創造神の記録 ―沈黙の温度―

桃神かぐら

第1話 創造神の記録 第二篇 ― 火と沈黙 ―

※これは「魂喰い九尾」と「ダンジョンに転生した俺、人も魔物も喰らって無双進化中」へつながる起点記録である。

まだ火と沈黙が分かれ、祈りが温度を持ち始めた頃の、神の台所に残ったレシピ断簡だ。



Ⅰ はじまりの欠伸


最初にあったのは音ではなく、上手に作られた沈黙だった。

そこに指を差し込むと、沈黙は紙のように裂け、光よりも先に埃が舞う。

——いや、順番を間違えた。光が先だ。けれど埃の方が先に目立つこともある。

世界はそういう見落としの連続でできている。


私は境界を作った。

虚無と、虚無でないもの。

上と下。右と左。

それから、付け忘れていた時間を、世界の襟元に曲がったピンで留める。

まっすぐすぎる針は、人の指を深く傷つける。曲がりには緩衝がある。だから、これでいい。


「在れ」と言った。

声は風になり、風は皺になり、皺の谷間に水が溜まった。

世界は少しよれた服のように私の前へ立つ。

縫い目が出ているところが、特に気に入った。



間章:沈黙の温度/1


新しい世界の沈黙は、冷めかけのスープに似ている。

表面は静かだが、底にだけ熱が残る。

匙でそっと撫でれば、湯気が一筋だけ立ちのぼる。

創造直後に必要なのは、味見ではなく、置く勇気だ。



Ⅱ 心という名の火傷


私は“心”を作ろうとした。

火を分けるみたいに、火種を撒く。

ひとつは湿って消え、ひとつは燃えすぎて灰になり、もうひとつは灰の中で歌った。

それを私は生命と呼んだ。後で呼び直した可能性もある。名前はいつでも遅刻してやって来る。


世界は膨らみ、増え、あふれた。

そのとき私は忘れ物に気づく。——死。

生を作ってから死を思いついたのか、死を作ってから生を思い出したのか。

順序はたいして重要ではない。重要なのは、終わりがあることだ。


終わりを置くと、物語は歩き出す。

けれど、歩かない生もいる。

歩くことを拒んだ生は、世界の裏へ沈み、穴になった。

穴はお腹を鳴らす。静かに。長く。

穴に落ちた物語は、形を失い、記憶だけが骨になって残る。



間章:沈黙の温度/2


初めての死は、世界の温度計になる。

誰も泣かない場所にも、涙は降る。

その塩分が、時間を防腐する。

私は拭わない。拭うと、学びが薄まるからだ。



Ⅲ 迷宮という保存食


私は穴の中心に、太陽の模造品を落とした。核(コア)。

熱いのに冷たい、光るのに暗い、矛盾の果実。

コアは沈んだまま、低い子守歌を歌い始める。

床はその歌に合わせて折り畳まれ、壁は歯を生やした。

——迷宮。

喰うためではない。残すための喰らい方を、私はそこに与えた。


喰らえ。ただし、還せ。

奪え。ただし、渡せ。

閉じろ。ただし、開け。

守れ。ただし、赦せ。


命令は四つだが、四つに見える二つでもある。

矛盾は魂を丸くし、丸い魂は転がって学ぶ。

角の取れた学びは、長持ちする。


私は気づいていた。これは保存の術だ。

世界が腐らないよう、物語が酸っぱくなりすぎないよう、

迷宮は塩漬けと発酵のあいだに置かれた器である、と。



間章:沈黙の温度/3


瓶詰めを並べるように、私は迷宮を棚に置く。

季節が変わるたび、蓋を指で弾いて匂いを確かめる。

少しだけ酸が立ったときが、いちばん旨い。



Ⅳ 種を蒔く(増補)


