血を啜るなら

古山遥

血を啜るなら

 わたしは、橙色に染まるその建物を見上げる。古びた洋館で、確か壁は白とかクリーム色とかだったと思うのだが、その壁の大部分には蔦が這っていて、夕日に染まっていることもあり確信が持てない。元々、こんなところ、わたしの行動範囲の外なのだ。学区内ではあるけど、家からはむしろ反対側だし。

 それでも、この洋館はわたしの通っている中学校ではちょっと有名な場所だから、わたしも知ってはいた。なぜ有名かと言えば、庭の荒れ具合といい、人の出入りが目撃されないことといい、まず間違いなく空き家なのに、昔からなぜか取り壊されることもなくそこにある謎の建物だから……らしい。蔦に覆われた古びた洋館という独特の雰囲気も相まって、わたしたち生徒の間では幽霊屋敷のように扱われている。直接目の当たりにすると、確かに、「いかにも」といった雰囲気だ。

 気付けば、口から大きなため息が出ていた。わたしは今からこの幽霊屋敷の荒れ果てた庭に入らないといけないのだ。

 重そうな門をそっと押す。鍵は掛かっていなかった。軋むような音とともに門が動く。

「……おじゃまします」

 一応、小声でつぶやいて、庭に足を踏み入れる。庭の草はわたしの膝ほどの高さがあった。足元とは少し違う場所で、がさがさと草が動く音が聞こえて、ヘビでもいるのかもしれないと、思わず顔をしかめた。この庭――もとい草むらの中から、わたしはノート一冊を探し出さないといけない。あの人たちがわたしのノートを門の外から投げたなら、探す範囲は狭くて済むだろうけど、もし今のわたしと同じように庭に侵入してから捨てたなら、どこにあるかは見当もつかない。

「それだけ聞いてくればよかったかな……まあ、教えてくれないだろうけど」

 制服のスカートが地面につかないように気をつけながら、その場にしゃがみこむ。とにかく探すしかないのだ。草を両手でかき分けて、ノートが見当たらないか確かめて、少し移動してまたかき分けて探す。……ない、ない、ない。だんだん心が黒くなっていく。見つからないことへの焦り、絶望、それから……あの人たちを信じてしまった自分への怒り。

「ないっ……うわ! ……あーもう!」

 下を向いたまま移動していたら、草むらから一本飛び出た背の高い草にお尻がぶつかった。苛立ってその草をはたくが、草は折れるでもなく、ただちょっと揺れてまた元の位置に戻った。

「……っ」

 なんだか急に鼻の奥が熱くなる。でも泣いている場合じゃない、探さないと。早く見つけて、家に帰りたい。気合いを入れ直して、下を向いてまた草をかき分ける。ない……見つからない。

