第25話

店内を見渡すと、ほとんど客がおらず、4人組グループのみが席に着いていた。

だが、なぜかその4人がそろって川島のほうを見ている。

人にじっと見られるのは誰だっていい気分ではない。川島は視線を避けるように、入り口近くの一番遠い席に腰を下ろし、4人に背を向ける形で西山らしき人物が現れるのを待つことにした。

コーヒーでも頼んで落ち着こうと、メニューを探したが、テーブルには置かれていない。

仕方なく、おばあちゃん店員に向かって「メニューをお願いします」と静かに声をかけた。

その瞬間、川島の背後で椅子が「ズズッ」と音を立てて引かれた。

誰かが立ち上がり、ゆっくりと出入口の方向へ歩いていく……ように思えたが、足音は突然、川島のテーブル脇で止まった。

川島はわずかに警戒しながら、そっと目だけを動かして相手の足元を確かめた。

ダークブラウンの革靴。ダークグレーのスーツ。男性だ。

「川島君」

男は静かに、しかし確信めいた声で呼びかけてきた。

川島はその声に導かれるように、ゆっくりと顔を上げた。

「私のことを覚えていますか? 昨日、ここで——私と、そして向こうの三人と話をしたことを」

男はそう言って、後ろの席を指差した。

川島は戸惑いながらも視線を後ろへ向ける。

先ほどと同じ3人が、変わらぬ姿勢でこちらを見つめていた。

——昨日?

何のことを言っている?

自分は昨日、この店には来ていない。

この男も、後ろにいる三人も見覚えはない。

そもそも、この男はなぜ、自分が「川島」と名乗ろうとしていることを知っているのか。

頭の中で疑問が増えていくのを感じながら、川島は再び前を向き、男の顔をまっすぐ見上げた。

「私の名前は、西山と言います。……川島君は、きっとまた記憶が無くなってしまったんですね」

——西山。自分が会わなければならない人物。

川島の心臓は急に慌ただしく動き始め、頭も少し重くぼんやりとしてくる。

「自分からのビデオメッセージを見て、ここに来てくれたんですね? 記憶が無くなる可能性を考えて、昨日、君自身に“自分宛”のメッセージを録画してもらったんです。」

西山はありきたりの常識を語るかのように淡々としていた。

しかし川島には、その言葉の意味がまったく理解できない。

必死に昨日の記憶をたどってみる。

けれど、頭の中には空白ばかりが広がり、西山の話と結びつく断片は一つも浮かんでこなかった。

川島は言葉を返すこともできず、ただ黙って西山を見上げるしかなかった。

「今の君が、急にこんなことを言われて戸惑っているのはわかります。だから——彼らと一緒に、もう一度私の話を聞いてほしいんです。」

西山は背後の三人に目を向けてから、静かに続けた。

「君にとっては、記憶が無くなっている以上“初めて聞く話”になるかもしれません。でも、それを聞いた上で、私を信じるかどうか……自分で判断してほしい。」

押し付けがましい言い方ではなかった。

それでも、川島にどうしても話を聞かせたいという強い思いが、西山の声の奥に滲んでいた。

今朝、ビデオカメラの映像で見た話は——本当だった。

午前10時、確かに“西山”という男はこの「サフラン」で待っていた。

そして、ここまで来た川島には、もはや選択肢は一つしかない。

西山の話を聞き、今朝から続く不可思議な出来事を、自分の理解できる形へと繋ぎ合わせる。それが目的でここへ来たのだ。

ビデオの中で、自分自身が「真実を突き止めてください」と訴えていたではないか——。

川島はもう一度、西山の顔をしっかりと見た。

そして、静かに頷き、ゆっくりと立ち上がる。

西山は安堵するように微笑み返し、川島を3人の座るテーブルへと案内した。

テーブルの傍に立った川島を、3人は相変わらず真剣な眼差しでじっと見つめていた。

そのうちの一人が、不意に口を開く。

「お前……本当に、昨日のことを覚えてないのか?」

声の主は川島と同じくらいの年齢の青年だった。整った顔立ちの美男子のはずなのに、その表情は生気を欠き、深い疲労が滲んでいる。

川島は、その問いに短く答えた。

「……何も、わかりません」

他の二人——男女の若者も同年代に見えたが、やはり彼らの顔にも同じような憔悴の色が浮かんでいた。

「ここでは他のお客さんも来てしまうでしょうし、席を移しましょうか」

西山はそう言うと、新聞を読んでいた店のおばあさんに向かって「南さん、上、使ってもいいですか?」と天井を指差しながら声を掛けた。

おばあさんは新聞から一瞬だけ目を上げ、「ああ、どうぞ」と短く答え、すぐにまた活字へ視線を戻した。

西山に促され、川島と3人は店の奥の階段を上り、2階へ向かう。階段の入り口には「従業員以外立入禁止」と書かれた張り紙が貼られている。

階段を上がると、一階と同じ型のテーブルが二つだけ置かれた、広々とした空間に出た。カウンターがない分、フロア全体ががらんとしている。奥の隅には、雑多な荷物が積まれ、物置のようにも見えた。