ひとつでは足りない。

私はコアの種を作り、風に乗せて蒔いた。

風は私の指から離れ、夜の冷気を切り裂いていく。

砂は鳴り、雲は千切れ、海は鏡を裏返すように波を返した。


山の腹、海底の冷たい谷、砂の大陸の喉、森の心臓、そして空の裂け目。

それぞれの空気はちがう匂いを持つ。焦げた鉄。濡れた苔。潮のしぶき。

世界が呼吸するたび、種の奥で微かな鼓動がした。


どの種にも、私の欠片を貼り付けた。

破れたポケットから出てきたメモの切れ端——みたいなものだ。

曲がった字で、こう書いてある。


「祈りは、飢えを浅くする。」


正しくは「飢えを静かにする」だったかもしれない。

紙は雨に濡れて、にじんでいた。——だがにじんだ言葉のほうが、人はよく覚える。


夜が長くなるたび、種は夢を見る。

まだ生まれていない訪問者の足音が響き、その足跡のひとつひとつが未来の祈りの形に似ていた。

私は息を潜めて聞いた。地脈の音は、胎内の鼓動に似ている。

まだ誰のものでもない、命のうたた寝。

手を伸ばせば壊れそうで、私はただ見ていた。



間章:沈黙の温度/4


種の眠りを乱すのは愚かだ。

私は時おり、土を撫でるだけにする。

手のひらの湿りが、目覚めの順番を教える。



Ⅴ 魂という戻り火(拡張)