 夕日はだんだん沈んでいく。ただでさえ草で見えにくいのに、手元が暗くなってさらに探しにくくなっていく。なんだか気温も下がってきた気がする。

 顔を上げる。荒れた庭を見渡す。

「……もー、空き家のくせになんでこんな庭広いのっ! 空き家ならさっさと壊してコンビニにでもすればよくない!?」

 思わず叫んだ、そのときだった。

 洋館の扉が、ゆっくりと動いた。扉の隙間からかすかに漏れる明かりと、人影。え? 人いたの? わたしは焦って固まってしまう。扉が、完全に開く。

「……人の家を勝手に壊そうとするんじゃあない」

 洋館から出てきたのは着物姿の男性だった。この建物とはちぐはぐな格好だな、とちらりと思ったけど、今はそれどころではない。

「あ、あの、えっと……!」

 庭に侵入したこと、苛立ちに任せて暴言を吐いたことを謝ろうと思った。けど、それらの台詞は、男性が手に持っているものに気付いたことで、別の言葉に取って代わられた。

「……それ! わたしのノート!」

「ああ、これ」

 男性はわたしが探しているノートを両手で持っていた。

「庭に捨ててあったから拾っておいた。……中に入りなさい。話したいことがある」

「え……」

「茶ぐらいは出してやろう」

「あ、あの、勝手に庭に入ってごめんなさい。でも、わたしはそのノートを返してもらえればそれで、すぐ出て行きますから」

「君は私に用などないだろうが、私は君に話したいことがあるんだ。何、そう長い時間はとらせまい。袖振り合うも多生の縁ということで招かれてくれ」

「……」

 怪しい、怪しすぎる状況だった。何を言えばいいかわからなくなっているわたしを見て、男性はかすかに笑った。

「……それは人の子として生きていくには適切な警戒心なのだろうが、私にも事情がある。虎穴に入らずんば虎子を得ず、これを返してほしいなら早く入りなさい」

 怪しい。怪しいけれど……

「……おじゃま、します」

 半分は、ノートを返してもらうためには仕方ないという判断。もう半分は、どうにでもなれというただの勢いで、わたしは男性の後に続いて洋館に入った。



 中は、外観に反して綺麗だった。床にも、家具にも、埃が積もっているなんてことはない。何より驚いたのは、中はちゃんと明るく……どうも電気が通っているらしいことだった。その明かりのおかげで、薄暗い中ではわからなかった、男性の髪色が――白のような銀のような、珍しい色だとわかって少し驚く。

 それにしても、いつもこうして明かりをつけているなら、外から見たときに空き家だなんて思われなさそうだけど。考えてみればわたしも、さっき扉が開くまで、洋館の中が明るいことに気付かなかった。よっぽど遮光性の高いカーテンを使っているのだろうか。

「座って」

 大きなテーブルと椅子を示して男性が言う。どちらもアンティークというやつだろうか、わたしには詳しいことはわからないが、なんだかとても高そうに見える。

 わたしはおとなしく座る。

「紅茶とコーヒー、あと緑茶。どれがいい」

「あ、えっと……おかまいなく」

「そうか」

 断られることは想定内だったのか、男性はあっさりうなずいてわたしの向かいに座った。よく見たら、この人、眼が赤い? 髪といい眼といいなんだか珍しい。なんとなく日本人離れした顔立ちからしても、外国の人なのかもしれない。それかハーフとか。

「それで、あの……わたしに話したいことって何ですか?」

 男性の手元で人質に取られているノートを見つめながら聞く。早く帰りたい。帰って、自分のベッドに飛び込みたい。だから早く返してください。

「……『そのドラゴンの瞳は、まるでエメラルドのようだった。』」

 ふいに、男性が口を開く。ん? なに?

「『そのエメラルドは太陽の光を受けてきらきらと輝いている。』」

 え? ちょっと待ってまさか、

「『私はその宝石のような輝きに魅せられた。』」

「やめて! うわ、ちょっと、やめてください! うわー!」

 思わず立ち上がって両手を振り回すわたしを見ると、男性は口の片端を上げて笑った。閉じられたまま置かれたノートの表紙をとんとんと指で叩く。

「これは君の作品か?」

「……っそう、ですけど……! 中見たんですか!?」

「ああ。我が家の庭に放置してあった不審物の処遇を決めるために中を確認した」

 我が家の庭、と、不審物、のところを明らかに強調して男性が言った。そう言われると、勝手に読まれたことを抗議しにくい……。

 それにしても、わたしをわざわざ招き入れて、やりたかったことはこれなのだろうか? わたしの書いた小説を馬鹿にすること?

 あの人たちの言葉が蘇る。

『えー、畑野さんって自分で小説? 書いてるのー?』

『確かに教室でもよくだーれともしゃべらないで本読んでるもんねー。本好きなんだね、すごーい』

 目の前にいる人は一体何歳だろうか、二十代? それとも三十代だったり? そんないい大人になっても、やることは中学生と変わらないんだろうか?

 というか、小説を書くことって、そんなに馬鹿にされること? この世には芥川賞とか直木賞とかノーベル文学賞とかあるじゃない。ううん、もちろんわたしの小説はそんな凄いものじゃないのは自分でわかってるけど。小説を書くこと自体は世の中で馬鹿にされてないはずなのに。何がだめなの? わたしだから、だめなの?

「……っ、うっ……ふっ……」

「あ?」

「う、うぅーっ……!」

「え、は、何故」

 揺らぐ視界の向こうで男性が立ち上がったのがわかったけど、わたしは何も反応できなかった。下を向いて、溢れる涙をひたすら拭う。

「う、ひ、っく……」

 少しして、君、と呼ばれた。

「あー、君、君」

 震える肩を軽く叩かれる。わたしは少し顔を上げる。白いハンカチが目の前に差し出されていた。使えということなのだろう。いつまでも泣いているわけにはいかないし……ここは甘えておくことにした。

「……うっ、ふーっ……あの……すみませんでした……」

 ずぶ濡れになったハンカチを握りしめて男性に謝る。男性は「いや……私が、その、何かしてしまったんだろう? 詫びるのはこちらだ」と困り顔で言った。何か、って。もしかして、馬鹿にしたかったわけじゃない……?

