記憶ファイル105894 香坂千華

@noa_0410

「千華さん、香坂千華さん、見えてますか?」


白い病室の天井、看護師の声、消毒の匂い。

香坂千華には18になる以前の記憶がない。


香坂千華にとって、これが一番古い記憶となる。


千華と呼ばれた女は目を瞬いて、視線だけを動かして声の主を見た。

看護師は心底嬉しそうな笑みを浮かべて女を見ていた。


ああ、やっと目を覚ましたのね、よかった、千華さん、あなた、まるまる一週間も寝ていたのよ。


「ち、か…? ちか」


うまく回らない呂律を無理やり動かして発音する。

女はぼんやりと天井を見つめる。


「千華」




千華が退院を果たしたのは、それから1ヶ月後のことである。


「ここが…」


大きな屋敷を見上げて、千華は息を吐いて自分を見下ろす。


水色のワンピースに、つばの広い麦わら帽子。

上品な紺色のリボンがあちらこちら施されている。


千華の白い肌によく似合っていた。


千華が記憶を失う前、唯一持っていた手荷物に入っていたものだと看護師に説明を受けた。

誰かからもらったのか、自分で買ったのか。

どうやら手作りのものらしく、でもそれにしては上質なでき具合だった。


半袖のワンピースは初夏にふさわしく、しかし千華には少し肌寒く感じた。

視線を伏せて、どこか物憂げに彷徨わせる。


「香坂千華様で間違いはないでしょうか?」


きっちりと前髪をあげた男に話しかけられて、驚いたように顔を上げる。


「えぇ、はい…」

「初めまして。奥様から千華様の案内をするようにと言付かっております。綾部弓弦と申します。以後お見知り置きを」


歯を見せて爽やかに笑う弓弦に、千華も不器用に口角をあげた。

記憶にある限り、それが千華の初めて見せた笑顔だった。


看護師にいくら笑いかけられても、医者にいくら励まされても、ピクリとも反応しなかった千華の表情筋は、弓弦という男によって初めて動かされる。


壊れた機械がたまに習性を思い出して起こしてしまう誤作動によく似ている。

どこか滑稽で、でもその時間が如何に長かったか、思い知らされる。


「千華と申します」


麦わら帽子を取ると、艶やかな黒髪が太陽に晒されて、風にさらわれる。


「本日から、お世話になります」


弓弦は少し驚いたように瞠目して、そのままの笑顔で笑った。


「ええ、それではご案内致しますね。千華様」






「使用人は本邸とは別の寮で暮らすことになります。風呂は大風呂をお使いください。鍵はこちらです」

「はい」


こちらが千華様のお部屋となります、と小さな部屋に案内された。

シングルベッドのわきにサイドテーブルがあって、手前の方に作業の机があった。


「ありがとうございます」


千華が小さく頭を下げると、弓弦はふんわりとした微笑みを浮かべた。


「いえ、お構いなく。これから本邸のほうをご案内させていただきます。」

「はい」


持ってきたトランクを部屋の隅に置いて、大きなつばの麦わら帽子はサイドテーブルに置いた。

大きな窓からは遠くに水平線が見えた。


「いい景色でしょう。一番端の部屋だけみえる景色です。まぁその分、入口からは一番離れているのですが…」


千華の黒曜の瞳に真っ青な海が映る。


「ええ、きれいですね」


サイドテーブルに置いた帽子をまた手にとって、窓のそばを離れる。

さっきもらったばかりの鍵で扉を締めて、それを胸のポケットにしまう。


「千華様は今までどちらに?」

「病院にいました」

「…なにか病気を?」

「事故に遭い頭をひどく打ったらしく、記憶をなくしました。気づいたら病院にいたので、それ以前の私がどこにいたのか、私は知りません」

「ああ、それで時館家に」

「はい。両親の記憶を見たくて」

「なるほど」


弓弦は考え込むように顎に手をつけた。

