無垢鳥
誰かが階段を上ってくる音が聞こえた。
「……」
硬い、鉄骨のよく響く音だ。この澄んだ朝の空気には余計に響いた。
「だれ……」
僕はこの音を良く知っていた。鉄骨の階段にローファーがぶつかる音だ。騒がしくなく静か過ぎず、大胆で慎重で、そして丁寧で自信のある足音だった。初めて聞いた時と、まったく変わらない。
「おはよっ!」
そう聞こえて振り向くと同時にペットボトルが投げつけられ、僕は反射的にそれを受け止めた。
「……危ないなあ。落としたらどうするんだよ。ここ、何階だと思ってるんだ」
ペットボトルを足元に置きながら応えた。
「……」
僕が文句を言ってもそいつはニコニコしながらこの一連の動作を眺めてるだけだった。
「……おはよう」
「うんっ!」
僕がそう返すと満足したようにようやく頷いた。
「ここに来る時さあ、誰って、それ毎回聞くよね。こんな朝っぱらにこんなところに来るのなんて私たちしかいないでしょ。実際今までそうだったし」
「うん、まあそうだけど」
手すりの向うのビル街を眺めたまま応えた。
「なんとなく、くせで」
「変なの……。まあ、毎朝こんなところにいる時点で変だけど」
「それはそっちもそうだろ」
僕は足元のペットボトルに再び手を伸ばした。茶色い半透明の液体が満タンに入っている。僕は市販のペットボトルのお茶の味が苦手だった。なんだか甘すぎるような気がして胃がもたれてしまうのだ。
と、何度も公言してるはずなんだがこいつは……。
階段の一番上の段に腰かけている僕は、そいつの顔を見下す形になった。
「飲まないの?それ」
「はあ……、いらない」
こいつは変わらない。まったく。
「なにそのため息」
「いや、もうそんなに経ったんだなと思って」
「ん?」
「とぼけるなよ。もう一年経っただろ」
「あー……、そうだっけ。確かあの時、そんなことも言ったっけかなぁ……」
「……」
こいつはいつも適当な事ばかり言う。その決まりの悪そうな顔も、奔放な態度も、何もかも変わらない。
「ゴメンねー、私、記憶力悪くってさ」
そいつは手すりにもたれながらそう言った。僕はその態勢を見る度に、そのまま落っこちてしまわないだろうかと心配になる。
まあ、でも、こいつならなんの問題もないのか……。
いや、もう、そうしてもいいのか……。
「……いやダメだ」
「え?なに?」
「いや、何でもない」
刹那、湧き上がってきた感情を振りほどくように僕は首を振った。
「君の頭が悪いのは知ってるよ、いつも学校で居残りだったもんな」
「あはは……」
何を笑っているんだか。相変わらず、むかつく。
「それで、今日は何について話すの?」
「え?ああ、そうだな……」
毎朝こうして顔を合わせていると、さすがに僕も話題に困る。
「うーん……、たまにはそっちから話題をふっていほしいんだけど」
そもそも会話って普通こんな始め方しないと思うのだが。だけどいつもこうして何気なく会話をしていれば、自然と話が続くのだから不思議なものだ。
「そんなこと言われても、私ずっとここにいるから話す内容とかないんだけど……」
「そういえば……、ここのことで思い出したんだけど。このビル、もうなくなるらしい」
「えっ!マジ?」
「うん、まじ。先週くらいからなんか工事の看板出てたし」
「……」
ひとしきり驚くと、そいつは顔を外に向けてしばらく黙った。
「…………」
僕も黙ってその様子を眺めていた。表情は見えないけど、少し寂しそうに見える。
いや、僕がそう思いたいだけだというのはわかっている。
そして、もう終わりにしなければならないということもわかっている。さんざん先延ばしにしてきたが、この場所がなくなってしまえば物理的に不可能になる。