「……あの……結局、話って何ですか……?」

「ああ……君の作品を読んだ」

 男性は咳払いを一つ。

「荒削りではあったが、そこそこ面白かった」

「……え?」

「どんな人間が書いたのかと思っていたが、君はまだ若いようだし、荒削りと言っても年齢から考えれば相応なのかもしれないな。ドラゴンの瞳をエメラルドに喩えるくだりは陳腐といえば陳腐だが、思い通りにならない日常に小さな不満を抱えていた主人公には、非日常の予感がそれだけ魅力的に見えたということの現れであろう。まあ、とはいえ、そこだけでなく全体的に使い古された描写が散見されるので、改善の余地はあると思うが。そして――」

「ちょ、ちょちょっと待ってください」

「何だ」

「……わたしの小説の感想を言うために、家に入れたんですか? 馬鹿にするためじゃなく?」

「馬鹿に……? 何故そんなことをしなければならない。感想を伝えるために招いた。確かに半分はそうだ」

「半分」

「そう、半分。……もう一度言うが、私はこの小説をそこそこ面白く読ませてもらった」

「……ありがとうございます」

「だから、教えてほしい。ここに何が書いてあったか」

 これが目的のもう半分だ、と言いながら男性が開いたページは、油性マジックらしきものでぐちゃぐちゃに塗りつぶされていた。わたしは息をのむ。

「なにこれ……!」

「他にも何箇所もこういうページがある。とくに後半はひどいものだ。私はこの物語の全容を知りたい。だから書いた人間と話したかった」

 男性がこちらに差し出してきたノートをわたしはおずおずと受け取る。めくってみれば、男性の言う通り、塗りつぶされたページはたくさんあった。

「……こんな、こんなこと……」

 手が震える。男性は肘をつき、組んだ両手に顎を乗せて、わたしの表情を窺うようにこちらを見てくる。

「無論、君が行ったことではないな?」

「も、もちろんです」

「……そもそも何故、そのノートはここの庭に落ちていた? その落書きと、関係があるか?」

 疑問形ではあるが、男性はその質問にわたしが肯定を返すと確信しているようだった。そしてわたしは確かに「……はい」とうなずいた。男性は何も言わなかったが、続きを話せと促されている気がした。

 わたしは、不法侵入をするに至った経緯を説明する。

『実はあたしも本好きなんだよねぇ。あいつらはなんていうか、そういうノリじゃないから内緒にしてるんだけど。ね、畑野さんの書いてる小説、読んでみたいなぁ。貸してくれない?』

 あの人たちのグループの一員ではあるけど、放課後、たった一人で内緒話をするみたいにわたしに近づいてきた彼女。わたしは嬉しくなって、まだ今まで誰にも見せたことがないので正直とても恥ずかしかったけど思い切ってこのノートを渡した。でも、いつまで経っても返ってこなくて。勇気を出して、そろそろ返してほしいって言いに行った。

『え? ノート? 借りたっけぇ? うそー、借りてないよぉ、だって畑野さんの小説なんてキョーミないもん、借りるわけないじゃんねぇ』

『あ、でもアレじゃない? ほら、この間、カバンになんか知らないノート入ってるーって言ってなかった?』

『あー、あの、よくわかんないからここ置いとこって言って、幽霊屋敷に置いたやつね!』

『そうそう、幽霊屋敷の庭にあると思うよ。なんかごめんね、そんな大切なものだって思わなかったからー』

 騙したんだ? とか、わざわざあんなところに捨てたの? とか、言いたいことは色々あった。でもどれも言葉にはならなくて、わたしは黙って彼女たちに背を向けた。そして、こうして「幽霊屋敷」まで探しに来たのだ。

 男性はわたしの話を聞き終わると「……一つ質問だが」と言った。

「その小説は……どちらにせよ今は読めないが……その一冊で完結はしているのか?」

「え? あ、えっと」

 この話を受けての質問がそれなのか……とちょっと戸惑いながらわたしは正直に答える。

「まだ、です。なんか、この先の展開をどうするか悩んじゃってて……」

「成程」

「でも……これじゃ、もう、続きなんて」

 ぐちゃぐちゃにされたページを見つめてつぶやく。どうしてここまでされないといけないのか。ここまでめちゃくちゃにされた物語の続きを書くことに意味はあるんだろうか?

