第37話 私のだから

「……さっきのさ」


 自分の声が、思ったより低かったことに驚く。

 普段より落ち着いたトーンに聞こえるけど、これは落ち着いてるんじゃなくて、逆に感情が詰まってるときの声だ。


「うん」


「ムカついた」


 言葉にそれを出した瞬間、感情は少し落ち着く。

 ずっと詰まっていたものが放出されたみたいに、心は軽やかになる。

 さっちょんは、まぶたを一瞬だけ伏せて、それからちゃんとこちらを見る。


「ムカついたんだ」


「うん」


「なにが?」


 聞き方が柔らかい。私を刺激しないようにっていうのがありありとわかる。

 こういうところ、本当にうまい。


「分け前とか言ってたの、キモいと思った」


 口は悪いが、でも取り消したくはない。だって本当にそう思ったから。

 その次に、もっと深いところから別の言葉が浮かんでくる。

 今、言うのを逃したら、夜になってからベッドの中で後悔する。だから、私は今言う。


「……さっちょんが他の子と仲良いと、ムカつく」


 それは、意外ににもすんなりと口から出た。

 それはもう「親友だから心配〜」のラインじゃない。言ってる内容があからさまに個人の所有欲のそれ。


 分かってる。それでも言いたかった。言わなきゃ、ここから先に進めないって思った。

 小さな沈黙に包まれる。踊り場にだけ、時間の膜が張られたみたいになる。


 さっちょんは、驚いたように目を丸くして、それからちょっと笑ってみせる。

 笑うなよ、って一瞬思って、同時にその笑いにはバカにする感じが一切ないってこともすぐに分かった。


「そうなんだ」


 嬉しい顔をしている。

 私は返事のかわりに、目線を少しそらした。

 こういう正直さは、まっすぐ相手を見るのに向いてない。直視すると死ぬから。


「……ムカついたんだね」


「うるさい」


「うるさくないよ」


「うるさい」


「うれしいもん」


「そういうこと言うな」


「言うよ」


 本当に、これでいいんだ。

 怒ってること自体が、迷惑じゃなくて、ちゃんと私の気持ちとして受けとってもらえるんだ。

 好きとかかわいいとかいう言葉より、よっぽど私に効いている。


「さっちょんさ」


 名前を呼ぶ声が、さっきよりも近くなっている。

 距離はもう手を伸ばせば触れるくらいで、お互い制服の袖口の布が微かに触れている。


「わたしは」


 私は目線を逃がさない。


「さっちょんが他の子と仲良いと、泣きたくなるよ」


 心臓が、突然変な音を立てて動く。

 それをこんなふうに言うんだって思った。ストレートを真正面から投げている。


「泣きたくなるし、ムカつくし、うるさく言うし、うざいと思われてもたぶん止まれない」


 そこまで言って、私は少しだけ視線を落とした。

 強気に見えるようで、不安も混ざってる証拠だってこと、多分伝わっている。


「……だから、できれば、他の子にあんまり可愛くしないでほしいな、って」


 かわいくしないで。

 私以外にそんな姿を見なせないで欲しい。


 めんどくさいかもしれないけど、さっちょんはもう私の所有物みたいなものなんだから。

 それを聞いたさっちょんは、小さく頷く。


「……分かった」


 小さな合意だった。

 恋人って言葉はまだ使ってない。

 好きという言葉もまだ正面からは言ってない。


 でも、お互いが他の誰かに向くと嫌という気持ちを、ちゃんと言えた。

 それでも私は、最後だけ逃げ道を作るみたいに言った。


「……友達として、当然だし」


 自分でも白々しいって思うくらい、作りものの言葉だった。

 でも、その逃げ方を今選びたいっていうのも、本音だった。

 さっちょんは、「うん」とだけ言った。笑ってはいない。でも、拒否もしていない。


 そのうんというのは、今はまだそれでいいと言う意味だ。

 私は、そこでやっと少し呼吸が戻った。肩の力が抜けて、寒さがちゃんと寒さとして感じられるようになる。


 彼女が、そっと私の袖口をつまんだ。

 それはほんの一瞬。誰に見られるわけでもない、廊下の誰にも聞かれない高さの距離で。


「きいちゃんは、わたしのだからね」


 囁かれたその言葉。

 心臓が熱くなった。


 それは怖さよりも安心に近い熱で、私はその熱に犯されそうになる。

 思考がほぼ止まったままだから、


「……うん」


 私はそれしか言えなかった。でも、それで十分だった。

 さっちょんが「戻ろ」と言う。私は「うん」と答える。

 教室へ戻る廊下はさっきより明るく見えた。


 さっきまでのざらざらした怒りは、もう体内で別のものに変わってる。

 それはたぶん、期待だ。

 期待って危険だ。


 そんな危険を胸に持ったまま、私は教室の中へと戻った。

 親友という言葉を超えるのを、もう楽しみにしている自分に驚きながら。


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