第8話
二人が店を出ると、外はもう夕暮れになっていた。
川島は涼しくなった外気を胸いっぱいに吸い込んだ。
夕暮れの風が肌に触れた瞬間、現実のざらついた温度をはっきりと感じ、目の前の喫茶店の出来事が、本当に現実だったのかどうか、自信が持てなくなっていた。
この中での出来事は風変わりな夢か何かだったのだろうか?
川島はもう一度、自分たちが出てきた店のドアを見つめた。
銭形が自分をどこまで知っているのか確かめるつもりで入ったはずだったが、不二子と話しているうちに、そんな目的はすっかり薄れていた。
結局、銭形は自分を追及する気はないらしい。その点は心配ない。だが、彼の頭の中では、自分が“次元大介”ということになっている。
不二子はあの様子からして、銭形に付き合わされているだけの被害者だろう。
いちばん気をつけるべきは銭形だ。多分、もう自分のアパートの場所も知られているに違いない。この男とは、上手く距離を置かなければならないだろう…。
「じゃあ、僕は帰ります」
川島は少し素っ気なく言った。
「それじゃ、俺も帰るとするか」
銭形が同じ方向に歩き出した。
「銭形さんの家って、こっちなんですか?」
「ああ、そうだ。お前の家の近くだ」
「ええ…?そうだったんですか?」
「すごい偶然だよな」
銭形は笑った。
「はあ…」
川島は仕方なく、同じ方向へ歩き出した。
銭形は、特に川島に話し掛ける様子もなく、ただ黙って歩いていた。
川島はその沈黙が何となく居心地が悪く、話題を探すように口を開いた。
「あの…、不二子さんって、マスクを取ったらどんな感じなんですかね」
「ん?お前がどうして不二子の顔を覚えてないんだ。まさか、あいつの顔まで忘れちまったのか?」
「ええ、まあ、なんだか思い出せないんですよ。」
「お前、相当重症だな。」
銭形は肩をすくめた。
「峰不二子といえば、男を次々と手玉に取る女だからな。顔はもちろん、美人だよ」
「やっぱり…。目は綺麗だったし、声もすごく素敵な人でした…」
川島は、あの透き通るような声を頭の中で反芻した。その瞬間、体の奥に小さな電気が走るような感覚があった。心地よいしびれだ。
気が付くと、銭形がじっとこちらを見ていた。
「お前、まさか不二子に惚れちまったんじゃないだろうな?」
「ま、まさか。そんなんじゃないですよ。ただ、すごく感じのいい人だなと思っただけですよ」
銭形が「あやしいな」という顔を向けたが、川島はとぼけて笑ってみせた。
正直なところ、川島の胸はざわついていた。
顔もはっきりと見えていたわけではないし、どんな性格なのかもよく分かっていない。それでも、その雰囲気や立ち振る舞いには不思議な魅力を感じていた。
「だけど、あいつはやっぱり男を惑わす女だ。」
銭形はぼそっとつぶやいた。
「そうですか?そんな風には見えませんでしたけど…」
「あいつ、ルパンが死んだばっかりだというのに、もう他の男とくっついているぞ」
「え?!男って…。彼氏ってことですか?」
「まあ、そうだろう、一緒に住んでるしな。」
「そ、そうなんですか…」
川島は、一気に寒くて暗い箱の中に突き落とされたような気持ちになった。
銭形は、そんな川島の落胆にも気づかずに、のんきに話し続ける。
「だけど、あの男は、どう考えても不二子のこれまでの男のタイプとは違うんだよな。金も持っておらんし、太ったガマガエルみたいな奴なんだぞ」
「そ、そうなんですか…」
あれだけ美人だったら、彼氏の一人くらいいるのは普通かもしれない。川島は、これまで自分の仕事一筋でやってきて、そのことに幸せを感じていた。だから、大人の女性を気に掛けたことなんて一度もなかった。もしかしてこれはサンタクロースの初恋、そして、一瞬での失恋決定…。
「お前どうした?」
銭形が川島の顔を覗き込んでくる。
「顔色悪いぞ。」
「ああ…、ちょっと、気分が急に悪くなって…」
「大丈夫か?毎日動物園なんて行ってないで、たまにはゆっくり家で休めよ」
銭形は無神経なやつなのだ。
その銭形はさらに続ける。
「ただ、不二子の事は少し心配だな」
「え…、どうしてですか?」
「その貧乏ガマガエルに、完全に振り回されてる。それに――多分、暴力を受けてるぞ、あいつは」
「……なっ、何だって?」
あの不二子さんが――ガマガエルに暴力を?
その頃、不二子――いや、今の彼女、シンデレラは、客のいなくなった喫茶店で、今日やって来た少し変わった二人組のことを思い返していた。
昨日、そのうちの一人、銭形と名乗る男に、自分が“シンデレラ”だと口を滑らせてしまった。あのときのことを、今さらながら後悔している。
銭形があまりにもしつこく自分を『峰不二子』だと言い張るので、つい苛立ってしまい、思わず自分の素性を話してしまったのだった。
あのとき、どうしてあんなことを言ってしまったのだろう。
本当に、話さなければよかった。
そのせいで、心の奥にしまい込んでいた記憶が、静かに目を覚ましてしまった。
あの温かい日々も、忘れたかった夜も――すべてが蘇ってきた。
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