兵士が去って十分ほど経った。公園には熊が一人、取り残されていた。


「悪い、腹クソいてぇからトイレ行ってくる」


 と告げたカウボーイが腹をギュルギュル鳴らしながら公園のトイレに駆け込んでしまったのだ。熊は状況を楽観視していた。いや、相当に思慮深い人間でもない限り誰であってもこの状況を深刻に考えたりはしないだろう。彼は公園のトイレの前でカウボーイを待ちながら立ち尽くしていた。ここ数日で急に寒くなったな、などと考えながら。


 夕飯の買い物をしに、主婦が通りがかったのは時間帯からして当然であった。時刻は十七時過ぎ。日が落ちるのが随分早くなったとはいえ、辺りはまだ十分に明るかった。彼女は公園に仁王立ちする熊を目撃した。


「きゃああああああああ!!!」


 鳥の鳴き声くらいしか聞こえなかった閑静な住宅街に突如事件性を孕んだ悲鳴が響き渡った。熊は驚いて、主婦の方を見た。主婦は彼を見つめて、口元を手のひらで隠しながら震えていた。


「あ……あの!待って!違うんです!これ、着ぐるみなんです!」


 と彼は叫んだが、声は着ぐるみの中にくぐもり、主婦には届かなかった。主婦は既に背を向けて駆け出していた。そこで運悪く、彼の耳にパトカーのサイレンが聞こえてきた。無論、彼……熊の通報を受けて出動したのではない。帰宅ラッシュの幹線道路を避けるために、この住宅街の中にある三十キロ制限道路を六十キロで駆け抜けた愚かな車がいてそれを取り締まろうとしているだけなのだ。しかし彼はそのサイレンによって完全に気が動転してしまった。自分を撃ち殺すために警察が来たのだと、信じ込み、そして次の瞬間には逃げ出していた。


 熊の姿のまま、彼は住宅街を駆け出した。主婦の悲鳴を耳にした近隣住民がベランダや窓から顔を出して自分を見ているような気がした。


 彼は小心者だった。具体的にいうと彼は、兵士の彼のことを苦手としていたが、苦手としている自分自身の性格が悪いのだと、自身を嫌っていた。だって兵士は、パーティーに着ていく服のない自分に立派な着ぐるみを用意してくれるほど親切なのだから。そんな彼と話すのを薄っすら嫌だと感じる自分の性格が、駄目なのだ。何事も、悪いのは、何かに対して嫌だと感じてしまう自分なのである、と彼は考えていた。だから、彼は逃げ出してしまった。警察が来たとしても、落ち着いて事情を話せば撃ち殺されることはないはずだ。じきにトイレからカウボーイが出てきて、彼を擁護してくれるはずなのだ。しかし平静さを欠いていた。彼は自分への自信のなさゆえに、見つかったらおしまいだと思ってしまった。現に、見知らぬ主婦を仰天させ悲鳴を上げさせてしまった。その一点において自分は間違いなく加害者なのだ。悲鳴を聞きつけた近隣住民から、よってたかって棒で突かれたとしても、文句を言う権利はない。彼が棒で突かれないためには逃げるしかなかった。


 彼は動きにくい着ぐるみ姿とは思えないほど素早く、住宅街を駆け抜けた。視界が狭いせいで何回も転んだ。四つん這いになったりしながら彼は走り続けた。途中すれ違った何人かの人々は、尻餅をつき、悲鳴を上げた。本当に警察が彼のために出動するのも時間の問題であろう。


 彼はどうにか、幹線道路を避けながら辿り着くことのできる、ある森林公園を目指した。尤も、辿り着いたところで、彼に何か妙案があるわけでもなかった。

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