第7話 「動いた」
「……何、言って……るの」
詩織の声は、自分でも驚くほどか細く震えていた。 暗闇の中、体育座りをしていた美咲が、ぎ、ぎ、ぎ、と軋むような音を立てて立ち上がる。
「美咲……?」
おかしい。 美咲は、そんな音を立てるほど古い木の人形ではない。 それなのに、まるで関節が錆びついているかのように、立ち上がる動作一つ一つが、不自然に途切れる。
「お姉ちゃんも、一緒にやろうよ」
美咲は、あの満面の笑みのまま、詩織に一歩近づいた。 暗闇に慣れた目が、美咲の隠していた「背中」を捉える。
美咲は、両手を後ろで固く組んでいた。 いや、違う。 両手の指を、ありえない角度で絡ませ合い、まるで一つの肉塊のように固定している。
「いや……いや、美咲、やめて! 出るよ! こんなとこ、出よう!」
詩織は、本能的な恐怖に突き動かされ、妹の腕を掴もうとした。 その瞬間。
「じゃあ、始めるね」
美咲は、詩織の言葉など聞こえていないかのように、くるり、と背を向けた。 押入れの方を向く。 昨日、詩織がベニヤ板で塞いだはずの、あの暗い闇の「空間」に向かって。
そして、あの甲高い、テープで聞いた少女(カナ)の声で、歌うように詠唱を始めた。
「だーーるまさんがーー……」
(ダメだ)
詩織の全身が粟立った。 (逃げないと)
足が、コンクリートに縫い付けられたように動かない。 声が出ない。 金縛りだ。
「こ・ろ・ん・だ!」
美咲が、勢いよく振り返った。 暗闇の中、爛々と光る目と、引き裂かれたような笑顔が、詩織を真正面から捉える。
「……」 「……」
詩織は動いていない。 指一本、動かしていない。 呼吸すら、止めている。
ルールは知っている。動かなければ、捕まらない。
シン、と静まり返った部屋。 美咲は、詩織をじっと見つめたまま、動かない。 やがて、その裂けた口が、さらに大きく歪んだ。
「お姉ちゃん」
「"動いた"」
(動いてない!) 詩織は心の中で絶叫した。 (私は、一歩も、ここから動いてなんか……!)
「だめだよ、お姉ちゃん」
美咲は、ケタケタと喉を鳴らした。 「ちゃんと、ルール、守らないと」
「……なにが、なにが動いたって言うのよ……!」 詩織は、絞り出すように言った。
美咲は、答えなかった。 ただ、その爛々と光る目で、詩織の足元を、楽しそうに見つめている。
詩織は、恐る恐る、自分の足元に視線を落とした。
「あ……あ……」
乾いていたはずの、和室の畳。 その上に。
自分の背後——つまり、和室の入口である廊下の暗闇から、自分の立っている場所まで。 まるで、びしょ濡れの誰かが、さっきまで自分の真後ろに立っていたかのように。
小さな、小さな、水浸しの足跡が、点々と続いていた。
そして、その足跡は、詩織の靴下の爪先を、じっとりと濡らしていた。
"鬼"が振り向いた瞬間。 詩織の背後にいた"何か"が、詩織の体に触れた。
だから、詩織は「動いた」。
捕まった。
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