紅蓮仙途 ― 世界を捨てた神々の帰還と棄てられた僕の仙となる旅

@S2025

第1話 神が捨てた地に、灰の息子

 焚天の谷は、もはや地獄の窯だった。谷底の紅蓮の焔は天を焦がし、血のように赤黒く染まった雲を裂いて、黒曜の城塞・焔の宮を照らしていた。


 塔上に立つ焔璃姫は、紅の鎧に身を包み、神器紅刃・炎心を腰に提げていた。彼女の紅玉の瞳は、烈火よりも深く、その静かな眼差し一つが、全軍の命運を掌握していた。


 「報告!東方、神装兵に突破されました!外構、崩壊寸前!」

 伝令の悲痛な叫びにも、焔璃は表情一つ変えない。

 「……外構は放棄。戦力を焔脈の中心へ収束させよ。神々の遺産たる地脈を、穢させるな。」

 その決断は、敗北を知るやむなしの策か、それとも爆発するマグマの予兆か、知る者がいなかった。


 西の空、黒雲を突き破り銀月が昇った。夜の民、月狼族が万人の軍勢。彼らが炎を恐れ、同時に貪欲に求める者である。十人の巫女が、月光を集束させた巨大な銀矢を炎狐族の結界目掛けて放った。


 炎狐の魔法師たちが、自らの血と魂を霊焔に変え、防壁を幾重にも重ねる。紅と銀、焔と月光が空中で絡み合い、昼夜の境界を溶解させた。


 凄まじい轟音の中、焔璃姫は一切の動揺なく、天に向かって咆哮した。

 「炎狐族が絶えぬ限り――滅びぬ!焚天の谷は、まだ燃え尽きてはいない!焔脈の地で、再び、吠えろ!」

 その決意は、熱風を切り裂く真の烈火だった。


 ☆★☆


 時間を遡って、5年前のこと。


 灰の村、風に舞っていた。

 ひとひら、またひとひらと空を漂い、冷えた地に落ちては、指先で触れる前に崩れ去る。


 かつて“家”と呼ばれた場所は、すべて灰に還り、瓦礫の影に人の形を留めるものはもうなかった。空は白く濁り、陽の光は地に届くこともなく、靄に遮られた。


 沈んだ静寂の中で、燐生りんせいは跪き、掌で黒く崩れた地面を掬った。指の隙間からこぼれ落ちる灰の粒が、朝の光を受けて淡くきらめく。その粒に微かな金色が混じっていた。人の骨が燃え尽きたあと、魂の欠片がそうして残るのだと、彼は知っている。


 ――この村は、もう終わった。


 そう理解していても、胸の奥にはまだ誰かの声が残っていた。燃える最中に聞こえた「逃げろ」という叫び。それが誰のものだったのかも、もうわからない。だが、その声が今も彼の足をこの地に縛りつけていた。


 燐生はゆっくりと立ち上がり、焦げた空を仰いだ。肺に吸い込む空気は乾いていて、わずかに焦げた匂いが混じる。胸の奥がきしむように痛い。


 かつての名はもうない。灰と残火に覆われたこの地で、彼は灰の中から再び歩み出すことを選んだ。それでも、希望を捨てきれず――微かに残る炎、希望の痕跡と共に生きる者として、彼は自らを「燐生りんせい」と名乗った。


 背には、小さな包と、一巻の古びた巻物がある。


 それは、旧世の廃墟と化した巨大建築――“天拝塔”と呼ばれた遺跡の地下から掘り出されたものだった。誰が造り、何のために遺したのか、誰にもわからない。だが、初めて触れたとき、指先から温もりが伝わり、胸の奥で“誰かに呼ばれた”気がした。


 村が炎に呑まれた夜、巻物はひとりでに光を放ち、燐生を包み込んだ。炎も毒も通さぬ光の繭。その中で意識を失った彼だけが生き残った。


 あの夜以来、巻物は沈黙を保ったまま、彼を守るように彼の傍らにある。だが、確信があった。巻物の中には、世界が失った“何か”が眠っているのだと。


 燐生は歩いた。灰に覆われた村を離れ、山を越え、川を渡り、ただ無心に東へ向かった。風は冷たく、夜は長い。星々は、もはや人の祈りを受け止めることもなく、ただ沈黙していた。


 ☆★☆


 世界は壊れ、神々は地を棄てた――そう言われて久しい。


 けれど、なぜ今になって“神”は戻ってきたのだろう。彼らは何を求めて、この滅びた地球に再び降り立ったのか。救うためか。それとも、奪うためか。


 かつて地球を棄て、遺伝子の不完全な人々を「欠陥」と呼び、宇宙の深淵へと去っていった人間たち。彼らはいつしか金属の身体を得、永劫の命を手にし、自らを“神”と名乗った。そして地球に残った者たち――棄人すてびとを“原種”と呼び、冷たい眼で見下ろした。


 同じ“人”だったはずなのに、なぜ。肉を捨て、心を置き去りにしてまで、彼らは何を得たのか。そして、失ったのは誰だったのか。


 燐生は答えを知らない。ただ、ひとつだけ確かなことがある。

 ――彼らは、村を灰にした。


 理由もなく。警告もなく。天から降る光の雨が、すべてを焼き尽くした。だから、憎い。理解できないものほど、憎い。その姿を思い出すたび、胸の奥が冷え、息が詰まる。


 なぜ彼らは戻ってきたのか。なぜ滅びを与えながら、“神”を名乗れるのか。燐生には、わからなかった。

 ――世界は、何を罰しているのだろう。それとも、誰を試しているのか。


 旧人きゅうじんが地球を去ったあとの世界では、自然が変じ、獣たちが環境の変異と共に進化し始めた。かつて人に飼われ、恐れられた動物たちが、理ことわりを理解し、言葉を操るようになった。

