第2話 第2話 楔の里、神装兵の襲来

山霧は、夜明けの光を拒むかのように谷を覆っていた。


 湿った空気が肌を冷やし、苔むした地面は露をまとって滑る。谷底にひっそりと息づく集落――楔くさびの里。霊脈こそ浅いが、灰の粒子がゆるやかに集うこの地は、外界の妖あやかしも旧人きゅうじんも届かぬ隠避の場所であった。


 木々の枝には淡い金灰が積もり、風が渡るたび、細かな粉塵が朝の闇に舞い上がる。そのきらめきはまるで星の雫のようで、静寂の中に、かすかな生命の気配を宿していた。


 楔の里の者は皆、灰を学び、灰と共に生きる。食も、眠りも、祈りも、すべてが灰素かいそとの調和の修行であった。灰を読むことは生存の術であり、導くことは命を繋ぐ道。彼らはそれを「修灰しゅかい」と呼んでいた。


 井戸端の石に腰を下ろし、燐生りんせいは掌を静かに開いた。


 指先に淡い光が宿り、灰素が静かに集う。まるで呼吸するかのように灰が脈動し、その鼓動が血潮の音と共鳴する。灰素は「生」と「死」の狭間を流れる粒子――世界の呼吸そのもの。


 掌の上で脈打つ灰の温もりに、心臓が微かに応えた。生きるとは、灰を読むこと。灰を読むとは、世界の息を感じること。


 背後から、澪みおの声がした。

「……燐生、灰素の流れが、おかしいぞ」

 その声は、霧を震わせるほど鋭かった。


 振り返ると、澪が立っていた。黒髪を結い、淡青の衣の裾を風がなびかせる。第二階位――灰行かいこうに達し、灰の流れを「読む」ことに長けた者だ。


 澪は掌を掲げ、指先をゆるやかに滑らせた。

 その軌跡に呼応して灰素がざわめき、谷の空気が微かに震える。


 「……見えるかしら?」

 燐生は目を凝らす。霧の流れの奥、光が渦を巻くようにねじれていた。


 「これは……風の乱れ?」

 「違うわ。灰素が拒絶してるの。外から、違う元素も入り込もうとしてる」


 澪は指を弾いた。掌から放たれた灰が小さな渦を描き、空気の流れを可視化する。霧が割れ、渦が淡く輝く。


 「灰は、力を生むだけじゃない。感じるものよ。風、音、熱、命――すべてを読むの。流れを掴むこと、それが灰を“使う”ということ」


 燐生は息を整え、同じように掌を掲げた。

 灰素が応じて揺らぐ。空気の湿度、温度、霧の密度が指先を伝って流れ込む。世界の呼吸が、確かにそこにあった。


 「……感じる。生きてるみたいだ」


 澪は微笑んだ。

 「それでいい。その感覚を忘れないで」


 ☆★☆


 その瞬間だった――谷を裂く轟音が響いた。

 爆ぜるような風。木柵が弾け飛び、粉塵が空へ舞い上がる。


 「旧人だ! 防備を展開せよ!」

 守衛の叫びがこだまする。


 霧を突き破って現れたのは、白銀の巨影――神装兵しんそうへい。旧人が造りし戦の機器。人の形を模してはいるが、魂も心もない。残された命令はひとつ、「原種げんしゅの排除」。


 全身を覆う金属装甲には焦げ跡があり、関節部から青白い光が脈打っている。背の推進器が火花を散らし、蒸気を吹き上げる。その一歩ごとに、大地が低く震えた。


「防壁を張れ!」

 符が空に舞い、石弩いしどが唸りを上げる。爆炎が霧を裂き、静寂の谷は一瞬で戦場へと変わった。


 灰行たちが前線に立ち、《灰流掌かいりゅうしょう》を放つ。灰の奔流が金属の体を叩き、光が弾ける。だが、神装兵は痛みを知らない。装甲が裂けようとも、無言で前進を続けた。