「……」
「高校卒業したらさぁ。どうするの?」
「えぇ?うーん……、まだ先のことだしそんな考えてないな」
「先って……、ふふっ。もうすぐでしょ」
途中に挟まった微笑がいやに艶っぽく聞こえた。
「大学に行きたかったんでしょ」
行きたかった、か。
「ああ……、まあね」
なんでここに来てまで進路の話なんかしなくちゃならないんだ。
「ちゃんと考えとかなきゃダメだよ。だって、ここがなくなったらもう私も……」
「いくら話題がないからってお前に説教されたくない」
「人のこと言えないくせに」
「僕はお前と違って勉強はできる方だからな」
「ムカつく……。そういう意味じゃないし……」
手元のペットボトルを弄びながら、僕はそいつの横顔と会話し続けた。
この先のことなど、考えなくていいのだ。今は。
今だけは。
「ねえ、それ飲まないならちょうだいよ」
「いやだ」
「えぇ!なんで?」
「だってもう僕のだし」
「はぁーっ、そうですか……。ていうかなんで飲まないの?」
「飲まないんじゃなくて、飲めないのこれは」
「そんなに嫌いなんだ。一応ストレートティーなんだけどそれ」
そんなことパッケージを見れば分かる。
「……別にいいだろ。お前はいつでも飲めるんだから」
「まーねー。私イチオシのやつね」
そういえば、将来は喫茶店をやりたいとか言っていたな、こいつは。ペットボトルの紅茶をたしなんでいるようでは無理なのでは、とその時は思ったが言わないであげたのだ。
「……そういうお前は進路とか決まってんの?」
「え?」
「ああ、いや……。何でもない」
「……」
再び長い沈黙が流れた。
いや、時間にすれば大した長さではなかったはずだが、それは明らかに僕の落ち度だった。
まったく僕は何を……。
「私はねぇ……、宇宙に行きたい」
「はぁ?」
その奇天烈な一言のせいで、先程の気まずさなど吹き飛んでしまった。
夢ってそういうことじゃないんだけどな。
「私、最初は喫茶店を開きたいなあって思ってたんだけど、ただの喫茶店じゃつまらないでしょ、だから……」
そいつは首を空へ傾けながら言った。乱れぎみの長髪が垂直に地面へ向かった。風になびくそれを眺めながら僕は耳を傾けた。
「だからねぇ、空の向こう側に行ってぇ、そこでお店を開くの」
こいつは……、本当に。
「……」
「そこでねぇ、宇宙を旅する人たちのお話を聞きながら、のんびり過ごすの。ステキでしょ」
「……」
もう……。
「あっ!」
「……なんだよ、急に」
そいつが唐突に声を上げるもんだから、思わずこっちも声を上げて驚くところだった。
「ねえ、あれ見て」
「ん?だからなんだよ」
そいつが指さす先に目を凝らしながら僕はすまし顔で聞き返した。
「ほら、あれだよ……。あそこの空にある」
「はあ……」
僕は重い腰を持ち上げて手すりに肘をかけた。金属の冷たい感触が腕から伝わってくる。そして、錆びのザラザラとした感覚も。
「……なにもないだろ」
目の前に広がってるのはいつもと何一つ変わらない光景だった。都会にひしめく無機質で、ひどくモダンな建物の配列。その隙間にちらつく空の色が少しくすんで見えた。
「なにも……」
言いかけたその時、ちょうど隣接したビルから反射した朝日が目を刺した。
「まぶし……」
それと同時に背中に、「トンっ」とやさしい衝撃が走った。
「うわっ!あぶなっ」
僕は慌てて手すりにしがみついて態勢を立て直した。
「えへへ。びっくりした?」
「お前……っ」
やりすぎだぞ、と文句を言おうと振り返ったが、さっきまでここにいたはずの姿がなかった。
「……」
「こっちだよ」
それは上から聞こえてきた。
「おい……!」
真上を見ると、一つ上の階から身を乗り出してこちら見下ろしているそいつの顔面が覗いた。
