蚊帳の外

その日、体育館にはいつもより騒然とした空気が流れていた。

担任の話が長くなり、遅れて練習に参加しようとしていた俺はその雰囲気の理由を探るため近くの部員に声を掛ける。

「おい、どした?もう20分も経ってんのに誰も打ち合いしてないとか...」

「お、西嶋聞いたか?モリセン学校辞めるんだって。」

「は...?なんで!?」

思いもよらぬ言葉に思わず面食らう。

「いや、なんかモリセン最近休んでんじゃん?そしたら今日、うちの部活の女子がモリセンが校長と歩いてるとこ見たんだってよ」

「えぇ...まじか、いやでもそんだけで辞めるかどうかはわかんないだろ..」

俺の釈然としない表情に、目の前のそいつは声のトーンを落として言葉を続けた。

「それに今日、職員室の前に貼ってある先生の席順の表からモリセンの名前無くなってたんだってよ」

「...まじじゃん」

俺は数日前、たまたま見かけたモリセンの姿を思い起こしていた。いつも通りの軽薄そうな顔と白衣の後ろ姿。別段何か変わった印象は受けなかった。

「なんで急に?なんかやらかしたの?」

「うーん、なんか女子が言うに離婚?するからみたいな」

「離婚?てか結婚してたのかあの人」

「おう、んで、なんかちょっと前からモリセンが指輪してなかったんだとよ」

ふーんと頷きながらモリセンが指輪をしていたか思い出そうとするが全く記憶にない。女子の観察眼には恐れ入る。

「んで、んで、これはここだけの話なんだけど、その離婚の原因にうちの和泉が関わってるとかで ...」

「は?和泉が...?」

すると不意に体育館の入口がぎぎっと嫌な音を立てながら開いた。細身の体がその間をすっと通り抜ける。

「うわやば、また後で...」

そう言ってソイツはそそくさとこの場を後にしてしまう。

和泉はいつも通り涼しげな顔で体育館を見回し、さっとロッカーの方に歩いていってしまう。俺はその後ろ姿を追いかけた。

「おーい、和泉。遅かったじゃん」

和泉は俺に気づくとさっとこちらに顔を向け、

「すみません。直ぐに準備します」と、抑揚のない声で言った。

「いや、俺もホームルーム長引いて今来たとこだから」

そう言ってロッカーの中に押し込んでいた練習着を引っ張り出す。俺が豪快に制服を脱ぎ捨てる中、和泉は丁寧にシャツのシワを伸ばし、ハンガーにかけている。

不意に、さっきの話が蘇ってきた。

「なぁ、和泉、モリセンが学校辞めるって聞いた?」

俺の言葉に和泉の身体がピクっと反応した。

「いえ...初耳です」

その声は心なしか震えているように聞こえた。

「いやーなんか驚きだよな。急だから。変だったけど悪いやつじゃなかったからさ...なんで辞めるんだろ」

俺が振り向くと和泉の背中が見えた。その綺麗に背骨が浮き出た脊柱を辿って目線を上げると不意にその白い首筋とはあまりにも不釣合いな黒く醜い跡がある事に気づいた。

俺の喉からひゅっと変な息が漏れる。

「おい、和泉。その首のどうした?」

しかし、俺の問いかけに和泉は全く反応せず糸が切れた人形のように固まっている。

「おい、和泉、聞こえてんのか」

俺はその手を掴み無理やりこちらを向かせる。そして次の瞬間、俺は縫い付けられたようにその場から動けなくなった。

和泉の首には巻き付くようにどす黒くうっ血したあとがあった。その跡は紛れもなく人の手の形をしている。

「なんだよ...これ」

目の前の和泉の顔を見つめるが、相変わらずの無表情。

「おい、なんとか言えよ」

俺がそのからだを揺さぶると不意に和泉が俺の腕を振り払い、渾身の力で突き飛ばす。

思いもよらぬ反撃に、反対側のロッカーに背中が触れる。

驚いて和泉をみやるとその顔はいままでみたどの顔とも違う、ただ純粋に敵意にあふれ、そして痛々しいほど哀しげだった。

