから。


「絶対あの女のせいだ。あいつのせいで、夏生が変になったんだ」


 冴の中で、憎悪の対象が変化していく。

 そもそも、冴といつも一緒だった夏生が、自ら離れて行ってしまうことがおかしかったのだ。夏生が冴を置いて帰ってしまうことなど、本当ならあり得ないことなのだから。


 だからきっと、夏生は雪奈にそそのかされ、言う事を聞かせられているのではないだろうか。

 ふたりが付き合いだしたというのも実は嘘で、夏生は雪奈に合わせてあげているだけなのかもしれない。


 そこまで考えた冴は、改めて前方に視線を向けた。

 少し離れたところを並んで歩くふたりは、冴から見ても仲が良さそうに見える。けれど、別に手も繋いでいなければ、お互いに触れ合うようなこともしていない。

 親し気には見えても、ふたりの姿は恋人同士と呼ぶには、いささか距離感が遠いように冴には見えたのだ。


 ふたりの距離感を見て、冴は自分の考えが、現実味を帯びているように感じた。

 このまま後ろからふたりを観察し、付き合っているというのが嘘だと、なにかしらの証拠を得ることができたなら、雪奈から夏生を取り返すことだってできるはず。

 そう考えた冴は、少しの間、見つからないように二人のあとをつけるつもりだった。だが、


「なっ!? あの女!?」


 それは急な出来事だった。

 周りからは他の生徒の姿が消え、ある程度人目が少なくなった通りに差し掛かったとき、雪奈が急に、夏生の手を握ったのだ。

 指を絡めて夏生の手を握り、身体をこすりつけるかのように密着させる雪奈。

 突然そんなことをされた夏生は驚いて立ち止まるが、それでも雪奈を突き放すようなことはしない。冴が見たこともないくらいに頬を朱に染めて、指を絡め合うように雪奈の手を握り返す。

 それからふたりは微笑みあって、肩と肩を寄せ合って歩き出した。


 冴の目の前で行われた一連の出来事は、ふたりが本当は付き合っていないかもしれない、という冴の考えを否定するのに、じゅうぶんすぎるものだった。

 仲睦まじく歩く夏生と雪奈の姿は、ふたりが恋人同士であると、そう形容する以外他になく。

 人目をさけていちゃつき出すという行為が、付き合いたての初々しさを、これでもかと醸し出していたから。


 さらに雪奈は、己の身体を、そのまま夏生に密着させていた。

 付き合っているのが演技や嘘だというのなら、絶対にあそこまでしないだろうと、冴の目から見てもそう思えるほど、雪奈は積極的だった。

 貧相でしかない身体のくせに、雪奈は女の武器として、自らの身体を存分に使っている。その姿勢が、雪奈から夏生へ向けた本気度を表しているように、冴には見えたのだ。


 冴はここにきて、やっとふたりが本気で付き合っているのだという確信を持った。


 当然、そのままにはしておけない。

 冴は今すぐにふたりの間に入り、夏生を雪奈から引きはがすために、走り出そうとした。

 けれど、今日はなにもかもが上手くはいかないらしい。

 冴が走りだす前に、前方を歩くふたりが急に走り出してしまっていた。


「あ、ま、待って!」


 自分がこっそりあとをつけていたことなど、すっかりと忘れてしまったかのように、冴は夏生に向かって声を張る。

 その声が夏生の耳に届いたのかどうかは、微妙なところだろう。

 真相は冴にはわからないが、結果として、夏生が足を止めてくれることはなかった。


「待って! 待ってよ夏生!」


 必死に声を張り、痛みがぶり返してきた足を引きずって、冴は懸命に夏生の背中を追いかける。

 けれど、捻挫した足ではまともに走れるわけもなく、雪奈に手を引かれて走る夏生の背中は、どんどんと離れていってしまう。


「置いてかないで! あたしを置いてかないでよ夏生!」


 走りながら必死になって叫んでも、息切れして、咳き込んで、冴はまともな声量がだせなかった。

 どんどんと小さくなっていく夏生の姿。

 その姿が、急にぼやけて見にくくなってしまう。

 冴の瞳が涙で滲んだから。

 さっきは我慢できたそれを、冴はもうこらえることができなかった。

 瞳に溜まるだけではことたりず、滲んだ涙は頬をつたい、ぽたぽたと地面に落ちては消えていく。

 痕すら残せぬ無常なその様が、涙なんて流しても、なんの意味もないことを冴に教えてくれた。


 冴の目には、もうとっくにふたりの姿が映ってはいなかった。

 完全に見失ったふたりを探すことなど、足を痛めている冴には不可能だろう。

 立ち止まった冴は、スマホをとりだし、夏生に着信を入れる。

 その行為には、何の意味もないのだろう。現にいつまで経っても、夏生が電話に出ることはなかったから。


 冴は涙をながしながら、唇をかみしめる。

 幼いあの頃、内弁慶で何も言い返せず、ただそうしていた冴と、今の冴は何も変わっていなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る