アンパンマンの聖戦

@Daihuku_

第1話

飢餓の影は、アンパンマンワールドの空に不吉な紫を刷き、かつて歓喜の象徴であったパン工場の煙突も、今はただ冷たく、人々の希望を吸い込む黒い穴と化していた。永きにわたる不作と、宿敵バイキンマンによる破壊の飽くなき反復は、この地に根源的な飢餓をもたらし、ジャムおじさんの老いたる腕も力尽き、蓄えは砂粒のごとく消滅した。市民たちは、光を失った瞳で互いを見つめ、僅かな食料の残滓を巡って、人間の尊厳を失った獣の如く争う有様であった。アンパンマンは、餓死寸前の子の前に立ち、己の全身を苛む無力感に震えた。「愛と献身の正義が、眼前の飢餓を救えぬとあって、いかなる意味があろうか!」と、内なる峻厳な問いに魂を灼かれた。

​その時、一人の市民――それは時代の病巣から生じた狂信の弁舌家であった――が、アンパンマンに囁いた。あなたの偉大な力は、世界を動かす必然の摂理を体現している、飢えた者にパンを与えるという絶対の至上命令を遂行するためならば、豊穣なる隣邦『レインボー・カントリー』の小麦と水を、力をもって「確保」することは、歴史が許す生存のための聖戦であると。この扇動は、困窮の淵にあった人々の魂に、熱病の如き狂熱を植え付けた。彼らは最後の財貨を捧げ、アンパンマンを、単なる庇護者から、運命を改変する民族の指導者、救世主へと祭壇に押し上げた。アンパンマンは、彼らの渇望と、空腹の子の瞳に答え、自らの理想を一つの巨大な、そして硬質な意志へと集中させた。「すべては、この国の、市民たちの明日のパンのために」。ここに、愛の献身は、国家的な大義へとその衣を替え、その純粋な本質を歪めた。

​かくして「オペレーション・ブレッド」の号令の下、闇に紛れて、別の排斥の潮流が胎動した。この「聖戦」の純粋性を損なう者、パンの絶対的な分配体制に異を唱える者たちは、「カビ」「社会の病巣」として断罪され始めた。個人の自由や国際協調の理念を説く知識人たちは、あたかも体制を転覆させる共産主義者の如く、その言論を封じられ、沈黙を強いられた。また、古き慣習や手作業によるパンの製法に固執し、国家的な大量供給体制への協力を拒む少数派の職人たちは、あたかも国益を害する異質な存在、ユダヤ人の如く、陰湿な中傷と社会的排除の対象となった。彼らの商店には「裏切り者」の烙印が押され、夜陰に乗じて窓ガラスが破られたが、アンパンマンは、大義としての戦争遂行に全てを集中するため、この内なる憎悪の萌芽に敢えて目をつぶり、それは彼の沈黙という名の黙認となった。

​アンパンマンは、もはや躊躇することなく、その強大な力をレインボー・カントリーに向けた。彼のアンパンチは、愛の拳ではなく、資源を確保するための鉄槌と化し、敵の軍事拠点と、それに付随するインフラを無慈悲に破壊した。略奪された小麦はパン工場に山を築き、市民たちは一時的な飽食の喜びに酔いしれたが、そのパンは、勝利の象徴でありながら、征服された者たちの涙と血の上に焼き上げられた、鉄錆の混じる苦い味を隠し持っていた。

​しかし、暴力は新たな暴力を生む宿命にある。征服された国々の人々は、アンパンマンを「侵略者」「偽善の覇者」と呼び、地下に潜りゲリラ戦術で抵抗を続けた。戦いは泥沼化し、アンパンマンの顔は、消耗と再生を繰り返す戦争機械の部品と化し、自己犠牲の輝きは失われた。パン工場には戦死者の報が絶えず、カバオくんの父もまた、異国の地で斃れた。市民たちの熱狂は冷め、彼らの心には、憎悪と後悔の念が、鉛のように重くのしかかっていた。

​そして、数年が経過し、疲弊と罪の意識に蝕まれたアンパンマンは、敵地の奥深くで包囲網に囚われた。彼の前には、アンパンチによって全てを奪われた人々の指導者が立ち塞がった。アンパンマンの最後のアンパンチは、もはやかつての神々しい光を放たず、その力は、自らが犯した道徳的な過ちによって内側から蝕まれていた。激しい死闘の末、アンパンマンは、憎悪の連鎖によってついに敵の手にかかり、悲惨な最期を遂げた。それは、英雄の散華ではなく、支配者の転落であった。

​アンパンマンの死の報は、アンパンマンワールドに深く静かな衝撃を与え、市民たちは、目の前のパンを前にただ立ち尽くした。彼らは、あまりにも遅く、しかし決定的に悟ったのだ。「飢えている人にパンを与える」という純粋無垢な正義も、他者の生存権を踏みにじる暴力と、内なる異分子を排斥する傲慢な手段を選んだ瞬間、それは最も残酷な全体主義的な過ちへと反転し、自らの救世主をも滅ぼすのだと。彼らが手に入れたのは、パンではなく、自己の正義を絶対化したことによる、永遠に続く道徳的な負債であった。冷たいパンの重みだけが残された静寂の中で、彼らは、真の献身と愛とは、力による支配の道具ではなく、ただ静かに分け与える、その謙虚な行為そのものにあったのだと、涙ながらに理解するのであった。

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