陸をはじめて抱いたのは、実家を飛び出して、陸と二人でおんぼろのアパートに転がり込んだ、その晩のことだった。俺は、ただただ怖かった。ずっとずっと、いつからこうなってしまったのか分からないくらいずっと、多分、身体にそう言う機能が備わるよりも前からずっと、俺は陸を抱きたかった。でもその晩、冷たく深い禁忌の意識が、俺の身体の動きを奪っていた。陸は、家具のひとつもない部屋の中、床に敷いたコートの上に座り込んで、買ってきたばかりのコンビニ弁当に箸をつけていた。俺は、陸がそこにいるという事実にさえ怯えて、玄関を入ってすぐの狭い台所に突っ立って、一間きりのフローリングに座る陸を凝視していた。陸は、動じていないように見えた。動じていないというよりは、諦めていたのだと思う。俺に引きずられて、仲が良かった家族とも、たくさんいた友人とも、交際していた恋人とも、全てから隔てられた場所に来てしまったことを。弁当を食べ終わった陸は、空のプラスチック容器と割り箸をコンビニ袋の中に収め、静かに目を上げ、俺を見た。怯えきって、ようやく二人きりになれた陸に触れるどころか、隣に座ることすらできない俺を。ここじゃ駄目、と、陸が俺を拒絶したのが二年前。それから俺は、陸の肌に時々触れてはいた。キスの最中に、どうしても欲情がこらえきれなくて。でも、決定的な行為には及んでいなかった。陸の、薄い腹や平らな胸を撫でるばかりで。それではどうしても足りなくて、陸を抱きたくて、それだけのためにここまで来たのだ。なにもかもを捨てて、陸にも捨てさせて。それなら、部屋に入った瞬間に陸を抱きしめ、そのまま行為に及ぶのが、俺にできるせめてもの誠意の表し方だったのかもしれない。でも、俺にはそれができなかった。背中が凍り付くほどの原始的な恐怖に襲われて。それでただ、アホ同然に立ち尽くしていることしかできない俺に、陸は微笑みかけた。感情がまるでないみたいな、あの微笑。はじめてキスをしたあの雨の夕方、俺に向けた微笑み。いいよ、と、陸が言って、俺は崩れ落ちるみたいに陸の身体を抱きしめた。その一言に、バカみたいに興奮していた。それまで、男を抱いたことはなかった。陸の恋人もいつも当たり前におんなだったから、男に抱かれたことはなかったと思う。お互い勝手なんか分からないし、陸にとっては苦痛なだけの時間だっただろうと思う。それでも陸は、俺の興奮が収まるまで、黙って俺に抱かれていた。

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