花村沙織の場合(1)
「じゃあ行ってきます!」
「行ってらっしゃい」
「
「もう、それくらいにして。早く出ないと遅刻するわよ?」
「は~い」
ほんと、子どもなんだから。
もうすぐ生まれてくる子の父親になれるのかしら、あの人。
お腹の内側からトントンと叩く小さな衝撃。
生まれてきたら、きっとお転婆な女の子になる気がした。
夫の花村昴太は、29歳。
都内の不動産会社で営業をしている。
妻である沙織も同じ会社で経理をしていたから、出会いは職場だった。
寿退社をして2年半。
今は小さなアパートを借りているが、子どもが生まれたら、マンションを買おうとしていた。
午前中は産婦人科。午後は買い物。
夕方の献立を考えながらキッチンに立っていたらスマホが小さく震えた。
【沙織ゴメン。明日大きな物件任せられて急いで資料作る。夕飯は適当に食べてくるから】
そんなLIMEのメッセージに【無理しないでね。栄養バランスもちゃんと考えて】と返したが、それっきり既読がつかなかった。
その夜、なんとなく眠れなかった。
リビングの明かりを落として、テレビをつけっぱなしにして、ぼんやりと深夜番組を眺めていた。
「あれ? え……ちょっと」
じわり、とした感触。
トイレで確認して、破水だとわかった。
「痛い……昴太、お願い、出て」
何度も電話をかけても、出ない。
スマホのバッテリーが切れて充電中のことがよくある。
「すみません、動けなくて」
「いいえ、じっとしていてください。ご家族は?」
「主人が……仕事で連絡がつかなくて」
救急車で搬送され、少し離れた総合病院へ。
予定より1か月も早く破水したため、帝王切開に切り替えることになった。
手術室に入る前、昴太と母にショートメールを送った。
「残念ですが……」
1時間後、医師の言葉で世界が音を失い、目の前が暗くなった。
夜明け頃、両親が車で駆けつけてくれた。
遠方に住んでいるので、夜通しで車を走らせてきてくれたに違いない。
「何を考えているの? 昴太さんは⁉」
「お母さん、やめて。あの人は家族のために頑張って働いているから」
「でも……」
父は黙って話を聞いてくれた。
興奮していた母もやがて落ち着きを取り戻していった。
「沙織!」
「昴太……遅いよ」
汗でシャツが、ぐしゃぐしゃ。
朝9時を過ぎて、ようやく昴太が病室に飛び込んできた。
「ごめん。汐織が大変な時に……」
──えっ? どういうこと。
最初の言葉が、私への謝罪?
「ねえ? 私達の赤ちゃん……生まれてこなかったんだよ?」
「え? ああ……笑麻がこんなことになるなんて」
なんだろう?
何かがおかしい。
胸の奥に、ねっとりと絡みつくような違和感が残った。
そのあと、両親に散々叱られた昴太は、うつむいて黙っていた。
あまりに落ち込む姿を見ているうちに、気の毒になって「お母さん、もういいから」と夫をかばった。
でも、失った悲しみは想像よりずっと重かった。
夜ごと、悪夢にうなされ、すっかり憔悴しきってしまった。
昴太も落ち込んでいるのか、以前よりも口数が少なく元気がない。
このままじゃダメだ。
ずっと家にいると気持ちが滅入っていく一方。
少しでも前を向きたくて、ふたたび働くことを決めた。
「ねえ、派遣でいいから総務の課長に話してくれない?」
「はぁぁっ⁉」
「え、なに?」
「いや、別に……」
びっくりした。
あんなに大きな声を出した昴太を見るのは初めてだった……。
社員に戻るつもりはない。
ただ、前の職場なら馴染みもあるし、気持ちも切り替えやすいと思っただけ。
別にそこまで驚くほどのことじゃないのに。
それから2週間過ぎたが、彼が話してくれないので、昔の同僚に電話してみた。
「うん、沙織ならみんな喜ぶと思うよ。花村主任が? 特に聞いてないけど」
彼女の計らいで、派遣として復帰が決まった。
忙しくて伝え忘れたのかな?
さっそく昴太に話したところ。
「あっ……そう、なんだ」
それだけ?
喜んでもらえると思ったのに。
彼は耳の後ろを掻いて目をそらす癖がある。
その時は決まって「嘘」をついている証。
──まさか、ね。
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