無限大

真花

無限大

 紺色をキャンバスに塗りたくる。これは自画像で、世界そのもので、だから、僕と世界の接線だ。息をする。僕の中に取り込まれた世界が、僕の魂をなぶる。僕はちっぽけで、ひとりで、どうしようもなくて、首を振って筆を置く。ベッドに転がって天井を見る。僕の命が切れ切れになっている。このままじゃいけない。危機感の向こう側にあるのは僕の消滅だった。毎日のようにこうなる。だから毎日、LFRを聴く。

 LFRはlooking for the rainbowの略で、バンドだ。僕のミュージックプレーヤーにはLFRしか入っていない。それが最大で、最低限だ。LFRを聴いていると僕は最期のときにいるのではないと分かり、血肉がぎゅっと締まり、息が出来る。まるで死の淵からそっと手を引いて生命のある方へと連れ出されるようで、僕の目に光が灯る。恋の歌と夢の歌が多い。夢。僕の夢は淡いものだったものが、LFRの歌に背中を押されて確固たるものになった。僕は今、LFRの歌を聴いて命を繋がれて、夢を思い起こさせられている。

 三曲聴いたら、キャンバスに戻った。紺色の続きを塗る。それから黒。その上に白とか黄色とかを乗せて行く。シルエットに光の陰影が差して、人物が浮かび上がる。その人物は空間に呑まれそうでもあり、消化されそうでもある。それでも抗っている。静かに佇んでいるだけだけど、耐えている。だからまだ全てが紺色にはならない。人物は僕で、だから、人物の中ではLFRの曲がきっと流れている。描いているときには聴かない。聴くと歌の内容が転写されてしまうから。胸の中に曲を貯めて、そのエネルギーを用いて描く。

 書き終えるともう十二時になっていた。明日も学校があるし、放課後には美術系予備校がある。僕の高校生活は描いてばかりだ。それで何も問題はない。問題は併存する不安定さで、もしLFRがなかったら僕も手首を切ったり、グレていたりしたのかも知れない。


 受験をして、美大に入った。自分にとってのいいニュースと釣り合いを取るように悪いニュースが入る。LFRが解散した。理由は分からない。新曲を聴くことはもう二度と出来ないけど、僕にはこれまでの曲があったし、それで僕は十分だったし、驚いたけど彼女らがそうしたいと決めたならそれでいい。それに、これからは夢を現実にしていく段階になったと奮い立っていた。

 大学での日々が始まっても、それで全てがページを捲るようには変わらなかった。世界は僕を蝕もうと毎日のようにして来た。LFRを聴いた。でも、次第に他の音楽も聴くようになった。効果のある音楽もあったし、ないものもあった。

 四年間でたくさんの絵を描いた。でも、一般の事務職に就職した。自分の限界を感じたことと、多分、夢が擦り切れていた。だから絵を描くことをやめた。卒業ではなく、中断、永遠の中断だろう。実家を出て、一人で生活を始めた。仕事は順調だった。僕は普通の顔をして事務をこなして日々を送った。絵を描かないだけで時間と気持ちに隙間が大きく空いた。それを余裕と呼ぶのか、損失と呼ぶのか、決められなかった。日中仕事をしているときには全くなかったけど、夜になれば世界と僕の不安定さがユニゾンすることはままあった。他の音楽を聴いてやり過ごしていた。


 就職して三年目の春にかけて仕事量が異常に多くなり、残業が過労死ラインを越えるようになった。夏までがんばって、業務的危機を抜けた。これからは通常営業だと思った次の日の朝、体が動かなくなった。仕事に行かなくてはいけないのに、どうしようもない。なんとか職場に連絡をしたら、しばらく休むように言われた。しばらくってどれくらいなんだ? この状態は改善するのか? 同時に、精神科への通院を勧められた。うつ病を疑っているのだと言う。でも動けなかったから、部屋にずっといた。食欲が全然なくて、夜は眠れない。そのくせ日中は横になったまま。何もやる気が起きないし、テレビも本も集中して見られない。ずっと弾いていた世界の終焉の侵食に負けたみたいだった。僕はこのまま音もなく死んでいくのだ。とっても惨めなのに、惨めと感じることも上手く出来ない。考えることも。

 次の日両親が来て、実家に連れて行かれた。

 久し振りの自分の部屋はまだ絵の具の匂いがした。僕はベッドに転がって、母親の作った料理を少し食べ、また転がっての日々を繰り返した。外出出来るくらい回復するのに二週間かかって、それから精神科のクリニックに両親に連れられて行った。

 恐ろしく単調な毎日だった。のっぺりとしたクリーム色の毎日だった。僕は絵を描こうとは思わなかったし、多分今は出来ない。それでも少しずつ回復していった。スマホをいじれるし、テレビも見られるようになった。もう冬が近かった。

 スマホを触っていたら、LFRが再結成していると言う記事を見付けた。

 僕の背中がピンと伸びた。

 調べてみるとライブがあって、まだチケットが買えた。僕はずっとLFRをイヤホンで聴いていたけど、一度もライブに行ったことはなかった。僕は療養中の身で、動ける量も少ないし、そんなことはしてはいけない。けど、行くしかない。他人に何と言われようと眉をひそめられようと、このタイミングでの再結成とライブは、僕のためにあるとしか思えない。僕はチケットを取った。それはクリスマスの夜だった。出発しようとする僕に母が心配よりも困ったような顔をする。

「あんた、大丈夫なの?」

「死んでも行かなくちゃいけないんだ」

 僕は電車に乗って、ライブがあるホールまで一人で行った。ホールの前には既に人間がたくさんいて、多分同じ目的で来ていて、でもだからと言って僕は声をかけたりはしない。僕は一人でずっとLFRを聴いて来たし、だから、ここでも一人で聴くんだ。開場まで近くの花壇に座って待つ。楽曲を聴きながら待とうか考えたけどやめた。冷たい風が右から左に吹き抜けて行く。人間が少しずつ増えて、時間が来た。僕は立ち上がりホールに行く。人波になりそうでならない列に並んで、チケットをもぎられて、中に入る。僕が陣取ったのはスタンディングの中腹頃の場所だ。人間がざわざわと音の集合体を作っている。

 電気が落ちて、ざわめきが鎮まる。減った音が全部期待になっている。

 ステージにライトが当たる。

「ただいまー!」

 ヴォーカルのアオちゃんの声。本物の声。その後ろにはLFRのメンバーが、本物のメンバーがいる。

 アオちゃんの声に応じて観衆からワーっと反応が返る。そしてそのまま一曲目が始まった――


 ライブが終わって、観客がぞろぞろと帰って行く。僕は汗だくで、散々声を出して、他の客が出て行くのを目で追っていた。

 ライブには一方的で無限大の愛があった。

 それを全身で浴びて、今僕はここにいる。体に吸収した分から溢れたものが涙になろうとする。だけどそれが流れることを僕は許さない。全部、持って帰る。

 僕は空になったステージを見る。LFRの残像が映る。

 ……生きよう。

 どうにかして、復活するんだ。

 それだけじゃない。僕だって。

 絵だ。僕は、絵を描きたい。


(了)

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