君と、ひとつの傘の中で。

神田 双月

君と、ひとつの傘の中で。

 六月の放課後。

 校舎の外は、まるで世界が溶けるみたいな雨だった。


 「……最悪だ。傘、忘れた」


 僕――**橘悠(たちばな・ゆう)**は、下駄箱の前で立ち尽くした。

 朝は晴れてたんだ。天気予報、信じて損した。


 鞄の中を探しても、折り畳み傘の影も形もない。

 どうするかと溜め息をついたそのとき。


 「悠、また傘忘れたの?」


 明るい声が後ろから聞こえた。

 振り向くと、そこには**幼なじみの結城紗菜(ゆうき・さな)**が立っていた。

 肩までの髪に小さなピンを留めた、どこにでもいそうな女の子。

 でも、僕にとってはずっと特別だった。


 「……“また”って言うなよ」


 「去年も梅雨のとき三回忘れてたよね?」


 「細かく覚えてんな」


 「学習しない悠が悪い」


 そう言って、紗菜はくすっと笑った。

 その笑顔を見ると、どんなに憂鬱な雨でも少しだけ明るくなる気がした。


 「はい、仕方ないから一緒に入ってあげる」


 彼女はそう言って、ピンクの傘を開いた。

 ……予想以上に小さい。


 「お前、それ子ども用か?」


 「かわいいでしょ? お気に入りなの」


 「いや、これじゃ肩半分ずつしか入れねぇよ」


 「なら、もうちょっと寄って」


 「えっ」


 気づけば、紗菜の肩が僕の腕に触れた。

 シャンプーの匂いが、雨の中でふわりと混ざる。


 「……なに緊張してんの?」


 「別に」


 「顔、赤い」


 「気のせい」


 「ふーん」


 そんな軽口を交わしながら、二人でゆっくりと歩き出した。


 ***


 駅までの道は、傘の外で雨が踊っていた。

 アスファルトに跳ねる水滴の音が、心臓の鼓動と重なって聞こえる。


 「ねぇ悠」


 「ん?」


 「中学のとき、覚えてる?」


 「どの話だよ」


 「ほら、体育祭のあと。雨降ってきて、二人で校舎裏で雨宿りしたじゃん」


 「ああ、あれな。……お前、びしょ濡れで笑ってたやつ」


 「そう、それ。それが最初の“相合傘”だったんだよ」


 「は? あれ傘なかっただろ」


 「心の中でさ。あのとき、私、思ったの」


 「……なにを?」


 「“この人といたら、どんな雨でも平気だな”って」


 唐突にそんなことを言うから、思わず立ち止まってしまった。

 雨音が、一瞬だけ遠のいた気がした。


 「な、なんだよ急に」


 「別に。今も同じこと思ってただけ」


 紗菜は軽く笑って、傘の角度を直した。

 その横顔が、街灯の光に照らされて少し赤く見えた。


 「……お前、ずるいよな」


 「え?」


 「そういうこと言われたら、勘違いする」


 「……してもいいよ」


 その一言に、心臓が跳ねた。

 言葉が喉の奥で止まる。


 紗菜は少し俯いて、傘の端をいじっていた。

 耳まで真っ赤だ。


 「……紗菜」


 「なに?」


 「来週、また雨降るらしい」


 「へぇ」


 「そのときも、一緒に帰ろう」


 「……うん。今度は、もうちょっと大きい傘でね」


 紗菜は顔を上げて、少し照れくさそうに笑った。

 雨音がまた強くなり、傘の中が少しだけ狭く感じた。


 でも、不思議と嫌じゃなかった。


 ***


 家の前まで送ると、紗菜が振り返った。


 「ねぇ悠」


 「ん?」


 「“また”って言ったの、訂正していい?」


 「なんで?」


 「だって――」


 紗菜は少し恥ずかしそうに言った。


 「“また”じゃなくて、“これからも”だから」


 その言葉に、返す言葉が見つからなかった。

 ただ頷くと、彼女は満足そうに笑った。


 「じゃあね、悠。また明日」


 傘を閉じた瞬間、雨の粒が髪に落ちた。

 彼女が家の中に消えたあとも、僕はしばらくその場に立ち尽くしていた。


 ――雨の中なのに、なぜか心は晴れていた。

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君と、ひとつの傘の中で。 神田 双月 @mantistakesawa

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