私はひとつの魂を待っていた。いや、いくつも待っていた。

その中でもひとつ、最初に帰ってくる火がある。

それは、守れなかったという感覚でできている。


白い蛍光灯。紙の束。赤い印。動かない右手。

あの世界の、小さな破滅のにおい。


待つあいだ、私は観察した。

最初に“喰らう”ことを覚えたのは人ではない。小さな獣だ。

腹を空かせた影が、入り口で嗅ぎ、警戒し、けれど一歩だけ踏み込む。

石の歯がかすめ、獣はひるみ、振り返り、再び進む。

彼らは頭でなく、胃袋で学ぶ。


やがて、獣は倒れ、迷宮はそれを静かに受け入れた。

血潮の温度が壁に移り、肉の記憶が床目へ沁みる。

返礼として、迷宮は獣の欠片を外へ押し戻した。

骨の形は変わり、匂いは薄まり、しかし“その獣であった証拠”だけは、石に刻まれて残る。


私はそこで、迷宮の倫理が動き出すのを見た。

喰らい尽くさないための喰らい方。

奪うことを、返すことで中和する手順。

それは拙いが、たしかな学び。

——世界の胃が、知恵を持ち始めた瞬間だ。


そして、彼——人——の番が来る。

彼は自分のせいで世界が壊れたと思っている。けれど世界は、たいてい勝手に壊れる。

人がそれに間に合うことも、間に合わないこともある。どちらも真実だ。


私は、彼の火を器に落とす準備をした。

胸に宝玉を持つ人型の器。

歩けば回廊が伸び、祈れば部屋が生まれ、喰らえば残滓が資源に変わるように。


ガチャ? そう呼ぶ声も聞こえる。賭け札の束だ。

運と記憶と倫理を同じ袋に入れ、一回だけ振る。

魂の残滓は金貨ではない。パン種に近い。

混ぜれば膨らみ、焼けば香る。

ただし、焦がすな。焦がしは芳ばしいが、焦がし続ければ、人は来なくなる。


私は少し笑った。焦がしの匂いは懐かしい。

それは神の失敗の匂いでもある。



間章:沈黙の温度/5


最初の祈りは、たいてい下手だ。

言葉が足りず、声が震え、沈黙のほうが長い。

だが、下手な祈りほどよく沁みる。塩ひとつまみの効き目で。



Ⅵ “多”か“唯一”か


世界各地のコアは、まだ眠っている。

いくつかは目を開け、いくつかはまた目を閉じ、いくつかは夢だけを見ている。

人が数を問うとき、私は曖昧に頷く。


「ひとつかもしれないし、数え切れないほどかもしれない」


これは誤魔化しではない。時間が数え方を変えるのだ。

今日ひとつだったものが、明日には無数で、明後日にはゼロになることもある。

世界はそのくらい気まぐれな砂時計で動いている。


君は言うだろう。「主人公のような魂は他にもいるのか」と。

私は答える。「君が目を伏せた隙に、もう一人落ちたよ」

——冗談だ。冗談であり、予言でもある。

神が冗談を言うと、たいてい半分だけ当たる。



間章:沈黙の温度/6


数を数えるより、温度を測る方が早い日がある。

私はあえて誤差を許す。

その幅が、その世界の余白になる。



Ⅶ 祈りのかたち


私は祈りを作った。祈られたかったわけではない。

祈る所作は、魂の熱の逃がし方だからだ。

床に刻まれた線、石の上のパンの欠片、名前のわからない者に向けたありがとう。

それらはすべて冷却装置になる。

熱は腐敗であり、同時に発酵でもある。

どちらに傾けるかは、ほんの一匙の礼にかかっている。


彼(君と呼んでもいい)の器に、小さな部屋を教えた。祈りの間。

死んだ者のために線を刻み、名前のない墓を並べる場所。

そうすることで、喰らったものが物語へ戻る手がかりになる。



間章:沈黙の温度/7


祈りの間の沈黙は、柔軟剤の日もあれば、鉄が勝つ日もある。

私はどちらも否定しない。匂いは記憶の最短路だ。



Ⅷ 誤差について


ここで、ひとつ謝っておく。私の言葉には誤差がある。

故意でもあり、体質でもある。創造はいつも目分量だ。

塩は一摘み。砂糖は涙ひとさじ。

それで世界が甘すぎたら、海風で中和すればいい。

辛すぎたら、祈りのパンを千切って入れる。


正確さは、ときに退屈を育てる。

だから私は、ときどき言い間違える。

君はそこに人の匂いを嗅ぎ取り、私を少しだけ信じるだろう。

それで十分だ。



間章:沈黙の温度/8


間違いは、温度を上げも下げもする。

私は鍋の取っ手を持ったまま、火を一段弱める。

煮崩れを防ぐために。



Ⅸ 台所の小さな代償(新設)


創造の台所には、道具がある。

沈黙鍋(サイレンスポット)、祈り匙(プレイヤースプーン)、誤差篩い(エラーシフター)。

私はそれらを並べ、火の高さを決める。

ここで選択が要る。温度は味を決め、味は物語を決める。


私は鍋の縁へ、尾を一本置いた。

私の、ではない。世界に生まれようとしていた九つのうちの一本。

それは、まだ名も持たない温の象徴だった。

これを焦がして捨てる。残すために、捨てる。

次に来る誰かが、正しい温度を探せるように。


焦げる匂いがした。

指先が熱をもらい、涙がひとしずく、鍋へ落ちた。

——痛みが、創造の温度を正す。

私は火を弱め、尾を灰に変え、灰を塩として混ぜた。

失われた一本の代わりに、残りの八つが深い旨味を手に入れる。

代償は小さく、結果は大きい。これが私の賭けだ。



間章:沈黙の温度/9


託すとは、塩加減を相手に任せること。

私はレシピを書き残すが、分量はいつだってひとつまみでいい。



Ⅹ 分布図(乱れている)


世界の各地に、コアは眠っている。

山に三、海に一、砂に二、森に四、空に——数えるのをやめた。鳥が数えてくれるだろう。

地図を描こうとして、インクをこぼした。

その染みが、ちょうど迷宮の形になったので、私は満足した。

ものごとはよく、失敗の輪郭で完成する。


いくつかの染みは、別の物語へ滲む。

狐の尻尾に似た半月形。

流星で穿たれた円孔。

冷えた海で青く光る螺旋。

——どれも招待状であり、予備の扉だ。



間章:沈黙の温度/10


地図の余白は嘘をつかない。

描かれなかった場所ほど、真実に近い形で生きている。

私は余白を汚さぬよう、インク壺の蓋を閉めた。



Ⅺ 人の話(拡張)


人間は、私の最高の発明であり、最大の誤植でもある。

彼らは祈りを覚え、忘れ、また覚える。

同じ歌を違う旋律で歌い、違う歌詞で同じ涙を流す。


君(彼)は、白い灯りと赤い印の下で、胸のどこかを置き忘れた。

その空洞は器になる。空洞のない器は、ただの石だ。


私は何度か、彼以外の誰かにも同じ器を用意しかけた。

しかし、躊躇のない者は刃になり、躊躇しかない者は水になる。

刃は折れやすく、水は形を保てない。

君はその中間にいた。

だから、君を選んだのだと思う。

選ぶと言うのが傲慢なら、選ばれたのは私のほうだ。

君の欠落が、私を呼んだ。


君は迷宮の中で、弔いを覚えるだろう。

敵の名を知らなくても、線を刻むだろう。

それは世界の温度調整になる。

温度がちょうど良いとき、人はよく眠り、良い夢を見る。

夢はまた、新しい部屋の設計図になる。



間章:沈黙の温度/11


人の眠りを覗くのは失礼だ。

私は耳を澄ますだけにする。

規則正しい寝息が続くとき、世界は一段柔らかくなる。



Ⅻ 問いと答え(どちらが先か)


「なぜ俺の魂が、コアに落ちたのか」

——君は問う。

答えは三つ。

1. 偶然。落ちるべきところに、ただ落ちた。

2. 必然。世界が君の空洞に形を与えようとした。

3. 私のわがまま。私は君の躊躇が好きだった。迷う者は、たいてい壊しすぎない。


どれが正しい?