とてもゆったりとした仕草だった。


寮から本邸までの間、一度外にでなくてはならない。

眩しい日差しに目を細めて、千華は麦わら帽子を被り直した。


「あの、綾部さん」

「弓弦で構いません。これから同僚になるのですから。敬語も要りませんよ」

「…では、弓弦さんと呼ばせていただきます。私も千華と読んでください」

「はい。なんですか? 千華」


お互いに敬語は取らなかった。


「この家で、私はどんな仕事をすればいいのでしょうか?」


千華が首を傾げて、尋ねる。


「記憶の管理、主人である奥様のお世話、そして屋敷の清掃が主な仕事になります」

「なるほど…」

「はい。千華には記憶の管理の仕事が与えられるのではないでしょうか。人が足りないと執事がぼやいておられたので」


弓弦は微笑みを絶やさない。

つられたのか、千華も口角を上げて話す。


本邸についた。

食堂やキッチン、使用人用の休憩室を案内され、次は奥様にご挨拶をと奥の部屋へ向かう。


「執事?」

「はい。我々使用人を統括する者を執事と呼びます。庭師、料理人、家政婦…ここにはたくさんの使用人がいますから」

「弓弦さんはどれなのですか?」


記憶にある限り、千華が人に興味を抱いたのもこれが初めてのことであった。

これまですべての事象を景色として捉えていた千華の瞳は、初めて弓弦を人間として捉えていた。


「俺の家系は代々執事として時館家に仕えています。今は祖父が執事で、それは兄が継ぐ予定なので、俺には事務の仕事が与えられています」

「事務?」

「主に記憶についての問い合わせを承っています」

「じゃあ、あの電話は…」

「はい。千華からの電話を承ったのも俺です」


千華の記憶で、出会った人間の数は多くない。

なんていったって、たった一ヶ月分の記憶であり、その殆どを病院で過ごした。

ここに来るのだって、良くしてくれた看護師に車で送ってもらったのだ。


「つきました。こちらが奥様の執務室となります」


扉の端には花の装飾が施されていた。紫苑の花。

弓弦がコンコンとノックをして中に声をかけると、中から返事があった。


ガチャリと弓弦が扉を開けて、中に入る。


「失礼いたします」

「ごめんなさい、手短にしてもらえる? 会食があるから、あと少しで出ないと…」


千華とそう年の変わらない女だった。

おっとりとした雰囲気の瞳に紫苑が咲いている。


紫色の落ち着いた色合いの着物に、紺色の袴。

真っ白な上着に施されたレースが若々しさを出している。

水色の涼しげな耳飾りがちりんと揺れる。


いくつもの書類に囲まれて、物凄い速度でノートパソコンに何かを打ち込んでいる。

千華に気づくと手を止めて顔をあげ、目を細めて微笑んだ。


「長くはかかりません。新しい使用人を紹介致します」

「あら、新入りさん?」

「ええ、所属はこれから執事に尋ねてまいります」

「おそらく記憶の管理でしょうね。先代から管理していた者が隠居してしまったばかりなの。弓弦、よくしてやりなさい」

「かしこまりました。これから執事に挨拶を…」

「ああ、ごめんなさい。執事は今日会食に連れて行くわ。遠出になるの。帰りは明日になるから、リオに挨拶をしてくれたらそれでいいわ。」

「旦那様に? よろしいのですか?」

「あの子は知らない人が苦手なの、紹介してあげて? きっと懐くと思うわ。執事には私から伝えておく」

「ご厚意に感謝いたします」


弓弦が頭を下げたのに合わせて千華も頭を下げた。

なにか言おうと口を開きかけて、後ろから聞こえた声にそれを閉じた。


「奥様、そろそろお時間です」

「今行くわ。それじゃあまたね、可愛いお嬢さん。弓弦も」

「はい」


さっさと歩いて行ってしまった女の後ろ姿をぼんやりと眺める。


「一言も喋れませんでした」


千華がぽつりと言うと、弓弦は苦笑した。