西山はそのうち一つのテーブルを四人へ示し、全員が椅子に腰を下ろしたのを見届けると、隣のテーブルから自分用の椅子を引いてきた。

その様子を見ていた四人の顔に「ここは西山の所有なのか?」という疑問が浮かんだのだろう。西山が説明を加えた。

「ここは私が、この店のおばあさんに貸しているんです。もともとは父の所有していた物件で、父が亡くなってからは、私が引き継ぎました。おばあさんの旦那さんが生きていた頃は、この二階も店舗として使っていたようですが、おばあさん一人になってからは、物置兼、従業員の控室のようになっているみたいですね。」

そして、ふと視線を唯一の女性に向ける。

「鈴鹿さんも、ここを使っていたんですか?」

にこやかに問いかける西山に、鈴鹿は少し緊張した様子で答えた。

「あ…はい。休憩のときや、ごはんを頂くときには、この部屋を使わせてもらっています」

西山は軽く頷き、自分の椅子に腰を下ろすと、手にしていたビジネスバッグをそっと横に置いた。

一息ついた西山は、表情をわずかに引き締め、川島たちに向き直った。

「昨日、私は皆さんの“過去”について――すべてではありませんが、一通り説明しました。その中で、皆さんが“定期的に記憶を喪失してしまう”という話もしましたね。今日の川島君の様子を見れば、あれが事実だということを分かってもらえると思います。これは川島君だけではなく、皆さん全員に起こっていることです。今は、だいたい数週間から一ヶ月に一度の頻度で記憶が抜け落ちているようなのです。」

西山は四人を見回しながら静かに告げ、それから川島の方へ視線を移した。

「川島君。自分が“記憶を喪失した”という自覚はありますか? つまり――昨日、自分が何をしていたのか、きちんと思い出せますか?」

川島は、正直に自分の感じていること話した。

「僕は……昨日一日の記憶はちゃんとあります。でも、その中には、この場所に来た記憶はありません」

他の三人はその答えを固唾をのんで聞いていたが、誰も口を挟もうとはしなかった。

西山は軽く頷き、少し考える素振りを見せてから言った。

「なるほど……。記憶がどのように消えているのか、私にも細かい仕組みは分かりません。ただ――おそらく“抜け落ちた部分”を埋めるために、君自身が“空想で作り上げた記憶”をそこへ当てはめてしまうのだと思います」

川島には、その説明を聞いてもなお、何一つ腑に落ちるものがなかった。

西山はさらに言葉を続けた。

「川島君にも昨日、私の知っている“あなた達の過去”について話したのですが……。今の君には、その記憶がまったく残っていませんし、それに私のことを完全には信用できていないように見えます。――どうでしょう、昨日の話をもう一度聞いてくれませんか?」

どんな内容を聞かされるのか、川島にはまるで見当がつかなかった。だが、西山の問いには、頷く以外の選択肢はなかった。

西山はその返事を確認すると、すぐに椅子の横に置いていたビジネスバッグから黒い小型ノートパソコンを取り出した。

「昨日、私が皆さんに話したことを、最初から最後までビデオに収めてあります。だいたい一時間ほどの映像です。それをもう一度、川島君にも見てもらいたい。他の三人にとっては同じ内容の繰り返しになってしまいますが……構いませんか?」

視線を川島から三人へ移し、静かに反応を待つ。

三人は互いに目を合わせることなく、ただ無言のまま頷いた。その表情には、諦めとも覚悟ともつかない陰が落ちていた。

西山は軽く息を整え、ノートパソコンを開いて電源を入れた。パスワードを入力すると、鮮やかなデスクトップ画面が立ち上がる。彼はそのパソコンを四人全員が見えるテーブル中央に置き、デスクトップにあった“昨日の日付”の動画ファイルをクリックした。

画面が一瞬暗転し、すぐに動画が再生される。

映像の中には、確かに川島自身が映っていた。川島だけではなく、西山を除く三人の姿もそこにあった。

場所は、この喫茶店の一階――ただし、今よりも店内がわずかに暗い。夕暮れか、外の光が落ち始めた時間帯のようだ。

ほどなくして、西山が画面外から現れ、椅子に座り、四人の方に向き直った。

カメラに背を向けて座ったため表情は見えないが、声の調子も、落ち着いた動きも、今と変わらない。一方、映像に映る四人の顔には、いずれも明らかな動揺と緊張が浮かんでいた。

そして――映像の中の西山が、ゆっくりと語り始めた。

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