 

 やがて彼らは“妖あやかし”と呼ばれ、人の言葉を学び、理を悟り、そして――人を超えた。

 なぜ、理は彼らを選び、人を見捨てたのか。神は空に、妖は地に。では、人はどこへ行くべきなのだろうか。その答えを知る者は、もういない。


 燐生のような棄人は、神にも見放され、妖にも届かず、ただ生き残っただけの、世界の端に押しやられた。痩せた土地に根を下ろし、細々と命を繋ぐだけの民だった。


 ☆★☆


 何日が過ぎたのか、幾つの山を越えたのか、もはや燐生にはわからなかった。ただ任せた足が導くまま、遙か東へ向かい、“楔ノ里くさびのさと”と呼ばれる小さな集落に辿り着いた。


 崩れかけた石壁に囲まれたその場所には、わずかに火が灯り、人の気配があった。焚き火の煙の向こうから、子供たちの笑い声が風に乗ってかすかに届く。その音を聞いた瞬間、燐生の胸の奥に、微かな温もりが戻った。


 村長は深い皺を刻んだ顔に静かな笑みを浮かべ、彼を迎えた。

「よう来たな。……お前さん、外の者か」

「はい。西の村から来ました。……もう、あそこは……」


 言葉に詰まる燐生を見て、老人は黙って頷いた。


「知っておる。あの辺りは皆、焼かれ、灰になった。それでも、強く生きてなされなさい」

 それが、最初に告げられた、厳しくも暖かい言葉だった。


 ☆★☆


 楔ノ里の人々は、彼を温かく迎え入れた。燐生は村の一角に小屋を与えられ、村人たちと共に穏やかな日々を過ごすようになった。


 夜になると、燐生は灯りの下で巻物を広げる。そこには確かに“何か”が記されているのに、誰にも読めない。燐生はその古文字を理解できないが、そこに宿る脈動を感じ取ることができた。


 その脈動に触れるたび、彼の胸の奥で何かが微かに共鳴する。

 それは言葉を超えた“呼吸”のようであり、まるで世界そのものが彼に語りかけているようだった。


 夜は、静かだった。


 巻物は羊皮紙にも似たその表面は、どこか有機的で、指先を滑らせると脈のように微かに震える。まるで、それ自体が生きているかのようだった。


 そこに刻まれた文字は、誰も見たことのない形をしていた。線でも、点でもなく、光の粒が滲み合うように連なり、まるで呼吸するように淡く脈打っている。

 

 読めない。意味もわからない。

 だが、燐生の中には不思議な直感があった――これは、読むものではなく、感じるものだ。


 彼は息を整え、指先で最初の文字をなぞった。

 瞬間、指から腕、胸へと、鋭い衝撃が駆け抜けた。まるで精妙な電流を流し込まれたように、体内を光が一巡する。


 燐生は息を飲み、次の文字に触れた。

 今度は光が別の経路を通り、肩から背骨へ、そして足の方へと走った。三つ目の文字――また異なる経路。体の中に、三つの光の道が刻まれていく。まるで経脈を描くように、光が流れ、血液が熱を帯びる。


 だが、四つ目に触れた瞬間、光は途切れた。

 五つ目、六つ目――沈黙……いくら試しても、静まり返ったままだ。


 もう一度、一文字目に戻り、順に指を滑らせた。すると再び、あの三つの道だけが光を流した。体の中に何かが“刻まれた”ような、奇妙な感覚。言葉でも理屈でもなく、ただ確かに、“そこにある”と感じられた。


 何度も繰り返し、文字をなぞり続けた。光の流れを追い、体の中でその経路を覚え込ませるように。それは、まるで見えぬ経脈を探る修行のようでもあり、祈りのようでもあった。


 そのとき、外から足音がした。


 燐生は反射的に巻物を布で包み、火を落とした。扉の隙間から見えたのは、村の少年・零士れいじの無邪気な顔が見えた。


「燐生兄ちゃん、まだ起きてるの? 夜の火は妖あやかしを呼ぶから、早めに消してね。」


 燐生は安堵の息をつき、微笑んで答える。

「ああ、ちょっと本を読んでたんだ。もう寝るよ」

「本? すごいな。おれ、字なんて読めねえや」

「……俺も、読めるわけじゃない。感じようとしてるだけだ」


 零士は首を傾げて笑い、「わけわかんねー」と言い残して去っていった。

 足音が遠ざかると、再び静寂が戻った。


 燐生は布をめぐり、巻物を見つめた。しばらく動けなかった。あの光の道――あれは偶然ではない。もし、この流れを繰り返し辿ることができれば……それは、何かの“術”になるのではないか。そう思った瞬間、胸の奥で微かな熱が灯った。


 夜が更け、外は闇に包まれた。焚き火の光も消え、村は深い眠りに沈む。燐生は巻物を胸に抱いたまま、横になった。瞼の裏に、光の流れが浮かび上がる。三つの経路が、脈のように鼓動している。


 ――この世界には、語られる声と、感じられる声がある。


 燐生はまだ知らない。彼が感じ取った“声”こそ、かつて神々が残した最後の詞――世界を再び動かす“黎明の息吹”だった。


 夜は深く、遠くの山の端には、ほんのわずかに光が滲んでいた。獣の声が再び響く。闇の奥、山の稜線の向こうで、金属が軋むような音が微かにした。


 旧人のものか、妖のものか――。


 それは、黎明を告げる最初の鼓動のように、確かにこの世界の奥底で鳴っていた。

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