第2話


 何事もなかったように、スーツの裾を整える。

 肩の傷も、気づけば消えていた。まるで夢でも見たかのようだ。


 「……行くか」

 呟いて、足を前へと進める。


 いつもの道、いつもの朝。

 通勤の人々がスマホを見ながら歩いている。誰も、さっきの異形など知らない。


 駅へ着くと、改札を抜け、ホームへ向かう。

 電車を待つ間、構内のモニターに目をやった。


 『速報:市内で謎の害獣が出現、被害拡大の可能性あり』

 音声が淡々とニュースを読み上げている。


 「……害獣?」

 小さく呟く。


 ――俺が倒した、あの黒いハウンドのことか?

 だとしたら、あれはやはり現実だったのかもしれない。


 電車がホームに滑り込み、ドアが開く。

 考えを中断し、乗り込んだ。


 揺れる車内。

 周囲はスマホを見ている人ばかりで、いつもの朝の光景が広がっている。


 窓の外を流れる景色をぼんやりと眺める。

 あの黒い霧も、光も、今は遠い夢のようだった。


 目的の駅に着く。

 人の波に押されながらホームを出て、改札を抜ける。


 階段を上がり、街の風に顔を上げる。

 灰色のビルが立ち並ぶいつもの景色。


 会社の建物が見えた。

 いつも通り、社員証をかざしてドアを開ける。


 ――まるで、何もなかった朝のように。


 会社に入ると、エレベーターに乗り、いつものフロアへ向かった。

 タイムカードを押し、デスクに座る。


 すぐに始まる朝のミーティング。

 上司が淡々と案件の進捗を確認し、同僚たちはそれぞれの報告をする。


 俺も順番が来て、予定どおりの数字を述べた。

 誰も特に変わった様子はない。


 あのハウンドのことなど、この世界のどこにも存在しなかったかのように――静かな会議だった。


 ミーティングが終わり、午前の業務に取りかかる。

 メールを整理し、資料をまとめ、電話を一本。


 いつもと変わらない時間が流れる。

 キーボードの音とコピー機の作動音が、心地よい雑音のように響いていた。


 時計の針が十二時を指す。

 昼休みのチャイムが鳴った。


 書類を片づけ、財布を手に社食へ向かう。

 エレベーター前で同僚たちと軽く会釈を交わす。


 社食のメニュー表には、日替わり定食「鶏の照り焼き」と書かれていた。

 トレイを取り、列に並ぶ。


 温かいご飯と味噌汁の湯気が立ちのぼり、ほんのり腹が鳴った。

 席に座り、箸を取り、黙って食べ始める。


 味はいつも通り――

 けれど、どこか遠くに、あのハウンドの唸り声がまだ残っている気がした。





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