罪の跡
梅雨の訪れを予感させる生ぬるい風がぬらりと頬を撫でた。年季の入ったペラペラの黄ばんだカーテンが目の端でチロチロ揺れている。開け放した窓からは自転車を引き、なにやら友人とケラケラ笑いあいながら帰路につこうとする数名の生徒の姿が見えた。そのうちの1人の男子生徒がどうやら同じクラスの人間らしいと気づき目をそらす。
けだるい午後だった。
「何見てんの?」
不意に後ろから声がかかる。
「森先生、お邪魔してます。」
「いやーまた職員会議が長引いちゃってさ。全く嫌になるよ。」
呆れたような笑みを浮かべ森先生はそこの自販機で買ったのだろう。缶コーヒーを一口、口に含んだ。その時左手の薬指にやはり指輪がないことに気づく。
「..そう言えば先生、指輪は?...この前から無いなって気になってたんです」
先生は一瞬ひくりと指先を震わせながら何でもないように呟いた。
「あー俺別れるかも」
サーっと風の音が聞こえる程の沈黙が一瞬訪れた。
「そうですか」
「そうですか、か」
先生はどこか諦めたような笑みを浮かべながら俺の隣に立つ。
「まぁ、最近上手くいってなかったし。俺も全然家の事なんて気にしてる暇無かったからしゃーなしかなと思う」
僕は先生の横顔を見つめながら何も言えなかった。
「なぁ、和泉はさ、好きなやついるの?」
「え?」
あまりに唐突な質問に思わず固まる。
「好きな人だよ、いるだろ1人や、2人くらい」
その時、どこからともなくあの薫りがした。思い浮かんだのは黒いスーツの後ろ姿だった。
それを誤魔化すように首を振った。
「...いません、いた事なんて、ありません。」
しばらく、沈黙が訪れた。気まずくて俺が話題を変えようとした時だった。森先生の瞳が見たことないくらい暗く、淀んだ。
「お前ってひでーな。」
その声は二人きりの静かな化学準備室の端々まで沁みるような冷たさを含んでいた。
「...先生?」
突然、黒い影が目の端を横切ったと思ったら次の瞬間息苦しさと痛みが襲ってきた。
「せ、せんせい...」
森先生の大きな手が僕の首の骨をギリギリ絞めあげてくる。僕は人生で初めて死の恐怖を感じ全身の血が凍りつくのがわかった。
「せんせい...やめて...」
次第に僕は立っていられなくなり膝から崩れるように床に倒れ込んだ。それでもなお先生は僕に覆い被さるように首を絞める強さをゆるめない。
「せんせい...」
涙と冷や汗で目の前が白く霞む。影になりその顔は真っ暗で表情を伺う事が出来ない。
不意にふわりと香りがした。洗剤の匂いだ。いつもの森先生のタバコの匂いじゃない。
僕はその香りがする方めがけて必死に右手を振り回した。ゴツっと鈍い骨に当たるような感覚がした。
不意に息苦しさが無くなり僕は床を這うように先生の下から抜け出した。
霞む視界の中で森先生は呆然としたようにこちらを見ていた。
僕は整わない息のなか必死で先生から距離をとろうとした。
「和泉...和泉、俺は、お前を」
その声はあの恐ろしいほどの力で首を絞めあげてきた人物とはとても同じ人間とは思えない程弱々しい声だった。
「...ごめんなさい、先生、ごめんなさい。」
僕はふらつく足で走り出し、引っ掻くようにドアを開け飛び出した。
霞む視界の中で僕はひたすら遠くに遠くに逃げようと走った。
だから最後、先生がどんな顔をしていたのか僕は知らない。
ふらつく足で立ち上がる。手の中にはまだ首を絞めあげた生々しい感触が残っていた。
それをうち消そうと左ポケットに手を伸ばしいつもの硬い箱が指先に触れないことを思い出しチッと舌打ちをする。
不意に左手の薬指が目に入った6年もの間ここにハマっていた鉄の塊の存在を思い出す。そこは隠すものを失い、不自然に凹み、まるでそこだけ死んでいるかのような、白い痕が残っていた。
「タバコ辞めたらキスしていいんじゃなかったのかよ。」
不意に左手の薬指が絞めつけられるように痛んだ。
まるで許さないと言わんばかりに。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます