雲の死体群

ブーツ

雲の死体群

 今日もまた死体が落ちてきます。厭な気分というわけではありませんが、外に出るのは憂鬱です。


 私は扉を開けてすぐ鼻腔をツンと刺す磯の香りに頭をさせましたが、しかしいつまでもしたままではいられないので、私は今日も傘を差してこの死体の雨をかき分けて進んでいきました。


 バサッ。そんなふうに音を立てて己の翼を広げた傘は意気揚々と死体たちを跳ねさせては楽しげな音を立てています。それを見ている私はなんとなく複雑な思いを抱きました。


 この傘の翼というものは難儀なものでして、まあ彼らのおかげで私は死体の降る中でも外に出歩くことが出来ますから、私は彼らに感謝するべきであるというのは重々承知しています。ですが、私たち、いや、ほかの翼を持つ者たちよりも早く老いゆく存在であることに不満を感じたことは一度や二度ではありません。それなりに場所も取りますし、電車などに乗る時はびしゃびしゃのまま持っているせいで逆に私たちの服を濡らしてしまうなんてのも珍しくもないことも特筆すべきでしょう。


 しかし、そんな私の心境もどこへやら。死体たちも傘の上に落ちるのが楽しいのでしょうか、彼らは傘の端っこの骨が飛び出た辺りにしがみついて遊んでいるようです。私はあまりそれが気に食わないので、前見て後ろ見て人がいないのを確かめてから傘をくるくる回して死体たちを振り落としました。死体達は遠心力とも協力しながら横に広がり、黒ずんだアスファルトの上におっこちました。


 自分たちの遊びを邪魔されてもなお死体たちはきゃらきゃら笑いました。そんなふうに身を捩って笑ったものなので、いつのまにか現れた水たまりには波紋が幾つも立ちました。私は水たまりという集合体は総じて鏡のような水面を自慢に思っていると知っていましたから、はてこの人らはこれでいいのかなと思い傘を差し出しました。私の髪や服の間を死体たちが通り過ぎていきますが、まあそれは御愛嬌ということで。


 そんなふうにして幾ばくか経った頃、私はなんとなく水たまりが不満げに私を見返しているような気がしました。そうっと、うっかり他の水たまりを蹴ってしまわないように傘を戻してすぐ水たまりには波紋が散り始めましたが、彼らは意外にも嬉しそうな雰囲気で死体たちを見ているものでしたから、私はびっくりしてしまいました。


「あなたはそれでよろしいのですか?美しい水面が台無しになってしまいますよ」


「ええ、ええ。私たちが常に水面を磨いているのは、まさにこのためですからね」


 まさにこのため?


 うーんと唸ってしばらく考え込みました。その時の私にはどうも言葉の意味がわかりませんでしたが、今こうして筆を執っている私はかつての自分の取り違えを少し恥ずかしく思えています。


 彼らが水面を磨いているのは自分のためでも、はたまた私たちのためでもない。ほかでもない、いつか落ちてくるだろう死体たち……つまり自分の友人のために水面を磨いていたんだ、と。ひと足早くこの世界に落ちてきてしまった雨たちは、自分の友人たちが自分たちのように死んでしまってはいないかが気がかりなのでしょうね。だからこうやってひとかたまりの集団を形作ったのかもしれません。皆で声を合わせて、自分はここだと叫ぶために。その叫びが水面の美しさとして現れたのだと、そう考えると彼らの健気さは私たちも見習うべきではないかと思えてきます。


 道のりが目的地に近づくにつれて、次第に雨足は強くなっていきました。漂う磯の香りも強くなっていきました。幸いにも私は一人ではありません、周囲のどくだみやいちょうも磯の香りを吸っていましたから、わたしは彼らの吐息にすることはあっても磯の香りですることはありませんでした。とはいえ、ホワイトノイズというべきでしょうか、そんなザアザアといった音も死体の数が増えていくにつれ膨らむように大きくなっていきます。その音の大きさは一人でも二人でも変わることはありません。


 私は空を見上げました。今日は一段と降ってくる死体の数が多いように感じます。かわいそうに、今日は死んでしまった雨たちが特別多かったのでしょうね。私には雨たちの弔い方を知る事あたいませんが、私なりに彼らへ哀悼の意を示したいと思ったので、傘を閉じ、近場の大きな水たまりに手を合わせました。水たまりはゆらゆら水面を揺らめかせました。傘は落とし損なった死体をぽたぽた垂らしています。


 雨たちの奏でる再開の歓声と死への嘆きを背後にやり、私は目的地にたどり着きました。この道が終わってしまった寂しさと、これ以上歩く必要がないことに対する喜びがないまぜになったこの心地は達成感と呼ばれるものなのでしょうか。


 死体たちに手を振って別れた後、私は傘を閉じました。もう少し羽ばたいていたかったのか傘がなかなか上手く閉じてくれないのを、なんとかなだめすかして閉じて傘立てに差しました。帰りにも死体がまだ降っていたなら羽ばたけるので、そう悲観することもないと思っていますが、それでも彼らは羽ばたきたいのでしょう。


 その後、ついに一人きりになった私が靴を脱ぐと、足下が濡れていることに気がつきました。私も気をつけてはいたもののあの雨足でしたし、うっかり死体が私の足下に転がり込んできてもおかしくないことに今更ながら考えが至り、思わず私は呆れてしまいました。彼らが成仏するまでの間、この不快感に耐える他ないのでしょうね。

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