「くそっ……」
僕が階段を上り始めると、同時に上の方から階段を上る音が響き始めた。
「おいっ……、待てよ!」
「あっははッ」
そこそこ全力で駆け上がっているつもりだったが、僕はそいつにまったく追いつけなかった。
「くそ……、なんでっ……」
一階……、また一階、……追いつけない。
こんな風にここを駆け上がるのは初めてじゃなかった。
「……」
そう、初めてじゃなかった。
「……」
あの日。
「……」
あの時。
「……」
ちょうどこの場所で、彼女と目が合って。
「……」
もう、絶対に追いつけない速度で。
「あ……」
目の前を通り過ぎていった彼女を。
ここか。
「はぁ……、はぁ……」
また、ここなのか。
こんな終わりなのか。
*
そう。その日はとても良い朝だった。
「あー……」
こんなふうに街の景色を眺めるには。
「あーっ……!」
こんなふうに叫んでみても、澄んだ朝の空気に吸い込まれて消えていった。
「なにやってんだろ、わたし……」
屋上の縁に座って、足をぶらつかせてみても誰も咎めない。
「はぁ……」
この屋上にはフェンスとかの邪魔がなかった。だからこんな真似ができるわけだ。この際、「危ないだろ」なんて野暮な説教はなしだ。都会の景色が間近で一望できるこの特等席が、わたしのお気に入りなのだから。
それに
「……」
このさきの一歩を踏み出す勇気は、わたしにはまだない。
「……よっこいしょっと」
わたしはゆっくりと立ち上がり、制服のスカートをはらった。そろそろ行くか。
そうして階段の一段目を下ろうとしたその時だった。「ガコン」と確かに聞こえた。
「……!」
誰かが階段を上ってきた。
「やばっ……」
誰だろう。警備のひと?いや、今までこのビルでそんなひと見たことないし。どうしよう、変なひと来ちゃったら。傍から見ればわたしも十分変なひとだけど。いやいや、そんなことじゃなくて。ていうかわたしのこれって不法侵入だよね。
などと色々考えながら私はその態勢で数秒間ほど固まっていた。しかし……。
「……?」
先ほど足音が聞こえてから一切音が聞こえなくなった。誰も上って来ない。
「……」
わたしは恐る恐る階段に近づき下を覗いた。そして足音を消して一段ずつゆっくりと下った。
誰かいる。
手すりから身を乗り出して両手を広げている
「だれ……」
わたしと同じ学校の制服の
「何してるの?」
*
「……」
屋上か……。
「やっと追いついた……」
「……」
屋上の隅に彼女の後ろ姿が……、いや、そいつはいた。
「……」
フェンスに指をかけて、その先を見ている。
僕は持っていたペットボトルを足元に置いて、両手を膝につきながら肩で息をした。
「その……」
呼吸を整えながら次に言うべき言葉を探した。
「その、さっきは……、すまなかった」
「……」
微動だにしないその背中に向かって僕は構わず続けた。
「もう、終わりにするなんて無理だ」
「……」
「やっぱり無理だ」
「……」
「ずっとここにいたい」
「……」
「君とずっとここにいたい」
「それは無理だよ」
ようやく振り向いた彼女のその顔は、やっぱり変わっていなかった。
「じゃあなんで助けた?」
「……」
「あの時、僕を」
「……」
一方的に助けて、それで自分は逃げるのかよ、最低だ。
「もうそんなこと言わないから……、だから」
「あのさぁ」
少し語気を強めに言われて、僕は少し驚いた。いや、少しではない。
「……なに?」
何食わぬ顔で聞き返したが、内心は心臓がはねていた。
「ひとつ、聞きたいことがあるんだけど」
彼女が僕の話を遮るのは珍しいことだった。
なんだ?何を言われるんだ?何を僕はこんなに慌てているんだ?
