第38話 ずっと欲しかった
夜って、人を甘くする。
昼の教室ではまだ残ってた「友達として当然だからムカつくんだよね〜」っていう逃げ道が、夜になるとだんだん役に立たなくなる。
布団と暗い部屋とスマホの光って、たぶんそういう薬が混ざってる。正直ちょっと悪質。
その夜。
嫉妬をちゃんと名前で言って、踊り場で「わたしのだからね」まで聞いてしまった日の夜。
部屋の電気は消してある。カーテンから入る街灯のオレンジだけで天井がぼんやり見える。
私は布団に半分つつまったまま、スマホを耳にあててた。
スピーカーにはしない。まだ家には母がいる。ドアは閉めてるけど、家の夜って音がよく響く。
だから、イヤホンもなしで、スマホを片耳に当てるこの感じは、ちょっとした秘密の通路みたいに思える。
『……でさぁ〜〜〜きいちゃんがさぁ〜〜〜〜』
通話の向こうで、さっちょんの声がちょっとだけ甘く溶けてる。
教室のときより、放課後より、温度が一段下がって、息の混じり方が増える。
この声は、沙月じゃなくて、さっちょんの声だ。もう聞き分けられる自分がいるのが、ちょっと誇らしい。
「わたしに“ほかの子と仲良いとムカつく”って言ってくるのさ〜〜〜」
「やめろおまえそれ外で言うなよ!!!」
「いま外じゃないじゃん」
「録音してないよね……?」
「しないよ? なにそれかわいい。録音されたらどうするの?」
「消せって言う」
「消さなかったら?」
「縁切る」
「えーこわ〜〜〜〜〜〜」
“こわ〜〜〜”って言いつつ、声が嬉しそうなのわかる。やめて。そこ嬉しそうにされると私のほうが照れるんだって。
枕に片方の腕を差し込んで、私は背中を丸くする。
布団の中の空気って自分の呼吸でちょっとずつ温度が上がるから、心臓の音だけがやたら大きくなる。
「……別に、そんな大した意味で言ったんじゃないし」
「うそ」
「うそじゃないし」
「うそでしょ」
「なんでそうやって即否定してくんの」
「今日ね、帰ってからふとん入ってからも考えたんだよ?」
考えたんだよ? って、すごい自然に言う。
「考えたけど、あれは“わたしのだから”って意味だったよね?」
呼吸が止まった。
見られてた。
というか、読まれてた。
あの踊り場で、私が内心「私のなんだけど?」って荒れてたやつを、ほぼ丸裸でそのまま拾ってこっちに置かれる。
「……ちが」
「ちがうの?」
「……ちがわないけど……」
「ちがわないんだ」
「言わせんなよそういうことを!! 夜に言わせんなよ!!」
「夜じゃないときいちゃん言わないんだもん」
ぐ、と思った。正論で刺されるともろい。
昼間は逃げる。体が勝手に安全地帯に戻ろうとする。
夜になると、逃げる場所が減る。声って、隠れる場所があんまりない。
「ねえ」
さっちょんの声が、少しだけ落ちる。
この落ち方を、私はもう覚えた。
ふざけるのをいったんやめる、の合図。次はちゃんとしたやつ来るよ、っていう前ぶれみたいなもの。
「今日さ。きいちゃんが怒ってるの見て、うれしかったよ」
心臓に、やわらかいものがそのまま置かれた感じがした。
ふわふわの毛布を内側から押し当てられたみたいな、苦しくない圧。
「嬉しいって、なに」
「そのまんま。嬉しかった」
「私がムカついてるのが?」
「うん」
「私が“他の子と仲良くしないで”って言ったのが?」
「うん」
「やばくない?」
「やばいよ?」
「やばいのわかってんの?」
「わかってるよ」
「……それで嬉しいの?」
「うん。だってさ」
少し息を吸う音が聞こえる。スマホの向こうで、シーツがかさって動く音。さっちょんも寝転んでるのが想像できる。
その想像だけで、体温がまた上がる。いま同時に寝転んで話してるってだけで、なんかもう変な安心がある。
「きいちゃんさ、はっきりさせたでしょ」
「なにを」
「“わたしのだから”って」
「言ってないんだけど!?」
「言ったよ」
「言ってはないんだよな実際には!?!?」
「でも、そういう顔だったよ」
“そういう顔”。
その言い方、ずるい。顔って言われるともう反論できない。自分の顔は自分で見えないからズルい。
「わたし、それ、ずっと欲しかったから」
——ずっと欲しかった。
胸がぎゅっとなった。
「ずっと」って言葉って、こんなに効くんだ。息の奥がちょっと痛い。目の奥も熱い。
「……なにそれ」
やっとそれだけ言えた。声が小さくなったのが自分でもわかって、ちょっと情けない。でも正直、これ以上大きな声は出なかった。
「“きいちゃんはわたしのだから”ってやつ。わたしだけが言ってるんじゃなくて、きいちゃんのほうからも出てくるやつ」
秘密みたいに告げられる。
「それ、ずっと欲しかった」
体の奥で、なにかがカチって音を立てる。
鍵を回すみたいな。ロックを外すみたいな。そういう小さいけど決定的な音。
ああ。
この子は本当に、そうだったんだって思った。
彼女はずっと、私のことを「きいちゃんの時間」とか「きいちゃんの日」とかって、自分のほうから囲ってくれてたくせに、私の口からはっきり「私のものだよね?」をもらったことって、まだなかったんだ。
あれはあの子にとっても、やっと、だったんだ。
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