夜が更け、熊はついに自宅へと帰る決意を固めた。時間感覚など失って久しいが、日没から相当離れているものの夜明けには遠い、そのくらいの時間であるという確信が彼にはあった。月も、いつのまにかどこかへ消えてしまっている。


 熊は慎重に森林公園の茂みから遊歩道へと出た。そしてトボトボと彼は山を下りて行く。


 公園を出る直前、通りがかった四阿に、スーツ姿の女が座っていた。ロング缶を側に置いて虚な目でスマートフォンを見つめていた彼女は、闇の中に立つ熊を発見した。しかし悲鳴は上げなかった。


「熊に殺されたら、それはそれでおもしろい結末かしら」


 と、ある種の諦観を孕んだ声音で彼女は呟いた。女はスーツの前ボタンを外して立ち上がった。


「くまさん、ひと思いに、どうぞ。痛めつけてくれたって構わないわ。むしろそうしてくれた方がいいのかも」


 と女は少しだけ笑った。ワイシャツのボタンを外してはだけさせ、両手を広げた彼女は少し顎を上げながら目を閉じた。


「あぁ、でも……ふふっ、わたしのせいで、人の味を覚えてしまったら、きっと大変なことになるわね」


 徐に女に近づいた熊は、目敏くも、彼女が少し震えていることに気づいた。目を閉じて、肉体の全てを運命に委ねたる女は、それでも密かに、静かに震えていた。


 街灯から聞こえるノイズがやけに大きい。周囲の虫の声が掻き消されるようだ。


 熊が、その口元を女の耳元へと近づけると蜂蜜のような甘い匂いがした。香水か、ヘアオイルか。熊にそのような知識はなかった。


「あ、あのぅ……僕人間なんです」


 女は、この公園に来てから初めて驚いた顔をして、その場から飛び退いた。


「友達に着ぐるみを着せられて、あ、着たのは僕の意思なんですけど、それで、脱げなくなってしまって、近隣の方に通報されて、警察に撃ち殺されると思ってずっと逃げてたんです」


 と熊は語った。女は目を見開いて、口をぱくぱく動かしている。しかし言葉は出なかった。


「あの、被り物を外して貰えませんか?それと背中のチャックも……この手じゃ、一人でどうにもできないんです」


 熊は、礼儀正しくお辞儀をした。その様子がおかしかったのか、女は、風船の空気が抜けるみたいに、突然大声で笑い出した。


「あなたっ……着ぐるみが……脱げなくなっちゃったのっ……?」


 ひとしきり笑ったあと、それでも堪えきれぬ笑いを漏らしながら、女は熊にそう訊ねた。


「はい、ずっとこの山に隠れていたんです……」


 ひぃーとお腹を抑えながら、また女は笑った。目尻の雫を指先で拭ってから、彼女はワイシャツの襟を正した。


「分かったわ。ちょっと屈んで、見せて」


 女は、熊の首元を観察した。


「指、入れるわね……」


 と低く囁いて、女は熊の頭を胸に抱え込むようにしながら両側の首元に細い指先を差し込んだ。そして何かを掴んだかと思うとぐりぐりと捻った。


「だいじょうぶ……?痛くは、ないかしら?」


「大丈夫です」


「そう……なら、このまま続けるわね……?」


「なんなんですかその言い方」


 女は彼の問いに答えなかった。


 手の位置を変えたりしながら、女はついに熊の頭を引っこ抜いた。


「あぁっ!ありがとうございます!」


 青年は、久方ぶりに開けた自身の視界に感激しながら礼を言った。


「……美女と野獣ってこんな感じかしら」


「なんのことです?」


 女は彼の問いに答えず、彼の頬を撫でた。冷たい指だなと、青年は思った。しかし外気も同じくらい冷たく感じた。着ぐるみを着ていては感じなかった寒さだ。


「チャックも下ろしてあげる」


 今度は彼の耳元で、そのように囁いた。


「だからなんなんですかさっきからその言い方」


 と問いかける彼を無視して彼女は背中のチャックを下ろした。着ぐるみを上半身だけ脱がせてみると、青年の服は彼の汗によってぐっしょり濡れていた。


「あぁーすっきりした。ようやく解放されました。ありがとうございます」


「寒くない?」


「このくらいなら、我慢してうちに帰ります」


「そ」


 女は四阿の椅子に置いていたロング缶を徐に持ち上げて口をつけた。


「もう夜遅いから、子供は早く帰りなさい」


「は、はい。本当にありがとうございました。……お姉さんは帰らないんですか?」


「……そうね、わたしも帰らなきゃ」


 彼は体の前で熊の上半身と頭を抱えながら家路を急いだ。女もまた、空き缶を公園のゴミ箱に捨ててから、一度だけため息をついて自宅へと帰っていった。


 ただ、それだけの話である。

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ハロウィンのコスプレで熊の着ぐるみを着たら脱げなくなった件 山木 元春 @Yamaki_Motoharu

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