第15話 またあとで
「……ばか」
最後に出たのが、それだったことに、私はもうあんまり驚かない。
ばかの中に、今日はいくつ分の意味が入ってるんだろう。
むしろ圧縮しすぎてキロバイト単位じゃ足りない気がする。
「うん。知ってる」
それも、もうお決まり。
さっちょんは、それだけ言ってから、やっと私の手を離した。指がほどけたところに、夜風がすっと入り込んでくる。
そこだけ急に、外気になる。そこだけ、今日までの普通の世界に戻される。
この冷たさを、今日からちゃんと分かるようになった。
昨日までは、手を繋いだ後に離したって言っても「はいはーい」で済んでた。ちょっと残るくらいだった。
今日のは違う。
離れた瞬間に「ああ、今ここが外なんだ」って体全体で気づく。戻されるってことが具体的な感覚になってる。これはちょっと、いやだ。
「じゃ、またあとで」
さっちょんは普通に言う。さらっと。
「またあとで」って、買い物のときに「またあとで来まーす」くらいの軽さで言う。でも「あとで」は夜の通話のことって、もうお互い知ってる。
「……うん。またあとで」
私はそれだけ返して、自分の方の道に足を向けた。背中に視線を感じて、振り向きたい気持ちをぐっと我慢する。
振り向いたら、たぶんもう一回近づいちゃう。それをやると、門限で怒られるのは私なんだよな、っていう現実的な事情が、ぎりぎり私を正気に戻した。
家までは、たった数分。だけど長かった。
道の両側の家から、夕飯の匂いが漂ってる。カレーのとこ、しょうが焼きのとこ、みそ汁のだしの匂いがする家。
生活の匂いがする。
それ全部、この街の普通の夕方だ。どの家も、そんなドラマチックなことは起きてない。
でも私の中では、さっきの数分で世界がごっそり組み替わったような気がしてる。
「友達ではないよ」って言われた事実と、「親友だから」という言葉は外に向ける用の札なんだと聞いた事実と、「私のものにしたい」とはっきり言われた事実。
それらは、もうあやふやなニュアンスじゃなくて、はっきり確定したデータとして胸の内側に沈んでる。
この沈み方は、夢じゃない。
ふたりで同じことを「これふつうだよね」って顔でやり続けるうちに、ほんとはまだ名前のない関係が、勝手に日常っていう箱に入っていく。
そうやって、夢の境界が現実のほうにずれていく。
うちらは、今それを現在進行形でやっている。
玄関の前に立ったとき、ポケットの中のスマホが、小さく震えた。
もう? 早。まだ別れてから三分も経ってないんだけど。
『ただいま~』
連絡はさっちょんからだった。
吹き出しそうになった。息の根を止めにくるの早い。
『はや』
私も急いで返信をする。
『親友の帰宅報告だから』
『親友って言葉、外用って言ったの忘れてない? 外=世間』
『きいちゃんは世間じゃない』
『……』
スマホの画面を見つめたまま、私は玄関のドアに背中を預けるように立ちつくした。心臓が、また忙しくなる。息がふっと軽くなる。
世間じゃないって、何その言葉。そんな言い方、十七歳で使う?
反則だと思う。完全に反則だと思う。
でも反則ってことは、ルールの外ってことで、ルールの外ってことは、そこは私たちのやつってことで――
気づいたら、私はにやけていた。玄関で。家に入る前から。母に見られたら確実に彼氏?って聞かれるやつの顔で。
私は慌ててスマホを伏せて、顔の筋肉をぐっと引き締めてからドアを開けた。
「ただいまー」
「おかえり。あんた帰り遅いよ、暗いんだから——」
「はい聞いたそれ今日も録音しましたはいわたしは健全な高校生ですご飯なにカレー?」
「なにその早口」
「お腹空いたってこと」
「手洗ってきなさい」
「はぁい」
そうやって、いつもの会話をやる。
でも、いつもの会話の下に、さっきの友達ではないよがちゃんと流れていて、その音が私の体の中だけで聞こえ続けている。
部屋に入って、カバンをベッドに投げて、制服のまま布団に倒れこんだ。天井の白が少しだけオレンジ色に見える。外の街灯の色が、カーテンの隙間から入ってきてるんだと思う。
私は、スマホを胸に乗せたまま、目を閉じた。
これね、多分もう言い逃れできない。
親友って、都合のいい言葉だよねって思ってた昨日の私と、友達ではないよってはっきり聞いた今日の私って、同じ人間のつもりでいたけど、ちょっと違う。
私は、さっちょんの私のものにしたいっていう言葉を聞いて、ちゃんと嬉しかった。
怖かったし息詰まったけど、それでもちゃんと嬉しかった。
それは多分、今の時点での、一番大事な本音だ。
怖いと嬉しいが同時に存在できるってことを、私は今日ちゃんと知った。
それって、恋って呼んでいいやつの成分なんじゃないの、って、そこまで言葉が浮かんできて、私は慌ててその手前でストップを掛けた。
まだそこまでは言わない。まだそこまでは認めない。足首いくから。精神の足首が折れるから。
でも。
でも、もう後ろには戻れないことだけは、ちゃんと分かっている。
そう思いながら、私はスマホを握ったまま、息を整えた。
私たちは、夢のようなことを、普通と呼びはじめてるところなんだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます