落下教が滅んだその日、

U木槌

 私の記憶はいつも落ちる途中で途切れている。


 正確に言えば記憶があるのは落下の感覚だけで、いつから落ち始めたのか、何から落ちているのか、そして、これが一番奇妙なのだが、地面に激突した記憶が一度もないのだ。


 目覚めるといつも狭い石造りの部屋のベッドの上。窓のない壁に囲まれて天井から垂れ下がる蝋燭ろうそくの炎だけが私という存在を照らしている。


 今日もまた落下の夢で目覚めた。

 喉の奥に風の味が残っている。酸っぱくて、少し鉄のような——それが本当に風の味なのか、それとも恐怖の味なのか私にはもう区別がつかない。


「おはよう、兄弟」


 扉の向こうから声がした。ノックはない。彼らは決してノックをしない。なぜならこの部屋は私のものではないからだ。より正確に言えば、私という人間も、この部屋も、そして彼らも、すべて「落下教」というもっと大きな何かの所有物だった——昨日までは。


 「入って」と私は答える。声がいつもより少しだけ震えていることに気づく。

 扉が開いて灰色のローブを着た男が入ってきた。顔は見えない。彼らはいつも顔を見せない。フードの奥にただ暗闇だけがある。時々その暗闇が笑っているような気がする。


「準備はいいかい?」


「何の準備?」


 問いかけは喉の奥で空回りした。男は答えない。代わりに手に持った何かを差し出す。それは羽根だった。一枚の白い鳥の羽根。付け根のところにまだ血が滲んでいる。


「飲み込むんだ」


 男は言った。

 私の手が勝手に伸びる。羽根を受け取る。指先に生温かい湿り気が伝わってくる。吐き気がする。でも吐き気がするのは羽根のせいじゃない——私の体が知っているのだ。これから何が起こるのかを。記憶にはないはずなのに体が知っている。


「教団が滅んだって、本当?」


 私は尋ねた。昨夜、壁の向こうから聞こえてきた悲鳴と、それに続く沈黙のことを思い出しながら。

 男のフードがわずかに揺れた。それが頷きなのか、それとも笑いなのか判別できない。


「滅んだよ。だから、君は自由だ」


 自由——その言葉が、まるで異国の言語のように耳に響いた。意味は分かる。でも感覚としては何も理解できない。


「自由ってどういう意味?」


「好きなだけ落ちられるってことさ」


 男はそう言ってくるりと背を向けた。扉の外へ歩いていく。その背中に私は声をかける。


「待って。……教団が滅んだならあなたは何者なの?」


 男の足がぴたりと止まった。


 長い沈黙。

 やがてフードの奥から声が漏れた。


「君と同じだよ。落ちることしかできない哀れな鳥さ」


 扉が閉まる音。

 私は手の中の羽根を見つめた。血の染みがまるで地図のように複雑な模様を描いている。どこかへの道筋を示しているような……いや、違う。これは道筋じゃない。これは落ちた場所の記録だ。


 窓のない部屋で私は羽根を口に運んだ。

 歯が繊維を噛み砕く。喉がそれを飲み込もうと蠕動ぜんどうする。味はなかった……いや、味はあった。それは風の味だった。酸っぱくて、少し鉄のような。


 そして部屋の床が消えた。


 いや、消えたのは床じゃない。私の足が床を踏む感覚を忘れたのだ。重力が突然、向きを変えた。天井が下へ、床が上へ。蝋燭ろうそくの炎だけが、相変わらず同じ方向を向いて燃えている。つまり狂ったのは世界ではなく私だ。


 落下が始まった。


 部屋の中で私は落ち続けた。天井に向かって、それとも床に向かって——もう分からない。ただ風の感覚だけがあって、体が浮いていて、でも何にもぶつからなくて。


 そして気づく。

 この部屋にはもう誰もいない。


 落下教は滅んだ。

 では、なぜ私はまだ落ちているのだろう?

 そして、なぜ私は落下をやめようとしないのだろう?

 蝋燭ろうそくの炎が揺れた。それとも揺れたのは私の視界だろうか。

 暗闇がゆっくりとフードのように私を包み始めた。

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