石川匠の場合ー存在の侵入ー
29日分の報告書をメールで提出し終えたのは、既に30日になった後だった。
「っ!?」
ようやく眠りにつこうかとする午前一時半。
暗闇が、まるでぬるりとした液体のように、僕の身体にまとわりついてくるのを感じて、僕はびくりと身体を跳ねあがらせた。
湿度を含んだ夜気が部屋じゅうに滞り、吸い込むたびに胸の奥へ冷たい泥水が流れ込んでいくようで、肺の重さに呼吸がつまずく。
布団の中で膝を抱え、僕は浅く震える息をひとつ吐いた。
呼吸を整えようと意識するほど、耳の奥に冷たい波が押し寄せてくる。
ぼう……っとした音とも気配ともつかないものが、内側からゆっくり満ちてきて、思考と感覚の境界を曖昧にしていく。
そして──。
『……ここにいる……』
声がした。
低く、かすかに。しかし否定できないほどはっきりと。
壁でも天井でも窓でもない。
音の出どころを探すまでもなく分かる。
視界の中央──暗闇そのものの中心から、直接僕の脳の内側に向けて発せられたような、そんな声だった。
「っ……」
条件反射で耳を塞いだ。
だが掌は何も遮ってはくれなかった。
『ここに、いる』
音はするりと皮膚をすり抜け、頭蓋骨の奥でぬめるように響く。
耳で聞いているのではない、と理解するよりも前に、身体の芯がそれを悟ってしまう。
その時、床に落ちていたスマホが突然光を灯した。
真っ暗な部屋の中で、青白い液晶の光だけがまぶしく目を刺激する。
見ればまた、録音アプリが勝手に起動していた。
赤い録音中の丸いアイコンが、まるで心臓の鼓動のように一艇の速度で明滅している。
触れてもいないのに、画面上の何かが滑り、アプリを操作していく。
アイコンが押され、音量が上がり、再生ボタンがゆっくり押し込まれた。
次の瞬間、スピーカーから流れた声に、僕は呼吸を止めた。
『開けて……ねえ、開けて……』
「え…………?」
聞き覚えのある声。
僕自身の声だった。
録音された声というより、まるで今、この瞬間の僕の喉を通して発せられたような……妙に生々しい声質。
いや──、違う。
気づかなければいいのに、気づいてしまった。
これは録音の再生じゃない。
“再生しているふり”をしながら、何かが僕の声を模倣しているんだ。
「僕の声が……勝手に……?」
思わず自身の喉に両手を添える。
自分の声が外側から勝手に鳴るということは、“僕”と呼んでいるはずの内部の何かが、すでに外に流れ出しているということだ。
指先に力が入らない。
布団を握っているはずの手の感覚が遠のき、身体が硬い殻のように固まって動けない。
すると、視界の端で黒いものがゆっくりと動いた。
「!?」
──部屋の中央に、“影”が立っていた。
僕のほうへ顔を向けている。
その目線は、布団にうずくまる僕の高さとほぼ同じ。
闇に沈む輪郭のなかに、じわりと人の顔が浮かび上がる。
田島さん──。
僕の知っている田島さんの顔。そのままだ。
笑っている。
優しい笑顔を装った、どこか柔らかいけれど、人間の温度から少しだけ外れたような笑み。
僕の中の田島さんは、何か思い悩んでいるかのように深刻な顔しか見せなかったように思うが、笑うとこんなにも穏やかな表情だったんだろうな、なんて思う。
『聞こえてる? ねえ……』
その表情が“模倣”ではないと直感する。
目の揺れ、口角の上げ方、眉の微細な動き。
笑っているように見せかけて、少しずつ“ズレ”を感じる。
まるで僕の脳の奥底を覗き込み、そこに残っていた田島さんのイメージをコピーしながら、無理に笑おうとしているかのよう。
影は、音もなく近づいてくる。
足音はしない。
それでも床がかすかに沈むように揺れる。
重さがあるのか無いのか分からない存在が、確かに床に触れている。
僕は目を逸らせない。
身体が布団に縫い付けられたかのように動けない。
『おいで』
優しい声。
その優しさが、まるで足元に広がる深い水面に誘い込む囁きのようで、甘さと恐怖が一体になって胸を締めつける。
僕は声にならない叫びを心の中であげた。
“これは……現実か、録音か……、それとも夢なのか……?”
「!?」
ふと見れば、スマホの画面に、僕の姿が映っていた。
しかしそこに映る“僕”は、今の僕の動きとはまったく違っていた。
画面の中の僕は、身を縮める代わりに、ゆっくりと指を伸ばし、録音停止のボタンへ触れようとしている。
だが、触れない。
触れる寸前で影の動きと連動するかのように、指が引き戻されてしまう。
まるで現実と画面が鏡合わせになり、本当の僕の“主導権”だけが画面側に奪われているかのようだ。
“僕の身体は……もう僕のものじゃない……?”
影が布団に指をかけた。
布団がゆっくり、慎重に持ち上げられる。
冷たい空気が肌を撫で、鳥肌が波打って広がる。
スマホの録音から、一斉に声が溢れだした。
『助けて』
『出して』
『返して』
田島さんの声。
僕自身の声。
そして、影の声。
三つが混ざり合い、誰が誰なのか区別できないほどに重なって響く。
身体が限界を迎えたように、僕は布団ごと床へ倒れ込んだ。
次の瞬間、部屋の照明が一瞬だけ点灯し、壁に鋭く影が跳ねる。
光が消える直前、僕は見てしまった。
床に映る影は──三つあった。
現実の僕。
スマホの中の僕。
そして、影。
三体が同じ形で、同じ速度で、まるで同じ存在であるかのように動いている。
コピーとオリジナルの区別が、すでにどこにもない。
呼吸が乱れ、鼓動が耳鳴りと混ざり合い、世界の輪郭が液体のように溶けていく。
『田島さん、聞こえてる?』
その声が頭の奥に直接落ちてきた瞬間、僕ははっきり理解した。
──僕はもう、この部屋で一人ではない。
そして、理解してはいけない次の感覚が、胸の底からゆっくりのぼってくる。
この影は、僕の意志では消えない。
僕はすでに……この部屋の一部になりつつあるのかもしれない……。
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