マイクロチップ
蒔文歩
ユートピア
ここ最近、とても便利な世の中になった。スマートフォン一つで、地球の裏側にも声が届く。人工知能に命令すれば、家の家事を行う必要はなくなる。そして。金属パーツを体に埋め込むだけで、ほとんどの「不自由」は消えるのだ。
西暦2210年、近未来。日本の工学者チームにより発明された「マイクロチップ」が、今や装着努力義務化された。縦横一マイクロメートルの超小型金属で、医療機関で無償で埋め込むことができ、専用機械で読み込むことにより決済、健康診断、位置情報の共有まで可能となる。汎用性の広さ、装着の容易さなどから、世界人口の九割が既にマイクロチップを装着している。
「マイクロチップの積極的な装着で、あなたの暮らしはもっとより良くなる。身分証の提示一つで、誰でも装着が可能です。あなたも、この時代の最先端へ!」
くすんだテレビの画面の奥で、コマーシャルの映像がこちらに語りかけている。まるで説教されるときのような不快感が胸を刺し、画面を消す。余韻もなく静けさが訪れた。そのすぐ三秒後、次はスマートフォンが唸り始めた。
「はあい。」
「久しぶり、元気にしてる?」
母親だった。大学に入学して一人暮らしを始めてから、週に一度は必ず連絡を取り合っている。
「元気だよ。お母さんは?」
「元気よ。この間ね、あれ、装着したのよ!」
「あれ………マイクロチップ?」
「そうそう!」
弾む声の向こう、母親は誇らしげだった。
「埋め込む時も全く痛くなかったのよ。ものすごく便利だから、あなたもつけてみたら?」
「そう、すごいね。」
通話を切る。静けさが戻る。苦い気持ちを飲み込むように、コーヒーを喉へと流し込んだ。今日で二度目の説教を受けた気分だ。
「早く、電車遅れちゃうよ!」
「待って!」
電子マネー対応の改札機へと遠回りして、友達の背中を追う。なんとか終電に間に合ったが、彼女を待たせてしまった。
「ごめん。」
「間に合ったから良いけど、あんたまだマイクロチップつけてないの?」
吊り革が音を立てる。満員電車に揺られながら、友達が不意に尋ねてきた。苦笑する。
「うん、まだ。」
「信じられない。これから装着してないと相当不便になるよ。チップの装着がないと、入れないレストランがあるって聞いた。」
正論。その「正しさ」が、怖かった。
「なんというか、怖いんだ。」
「怖い?」
「体に、埋め込むって、気持ち悪くて。」
本音は、電車の音に吸い込まれていく。潔癖症だから、という理由は言い訳にしかならないのだろう。
「ふうん、でも、あんただけだよ、そんなこと気にしているの。」
「そうかもね。」
笑って誤魔化した。友達は不満そうに口を結ぶ。トンネルを抜け、ビルの灯が電車に広がる。科学技術は進化したが、この息苦しさは、昔と変わらない。
教育実習初日。黒板の前に立つ実習担当の教師は、どこか機械のような滑らかさで話していた。
「マイクロチップは、現代における最も重要な発明の一つです。決済や健康診断、個人情報の管理。これらが一体化したことで、人々の暮らしは大きく変わりました。」
生徒たちは静かに聞いている。黒髪の少女が手を挙げた。
「マイクロチップが人体に悪い影響を与えることはないんですか?」
「基本的にはありません。金属アレルギーなどの個人差はありますが、現在は誰でも装着できるよう改良が進められています。」
淀みのない返答。その答えは、完璧すぎると思った。
「ところで、」
急に、担当の教師が振り返った。
「あなたは確か、マイクロチップの着用をしていないのでしたよね?」
「あ………はい。」
「どうしてですか?」
一瞬、喉が渇いた。生徒の目がこちらに集まる。期待するような、どうでもいいような、見定めるような視線。
「私は、潔癖症なんです。体に何かを入れることが、どうしても苦手で。」
「衛生面の不安ですね。」
「はい、それもあります。けど………」
私は、本音を話した。声が震えていることに、自分でも驚いた。
「それだけじゃなくて、少し、怖いんです。他人が作ったものを、自分の体に入れることが。」
静かだ。換気扇の音だけが聞こえる。
「興味深い意見ですね。」
教師は腕を組みそれだけ言って、授業は再開された。私はノートの端に、知らないうちに線を何本も書いていた。まるで、自分の輪郭を確かめるように。
「先日、世界の全人口が百億人を超えたことが、国際連合により発表されました。これにより、近い未来食料やエネルギーの不足、環境破壊などの問題がさらに加速することが心配されています。」
「日本の高齢化率が四十パーセントを上回りました。政府はこれに危機感を持ち、福祉の支援を進めています。」
「現在欧米との国際関係が緊張を帯びています。米国の大統領は日本への制裁の意思をすでに示しており………。」
本質的な暮らしも、問題も、息苦しさも。昔と変わらない。
私はただ、コップの水を揺らしながら夜のニュースを眺めていた。
現在、世界には様々な問題がある。人口爆発や少子高齢化、戦争。
それらの問題を一発で解決する、最も効率的な方法が、一つだけある。
教育実習を終え、満員電車に揺られていた。高齢者が目を閉じながら椅子に座り、女子高生がその前で苛立たしげにスマートフォンを握っている。私は押しつぶされている。当たり前の日常だった。
「あ。」
隣で誰かが声を上げた。
「あ………」
車内に微かな音が響いた。破裂音だった。赤い、花火。床に赤い液体が、じわりと広がっていく。誰かが悲鳴をあげた。刹那別の場所からも同じ音がした。頸を押さえた人々が、一斉に崩れ落ちていく。赤い花が、夜の車両で次々と咲いた。私はただ、鉄の匂いと共に世界が静まっていくのを見た。
もう戻ることのない命が、夜に弾けた。それは、終わりの始まりのように、ゆっくりと進んでいった。
世界は、静かに壊れていった。ただテレビの画面で語られた数字や警告が、血の匂いに変わることを。誰も想像できなかった。
私が恐れたのは、科学技術が盲目を招き、盲目が殺戮を招いてしまったこと。便利さに慣れた人間は、簡単に盲目になる。そして、盲目は人を、社会を、簡単に傷つける。もうやり直せない。
私は、今日という日を忘れない。そして、祈る。
あなたたちの世界が、明日も続きますように。未来は、ただ待つものではないのだから。
マイクロチップ 蒔文歩 @Ayumi234
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