「あなたには...関係ない」

低く、絞り出すように放たれた一言が俺の胸を貫いた。

和泉はさっきハンガーにかけたばかりのシャツを強引に掴み羽織るとそのままカバンを引っつかみ逃げるように更衣室を出ていった。

おれはその後ろ姿をただ見つめるしかなかった。




下駄箱に入っている擦り切れ、色の剥げたローファーを取り出す。あの後、俺は部活に参加する気力がでず、体調不良と理由をつけ、早めに帰ることにした。空はどんよりと薄暗く、湿ったアスファルトのようなにおいがする。もうどこかでは降り始めているかもしれない。校門を出て、曲がり角にさしかかった時だった。

「君、バドミントン部やんな?」

突然、後ろから声をかけられた。驚いて振り向くと、黒い車にもたれかかった背の高い男がいた。左手にはタバコがある。

「...誰っすか」

俺の訝しげな視線に男はふっと微笑んだ。

「そのバッグ、バドミントン部の子らが持っとるやつやろ?...同じ部活に、和泉京くんゆう色の白い子がおるとおもうけど」

その名前に思わず目を見開く。突然、タバコを吸い始めた和泉。この男の左手で赤く燃えるタバコの火。

「おまえ...和泉のなんだ?」

男はタバコを口に咥え、息を吸うと、ふーっと吐き出した。辺りに嗅ぎなれたタバコのにおいが漂う。俺が吸っていたのと同じ銘柄か。

「そうやな...なんなんやろ...じゃあ君は?」

そう言われて言葉に詰まる、俺は和泉のなんだ?

『あなたには...関係ない』。

和泉のあの言葉と表情が蘇り胸を押しつぶされるような苦しさが広がる。

「...俺は、俺は...ただの部活の先輩」

苦しげに吐き出した言葉に男はしばらく反応しなかった。そして「ふーん」と何の感情も宿さない声で呟いた。

「じゃあ、ただの部活の先輩に聞きたいことがあるんやけど、....京くん、学校での様子はどう?」

様子?和泉のここ最近はあまりにも変だ。井口からタバコを欲しがったり、モリセンと変な噂が流れたり。

「どうって、ここ最近は全部変や、あいつが、あいつで無くなったみたいに。...ブレザーからタバコのにおいがした。おまえの匂いと同じや。おまえが和泉を誑かしたんか?」

男は一瞬、驚いたように目を見張った、が、次の瞬間、片頬だけを吊り上げた笑みを浮かべる。

「誑かす、ね」

「そうやろ?だって、あいつが、なんのきっかけもなしに、あんな風になるわけない!!おまえが関わったせいで、和泉が、和泉が!...高校生に、なにタバコの匂いなんてつけてくれてるんや!!」

俺は怒りのあまり肩を上下させながら怒鳴った。ふぅふぅと荒い息がこぼれる。

男はポケットから携帯灰皿を取り出した。タバコを押し付け、その火を消す。

そして、ぽつりと呟いた。

「窓、開けへんかった」

「は?」

「あの子に俺のにおいが残ればいいと思って、窓は開けんかったんや」

男はそのどこまでも暗い、闇のような目をこちらに向けた。

「君にもわかるだろ?」

俺はその場に縫い付けられたように動けなくなった。

男は背を向け、車のドアをあけ運転席に乗り込んだ。

エンジンをかける音がする。

俺は震える声で叫んだ。

「その、気色悪い関西弁やめろ!!」

その声に男は窓ガラス越しに呟いた。


ガキが。


黒い車はまるでそういう獣か何かのように飛び出し、すぐに見えなくなった。後に残された俺は、悔しさでその場に立ち尽くすことしか出来なかった。

アスファルトにポツリと雫が落ちる。次第に雫は数を増やし、あっという間にアスファルトが濡れていく。

俺は、懸命に足を動かし家路を急ぐ。

俺は所詮、蚊帳の外なのだ。

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