「……」
僕はそれとなく視線をそいつの足元に移した。
「……」
今すぐにでも実行すべきか。
そんな考えが頭をかすった瞬間だった、その質問が放たれたのは。
「あのさ、憶えてる?ここで初めて出会った時のこと」
「え?」
その言葉を聞いた時、質問の意図がわからず僕はフリーズした。
初めて会った時のこと……。
それは一体どのタイミングのことを指しているのだろうか。
あいつと初めて話をした時のことか。それとも彼女と初めてここで出会った時の……。
いや、そうか。
「ああ……」
あいつもわかっていたんだな。彼女がいなくなったその日から、きっと。
「もちろん憶えてるよ」
そう、あの日も同じだった。朝の澄清の中で、雑踏を見下ろして、自由気ままな彼女と。
「いい場所を見つけたと思ったんだけどな。まさか先客が居たとはね。さすがの僕も予想外だったよ。本当に」
「え、どういうこと?わたしと会いたくなかったってこと?」
「ああ、そうだよ」
そうだ、彼女とさえ会わなければ……。
「えー、ひどい」
先ほどとは表情をコロリと変えて、今度は本当に悲しそうな顔をしている。ほんとに良く表情が変わるな、こいつは。こういうところが本当に。
「……でも今日で最後だから」
「ねえ、今のやつで思い出したんだけどさ」
「なに」
「あの、ほら、君の目標、叶ったの?空を飛びたいとかいうの」
「……は?」
なんだそれ。そんな話…………。
「あの日、あなたが―」
言いながらそいつはフェンスから乗り出して叫んだ。
「お、おい。あぶないって……」
「こんなふうにーーーーっっっ!!!!」
その時だった。風が吹いた。
「ほらっ!」
両手を広げて、髪をたなびかせて、まるで……。
「あなたもあの時っ!こうやって……!飛ぼうとしてたでしょ!あっははっ!」
そうだった。
思い出した。
僕はその目標を二度も阻止されたんだ。一度目は彼女に。二度目はこいつに。そして……。
「ごめん」
もう三度目はない。
「お前とはもう一緒にいられない。僕は……」
僕はそいつの背中に両手を添えた。
「やっと決心がついた?」
そしてその手にそっと力を入れた。
*
「何してるの?」
「こうすれば空を飛べるかなと思って……」
「あっははっ!翼もないのに飛べるわけないじゃん」
「チッ……、最悪だ……」
「何が?」
「……」
「じゃあ、わたしがお手本見せてあげようか?」
「……は?いや、お前なにして……」
「あははっ、冗談だよ。やるわけないじゃん。焦りすぎ」
「……クソが」
「……でもこれでわかったでしょ」
「……」
「二度とこんなことしないで」
何してるの?
「……もういいんだ」
なにが?
「死んでも止めに来るとか、ほんとに自分勝手なやつだな」
私に謝ってほしいの?
「謝ってどうすんだよ」
言ったよね。二度とこんなことしないでって
「言ったのはお前じゃない」
じゃあ今私が言うね
「……幻のくせによくしゃべるな」
それ、自分に言ってるの?
「はぁ……。わかったよ」
とりあえず、これでも飲んで落ち着きなよ
「…………甘すぎる」
もう二度とこんなことしないで
*
背中に添えたその手を、僕は離した。
「………………やっぱりできない」
どうして?
「できないものはできないよ」
あの日、この非常階段から飛び立とうとした僕に、いたずらめき笑った純粋なそれは、地上に触れてくすんでしまったのだ。
だから落っこちた。
「……ゴメン」
えっ?なにーっ?
「……噓だよ、あんなの」
風の音でよく聞こえなーいっ!!
「やっぱり僕も君と一緒に……」
ちがうよ?
「え……」
わたしは落ちたんじゃないの。飛んだの、空に。
「……」
僕は眼下の街並みに顔を落とした。豆粒みたいな人の群れがビルの隙間から現れては消えて、流れて進んで、止まって動いた。
たしかにそうかもしれない。
あそこに戻るのは僕だけでいい。
「また君に助けられてしまった」
三度目の正直っていうでしょ。
「はは、たしかに、そうだね」
もうここには来ないでね。約束だよ?
「ああ、うん」
僕はフェンスのもとに跪くと、献花台の傍に持っていたペットボトルを置いた。
「じゃあ、またな……」
中には鉄錆びの混じった茶色い雨水が貯まっていた。
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