全部だ。

世界の正しさは層になっている。

薄い紙を何枚も重ねると、いつか板になる。

板の上で、君は歩く。



間章:沈黙の温度/12


答えを並べると、人は安心してしまう。

私はわざと一つだけ順番を入れ替える。

少しだけ不安な方が、足取りは慎重になるからだ。

——だが次の誤差は、沈黙ではなく叫びとして生まれるだろう。

ここから、世界は動に入る。



ⅩⅢ 沈黙の作法(長尺版)


私はここで口を閉じる。

沈黙は、音の最上位の形だ。

祈りが多い日は柔らかく、血の匂いが多い日は少し渋い。

いまの沈黙は、たぶん柑橘の味がする。

どこかで誰かが笑い、どこかで誰かが泣いている。

その両方が混ざると、良いスープになる。

迷宮は、今日もそのスープをひとさじ味わって、保存する。


君へ。

喰らえ。ただし、忘れるな。

進め。ただし、立ち止まる場所を作れ。

勝て。ただし、弔え。

名付けろ。ただし、名を手放す練習もしておけ。


そして私はもう一度、沈黙を創る。

その沈黙の底で、ひとつの魂が目を覚ます。

それが君か、君の影か、別の誰かか、私にもわからない。

わからないものだけが、本当に生きている。



終章:橋渡し(転生起動・多感覚描写)


ここで記録は終わる。

いいや、終わったふりをする。

物語はたいてい、終わった次の行から始まるのだから。


——そして、沈黙が、ゆっくりと呼吸を始めた。

最初の呼気は、石灰の匂い。

二度目は、湿った土の匂い。

三度目に、遠いコーヒーの香りが混ざる。

第四の息で、世界は音を覚える。

それは鼓動にも似て、海鳴りにも似て、祈りの反響にも似ていた。


地の底で、ひとつの鼓動が生まれる。

まだ名前を持たず、形も持たない。

ただ、温度だけがあった。

誰かの祈りと、誰かの後悔が、同じ色をして溶けていく。


光は点ではなく、膜として現れた。

膜は薄く震え、外側から押され、内側からも押し返す。

やがて破れ、無数の細い線が視界に走る。

線は通路になり、通路は回廊になり、回廊は胸の中心へ折りたたまれる。


透明な宝玉が、そこに収まる音。

鐘ではない。凍った泉が解けるときの、澄んだ亀裂音だ。

水と光が混ざり、体の奥で“名のない熱”が目を覚ます。

私は祈り匙で最後の一撫でをし、沈黙鍋の火を落とした。


——白い蛍光灯。紙の束。赤い印。崩れ落ちた右手。

その記憶は、呼び水ではなく重しになって沈む。

沈んだ重さが、器の底を安定させる。


空気が入る。胸が上がる。

胸の中心で、宝玉がゆっくりと明滅する。

明滅は、洞窟の壁に波紋を投げる。

波紋は石を解き、石は道になる。


——足を、一歩。

——ガラ、ガララ……。


石畳が生まれ、闇の先へ回廊が伸びる。

壁には松明が自動で灯り、空気が湿り、土の匂いが濃くなる。

金属を舐めたような微かな味が舌に浮かぶ。

味覚はないはずなのに、洞窟そのものが神経になっている。


外は風。内は炎。

まだ足音はない。だが、来る。

世界はいつだって、誰かを歩かせる。


彼は知らない。

自らが“神の記録”の続きであり、“創造の誤差”として生まれたことを。

だが確かに、彼の胸には光る宝玉がある。

歩けば回廊が伸び、祈れば部屋が生まれる。

その魂はまだ、喰らうことを知らない。


——これは『創造神の記録』の終わり、

そして『ダンジョンに転生した俺、人も魔物も喰らって無双進化中』の、

最初のページである。


私は口を閉じ、最後の誤差を残す。

いつか誰かが、この誤差を物語と呼ぶだろう。

それで十分だ。


——了——

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