「忙しい方ですから。紹介が遅れてしまいました。あちらが我らが当主、時館紫苑様にあらせられます」

「随分とお若くあらせられるのですね」

「ええ、今年で二十一になられます。そして今奥様を呼びに来た者が執事である俺の祖父です」


紫苑が角を曲がるまでその後ろ姿を眺めていた千華は、手持ち無沙汰に麦わら帽子をくるくると回す。


「さて、旦那様にご挨拶に行きましょうか」

「旦那様? 奥様はご結婚なさっているのですか?」

「はい。つい先日届けを出しました。来月式を上げる予定です。…、少し変わった方でして、どうか気を悪くされませんよう」

「変わった方…」

「ええ、千華なら大丈夫だと思います。奥様もそう判断されたようですし」


先へと歩を進める弓弦に付いていく。


「旦那様のお名前は時館理緒様といいます。今年十八になられます。千華と同い年ですね」

「ええ」


千華は曖昧に微笑んで頷いた。


「弓弦さんはおいくつですか?」

「奥様の一つ下で、先月二十歳になりました」

「じゃあ、もう…」

「ええ、他者の記憶を見ることができます。それなりの代償もあるので、俺は今のところ予定してませんが」

「代償…」

「ええ、お金ももちろんかかりますし、寿命も取られてしまうので」

「へぇ…」


千華は驚いたように瞠目して応えた。


「つきました。こちらが旦那様のお部屋になります」


こんこん、とノックをしても、中から返事はなかった。

弓弦が困ったように苦笑する。


「旦那様、綾部です」


入っていいよ、とくぐもった声が聞こえた。


「失礼いたします」


ドアを開けて弓弦とともに部屋に入る。

絵の具の匂いがふわりと香る。


寝室も兼ねているのか、大きなベッドもある。

人影がなかったので、千華はきょろきょろとあたりと見渡した。


「旦那様、絵を描くならばアトリエでと…」

「すぐ、終わるよ」


ベッドの奥の方から声が聞こえて、弓弦は困ったように笑った。

どうやら声の主はベッドと窓の隙間で絵を書いているらしい。

ぴょこぴょこと揺れる頭が少しだけ見えた。


「新しい使用人を紹介します。香坂千華さんです」

「…」


ベッドの向こうに色素の薄い瞳が見えた。

髪も茶色く、全体的に色素が薄くてぼんやりしている。


「知らない人?」

「はい。旦那様、こちらに来てくださいますか。ご挨拶を」

「理緒でいいよ…、旦那様って呼ばないで…」

「そういうわけには参りません」

「それ、何度も聞いた」

「ええ、何度もお伝えしました」


もぞもぞと布団をかぶったまま、美しい青年が千華の前に立った。

長い睫毛に縁取られた大きな瞳が千華を捉えて、困ったように彷徨う。


「和久井理緒です」

「旦那様!」

「ぁ…、時舘理緒です。しぃちゃんの夫で、画家です」


千華は首を傾げる。


「しぃちゃん?」

「ああ、奥様のことでございます。旦那様、外の人に奥様のことを紹介するのなら、紫苑と呼ぶようにしましょう。伝わりませんので」

「そう、わかった」


すぐに弓弦がフォローを入れてくれる。

困った顔をしているものの、ため息は吐かない。


「香坂千華と申します。よろしくお願いいたします」


千華が軽く頭を下げて、理緒への挨拶は終わった。

扉をでてほっと息をついた千華に、弓弦が頑張りましたねと笑った。


「今日はここまでです。寮までの道は…」

「覚えてます」

「そうですか。ごゆるりとお休みになって、明日の朝5時に本館にお越しください」

「わかりました」


ぺこりと頭を下げて、千華は寮に戻った。

風呂に入って、艶やかな黒髪を適当に拭いて、ベッドに倒れ込む。


「…つかれた」


目を閉じて、泥沼にのまれるように眠った。


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