 さっきたくさん泣いたせいか、涙は出ない。でも、全身から力が抜けていた。

「もう、いい――」

「書かないつもりか!?」

 男性が立ち上がってこちらに身を乗り出してくる。わたしはのけぞるように彼から距離を取る。

「だ、だって」

「何があったのかと思って聞けば非常に下らない、矮小な人間の嫌がらせではないか。たかがそんなものに負けて筆を折るのか」

「え、え、っと……」

 なんだか圧がすごい。

「ここに! 君の紡ぐ物語の行く末を見届けたいと望む読者がいるというのに!? 君は読者よりもそんな者共に影響を受けるのか!?」

「ど、読者……読者、なんですか?」

「読者だ。私の存在で足りぬと言うなら、あと何をすれば君は書く気になる? そのノートを捨てた者共を消せばいいのか?」

「けっ……? 消す? い、いや、怖いこと言わないでください、というかそんなことできないくせに……読みたいって言ってくれるのはすごく嬉しいんですけど、でもごめ――」

「消せるが?」

 突然、男性がわたしのすぐそばに来た。足音もなく、滑るように。ひっ、とわたしの喉が鳴る。

「消せる。もっと分かりやすく表現するなら、殺せる」

 低い声。男性の指が、わたしの首を這う。

「私からすれば、一挙両得だ。小説というもの――作家の魂の結晶を毀す不届き者を排除できる上に、腹も満たせるのだから」

「……っ」

 意味がわからない。声が出ない。

「それとも――君が私の餌食になるか? 侮られたと思っても相手に一矢報いる気概も無く、ただ無駄な涙を流して魂の結晶を諦めるのならば、それは作家ではない。その命に最早意味は無いだろう?」

「……っ……」

「選びなさい。君が死ぬか、君の作品を毀した者たちが死ぬか。……私としては、後者の方が腹が満たされるから都合がいいが」

「……あ、あなた、何なんですか……!?」

 やっと絞り出した言葉に、男性はこともなげに答える。

「何かと問われれば吸血鬼だ」

「……は?」

 吸血鬼? ってあの? だから、消すとか殺すとか、腹がどうとか言ってたの?

 いやでもまさか吸血鬼なんているわけない、単にそういう設定の人なんじゃ? あ、でも、確かにこの白い髪とか赤い眼とかそれっぽいかも……?

「……吸血鬼ってことは牙あるんですか?」

「あるが普段は隠している」

「わたしの血を吸うためにおびき寄せたんですか?」

「違う。招き入れた理由は先刻も言った通りだ。食糧ならばわざわざこんな手段を取るほど困ってはいない。それでも新鮮なものは貴重だ、この機を逃すつもりはない」

「……吸血鬼に血を吸われた人も吸血鬼になるんですか?」

「それは無い。単純に、致死量以下なら死にはしないが失った血液量に応じた症状は出るだろう。致死量なら死ぬ、それだけの話だ」

「……吸血鬼が太陽の光とか、十字架とかニンニクに弱いのは本当ですか?」

「先手必勝、殺される前に殺す気か?」

「いえ、単なる質問です」

「ほーう」

 男性は何かを見定めるようにじろじろとわたしの目を覗き込み、やがて、何が面白いのかふっと口角を上げた。指がわたしの首から離れる。

「……太陽の光は、全く駄目というわけでもないが苦手だ。十字架やニンニクは、私は問題ない」

「そうなんですか。じゃあ、杭で心臓を貫かれたら死ぬっていうのは本当ですか?」

「質問の文章を推敲しなさい。杭で心臓を貫かれたら君だって死ぬだろう。貫かれる以外では死なないのか? が正しいのではないか?」

「あ……そうですね」

「詳細は黙秘するが、死に至る原因は人間より少ないだろうな」

「ふわっとした答えですね……。あ、じゃあ、コウモリに変身は?」

「私はできない」

 さっきから答えに迷いがない。かなり設定を作り込んでいるらしい。そっか、そこはできないってことにしてるんだ、やっぱり変身ってリアリティないのかな……と思っていると、男性が「だが」と付け足す。

「どうせ、古来、人間の物語の中で好き勝手に描写されているのだから、君が君の物語において理想通りの吸血鬼を描いたところで誰も文句は言うまい」

「……え?」

「何だ? 今の質問攻めは、『小説のネタ』にするための取材ではなかったのか?」

 男性はやっぱり笑っていた。

「いえ、そういうわけじゃなく、て……」

 続きは口から出てこなかった。言われてみて気付いたけど、確かにわたし、途中から、ドラゴンを連れた主人公と吸血鬼が出会ったらどうなるのか、そんなことを考えていたから。

「…………はい。そういうわけでした」

「ははっ。何だ、君はまだちゃんと作家だな」

「あの、わたし、作家じゃないですよ?」

「作家だろう。職業作家だけを作家と呼ぶのではない。自分の心身を、魂を削って何かを生み出す者のことを、作家と呼ぶのだ。そして作家は、そういうふうにしか生きられない生き物の筈だ」