 澪の足元に爆炎が上がる。灰の盾を展開して衝撃を逸らすが、その力は強大だった。


 「燐生、下がって!」


 しかし、その叫ぶ声に、燐生は応じなかった。

 一歩も退かず、灼けつくような熱を胸に抱く。それは恐怖ではない。――怒りだった。

 目の前で燃え落ちる村の風景が、あの夜、灰に呑まれた故郷の記憶と重なって見えた。


 拳を握る。骨が軋む。灰素が掌に集まり、光が宿る。

 「灰撃かいげき――!」

 第一階位・灰徒の基礎技。己の命脈を燃やし、灰を拳に宿す。


 地を蹴り、風を裂く。拳が閃光を描き、神装兵の胸を叩いた。鈍い衝撃音。だが、装甲はひびすら入らない。

 「効かない……!」


 次の瞬間、神装兵の脚が跳ね上がり、燐生の胸を打った。鉄の槌のような一撃。身体が浮き、岩壁に叩きつけられる。呼吸が抜け、視界が白く染まった。


 「まだ……終わってない……!」

 立ち上がろうとした瞬間、蒼光が走る。

 光線砲が地を薙ぎ払い、爆風が燐生を包んだ。世界が裏返り、爆風がもう一度、体を吹き飛ばした。岩壁に叩きつけられ、肺の奥から空気が抜ける。痛みよりも、耳鳴りの方が先に来た。


 「燐生っ!」

 澪の叫び。掌から流れた灰素が燐生の身体を包み、滑るように戦場の外へ引き寄せた。

 爆炎が谷を舐め、灰が空へ舞う。


「やつの核を狙うのよ!」


 澪の声が響く。霧の奥、神装兵の胸に微かな蒼光――中枢信号の発信源。

「でも、あそこまで近づけない!」

 爆発と閃光の連続。木々が焼け、村人たちは互いに支え合いながら符を放ち続ける。恐怖に震えながらも、誰も逃げなかった。ここを失えば、灰の修行も、静かな暮らしも終わる。


 澪は灰素を集め、息を整えた。

「灰を読む。流れを掴み、導く――それを見せる」


 掌を振ると、潮のように灰素が集まり、渦を巻く。

「押すのではない。奪うの」


 灰流が滑らかに走り、金属の脚を絡め取る。

「灰流掌――《反縛はんばく》!」

 霧の中で灰素が逆巻き、神装兵の動きが止まった。脚部の関節が沈み、金属の軋みが響く。


 その隙を逃さず、燐生が走った。拳に灰を纏い、命を削る。息が、灰素と重なり合う。

 一瞬、世界が止まった。


 次の瞬間、灰素が爆ぜ、奔流が霧を裂く。拳が神装兵の胸を打つ――鋭い音が響いた。だが、厚い装甲は裂けない。燐生の腕が痺れ、流れが霧散する。


「まだ、だ……!」

 燐生は歯を食いしばり、もう一度踏み込む。拳を振り上げた瞬間、神装兵の腕が唸りを上げた。鉄の拳が燐生の脇腹を撃ち抜き、骨が砕ける音が響く。身体が宙を舞い、地に転がる。血が霧に散った。


 三度目の衝撃。

 意識が暗く沈む。だが、掌の奥で灰素が脈を打っていた。痛みが遠のくほどに、灰の響きが近づく。

 ――灰が、生を繋いでいる。


「燐生、もういい! 引いて!」

 澪の声が泣きそうに震える。彼女の指先が走り、灰符が宙を描く。


「今だ! 全灰行、符陣展開!」

 全灰行が陣を組み、地脈が共鳴した。灰槍が空を裂く。閃光と共に爆炎が立ち上がった。


 ☆★☆


 燐生が意識を取り戻したとき、霧の中には風の音だけが残っていた。煙が薄れ、崩れた神装兵の残骸が谷底に沈む。澪が近づき、燐生の隣に膝をつく。


「……拳は届いてたわよ」

「壊せなかった」

「でも、あなたの意志が装甲に刻んだ。」


 燐生は拳を見つめた。皮膚の裂け目から血がにじみ、そこにも灰素の微かな光が宿っている。それは生の証であり、同時に、届かなかった力の象徴でもあった。


 胸の奥が軋む。あの夜、救えなかった命の記憶が、血と共に疼き始める。今の怒り、悔しさ、痛みと重なり――すべてが胸の奥で渦を巻いた。


 「……俺、まだ弱いんだ。力が欲しい、早く、誰よりも強く!!」


 拳を強く握りしめた。その瞬間、右掌に宿る熱が、彼の決意に呼応した。掌には、三筋の稲妻状の傷痕が刻まれている。燐生はその傷痕を押し潰すように、指先で強く押し当てる。皮膚の下の古傷が疼き、血が滲むと同時に、淡い光が指の間から零れ落ちる。それは痛みを超え、彼を突き動かす渇望の証だった。


 この掌紋と重なり合うように深く刻まれた稲妻の痕は、灰の村が焼け落ちた夜で、巻物を掴んだ瞬間、閃光が掌を貫き、肉を裂いたものだ。


 彼が弱いままでいることを許さない。過去の悲劇から逃れる道を閉ざし、強者として生きる未来を、強制的に示している。彼は、この痛みを力に変えて進むしかないのだ。

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