「そういうふうにしか、生きられない……」

 そうなのだろうか。わたしにはよくわからない。本が好きで、物語の世界が好きで、自分でも書いてみたくて書き始めただけで、生き方とか、そんなに深く考えたことがない。

「分からなくてもいい。君がその作品を書き続けるならば、君は作家だ。そして、私はその作品の読者だ。君が作家であることを放棄しないのならば、私は君を食糧とは見ない」

「ありがとう、ございます……?」

 とりあえず命の危機? は脱したのか? いや、まさか本当に吸血鬼なんてことはないと思うけど。というかこれはお礼を言う場面なのだろうか? ちょっと混乱しているわたしの顔を、男性がまた覗いてきた。

「本当に放棄しないか? 最後まで、その物語を諦めないと誓えるか? 中身をろくに見る気もなく、自分の感覚から外れているからと嗤うだけの愚者に何を言われても、書くことを止めないと誓うか?」

「……ふふっ」

 男性の圧の前で、わたしは気付いたら笑っていた。矮小な人間とか、愚者とか、さっきからあの人たちのことをさんざんな言いようである。こっちは、その人たちから向けられる悪意に神経をすり減らしているっていうのに。

「何を笑っている。泣いたり笑ったり忙しい人間だな。誓うかと聞いている」

「……はい。がんばります、ふふ」

「怪しいな……」

「本当ですよ。……あ、でも、塗りつぶされたところを元通りに直せるかは自信ないんですけど……」

「元通りでなくてもいいだろう、この機に修正して磨きをかければ」

「読者厳し……」

「甘えるな」

「……まあ、はい、がんばります。……あ、もし、まだ書けてなくても、吸血鬼についてまた話を聞きたくなったら、ここに来てもいいですか?」

 かなり設定を作り込んでいるようだから、わたしの考える吸血鬼像とは違っても、参考になるかもしれない。そう思って聞けば、男性は少し考えてからうなずいた。

「……いつ来てもらっても構わないが、ここは空き家だと思われている方が都合が良い。他の人間に見られないように注意してくれ」

「わかりました」

「それから君が愚者共の非道を腹に据えかねて、食糧を提供する気になった時も来てくれて構わないぞ」

「……わかりました」

 もちろん、そんなつもりないけど。うん。そんなつもりはないけど。っていうか本物の吸血鬼でもないだろうし、連れてきたところで何かがあるとも思えないけど。

「……あ、そういえばこのハンカチ、洗って返――」

 言いかけたとき、背後から、ほっほー、のような、かっこー、のような、そんな音がした。なんとなく柔らかい音。振り向けば、壁に掛けられた鳩時計の音らしかった。

「……えっもうこんな時間!? か、帰らないと!」

「ああ、そうか」

「えっと、ハンカチ洗って返します! 早めに持ってくるつもりですけど、すぐ必要ですか!?」

 立ち上がってカバンにノートを入れながら聞く。

「いや。むしろ捨ててもらっても構わないが」

「そういうわけにはいきませんから返しに来ます!」

 ハンカチもカバンに押し込む。

「じゃ、すみません失礼します――」

 一度お辞儀して男性に背を向ける。そこでまた「君」と呼ばれた。忘れ物? と思って振り向く。

「そういえば名を聞いていない」

「ああ……そういえば」

 お互い名乗っていなかった。

「わたしは、畑野……」

『畑野さんって下の名前ありさって言うんだ? えーなんか、やたらとかわいいねー』

「……畑野ありさ、です」

「ノアベルト・ブラウンシュヴァイクだ」

 わたしの名前にはとくに反応を示さず、男性が名乗る。

「……よろしく」

「あ、よろしくお願いしますっ。えっと、じゃあ、ありがとうございました、おじゃましました」

 わたしはもう一度お辞儀してから洋館を出た。日暮れが早くなって、外はもうすっかり暗くなってしまっていた。慌てて自転車のライトをつけて、サドルに跨がる。

 幽霊屋敷の庭に侵入して、さらにのこのこと家に上がり、家主とちょっと仲良く……仲良く? なって出てきたなんて、あの人たちに言っても信じないだろう。言うつもりもない。

 帰ったら、ご飯食べて、お風呂入って……ハンカチ、洗濯機に入れて……数学の宿題だけ出てたからさっさと片付けて、それから……それから、書こう。わたしの物語の続きを。

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